幕末に至り、町端の町内で武家地の屋敷割りが新たに行われた。「国日記」文久二年(一八六二)四月二日条によると、茶畑町と古堀町の裏通りに茶畑町新割町と古堀町新割町が町割された。富田新町・新品川町・新寺町新割町なども慶応から明治初期にかけてできた侍町である(『新撰陸奥国誌』)。万延二年(一八六一)には江戸定府藩士の中の帰国者のために、元大矢場(南溜池畔)・品川町裏通り・塩分町に長屋が建設された。
これに先立つ文化期では、同四年(一八〇七)に城下の町々を一丁目・二丁目に分けることが行われた(前掲『弘前城下史料』上)。また藩では同七年(一八一〇)四月に、天守閣(辰巳櫓)の再建に着手し、翌年三月に完成している(第四章第三節二参照)。これは、蝦夷地警備の負担や一〇万石高直りなど一連の動きと関係したものであった。
また、天保年間(一八三〇~四三)の「弘前絵図」(『絵図に見る弘前の町のうつりかわり』一九八四年 弘前市立博物館刊)によれば、城下の町並みにほとんど変化はないが、春日祠(春日神社)の近くに星場道(鉄砲射撃練習場)と御菜園があり、藩主の別邸である富田御屋敷もみえる。そのほか、北新寺町が武家町になっているなどの変化がみられる。その後、安政五年(一八五八)には古学校(旧稽古館)構内に医学校が創立されたほか、文久二年(一八六二)には同じく練武場(翌年、修武堂となる)も設置された。
一方、文久二年の「御城下市中大略」によると、幕末の弘前城下は次のとおりであった。南北一八丁余、制札場は本町・東長町・土手町・和徳町・亀甲町・紺屋町の六ヵ所、町端の桝形は富田町・和徳町・紺屋町・樹木派(はだち)の四ヵ所、米倉は和徳町の東御倉、東長町の北御倉、亀甲町の亀御倉の三ヵ所、炭倉・柾木舞土場は鍛冶町土場丁、蝋燭倉は森丁、流木役所は駒越土居樋口村、焔(えん)(塩)硝(しょう)(火薬)製所は田町・堅田村の二ヵ所、牛皮馬皮役所は堅田村、時鐘櫓は森丁にあった。常芝居は茂森町広居の喜太夫座で開催された。このほかに諸士水練場は岩木川駒越町の土居下、同馬芸習練場は馬屋町の三御馬屋馬場、鉄砲場は春日町の春日神社の境内、同大星場(大砲発射練習場)は常盤坂の千本杉と石森の間、矢場は南溜池沿い新寺町の白狐寺のわき、刑場は富田町の町端取上領にあった(前掲『弘前城下史料』上)。