弘化元年(一八四四)十二月、一一代藩主津軽順承(ゆきつぐ)は従四位に叙せられ、正式に藩主としての体裁を整えた。順承はすでに天保十年(一八三九)に隠居した一〇代信順の後を受けて藩政を主導していたが、以後安政六年(一八五九)の隠居まで、二〇年間にわたって幕末期藩政の舵取りを行った。
一〇代信順(のぶゆき)には暗君の評判がつきまとったが、一一代順承(ゆきつぐ)は信順と同年ながらも性行は正反対で謹厳実直、日常も質素倹約を旨としていた。ただ、順承は幕府老中松平信明の三男から黒石藩主になったため、津軽家の血統を引いていなかった。この点が後に問題となる。順承の養嗣子承祜(ようししつぐとみ)の急死と毒殺の噂がそれである。
弘化二年(一八四五)、津軽家では四十六歳になる順承にまだ男子がなかったことから、養子を誰に決定するかで論議が起こった。すでに前年、万一の事を考えて幕府には仮養子として津軽家一門の津軽直記順朝(ゆきとも)の長男武之助を届け出ていたが、そろそろ本養子として承認を得る必要が生じていた。しかしこの段階になって隠居中の信順がそれを拒否したことから騒ぎは始まった。困り果てた順承と家老大道寺族之助(やからのすけ)ら重臣は津軽家が宗家と仰ぐ近衛家に事態打開を求め、近衛忠熈(ただひろ)はそれに応じて、信順に津軽家の血を引く武之助を世継ぎとすれば先祖への孝養になるとの口上書を発した。信順はこれを受け入れ、弘化三年、武之助は正式な養嗣子と認められ、名前を承祜と改めた。
これで一件は落着するかのように思われたが、安政二年(一八五五)七月に承祜が十八歳で急死したことから、その死因をめぐって不穏な憶測が流れた。一説には側近の小姓が桃に砂糖をつけて差し上げた後に容態が急変したことから、毒殺ではないかと噂されたのである。前にも述べたように津軽多膳派と笠原近江派の派閥抗争は安政期にも政局の底でくすぶっており、決して藩は一枚岩として固まっていたわけではない。さらに養子決定時のトラブルが疑惑を増大させたのである。しかし、津軽家が近衛忠熈に宛てた書状によると、七月上旬に承祜は風邪をひいて熱を出し、食事がとれない内に脚気(かっけ)を併発して手足が麻痺し、下旬には重態に陥ったことが報告されており(「雑事日記」安政二年八月二十三日条)、毒殺とは考えにくい。ともかく、この後新たに嗣子を定める必要が生じるが、それも決して穏便に決定したのではなかった。
さて、一一代順承(ゆきつぐ)の時期は、ペリー来航に代表されるように対外交渉が深刻な問題となったり、安政二年(一八五五)十月に江戸で大地震があったり、内外ともに多難な時代であった。嘉永六年(一八五三)のペリー来航時の動向については第四章第五節に詳しいが、日本の歴史を大転換させたこの事件はいち早く国元に報知され、人々の不安を増大させた。弘前の豪商金木屋又三郎はその日記の中で、アメリカは今後三〇艘ほども黒船を派遣するとか、その国土は日本の一〇〇倍もあり、なかなかの大世界であると驚いている(資料近世2No.一九四)。また、イギリスやロシアなどの西欧列強のアジア侵略に対しても、清国の天子は故地の満州に敗走したが、日本は神威をもって異国船を「鏖(みなごろし)」にできるようにとの江戸の評判を書き留めるなど、大きな関心を示している。
ペリー来航の際、弘前藩では江戸市中に小規模な警備人数を出した程度で済んだが、蝦夷地警備の負担は増加する一方であり、特に安政二年には箱館千代ヶ岱(ちよがたい)と西蝦夷地スッツ(現北海道寿都郡寿都町)に陣屋を建設し、西蝦夷地乙部(オトベ)から神威(カムイ)岬までの警備を任されることとなった。両陣屋には合計三〇〇人の藩兵が派遣され、その人員を確保するために、家中の御持鑓(おもちやり)・長柄(ながえ)の者を足軽に取り立てたり、足軽の家禄を大幅に改善したり、さまざまな手段を講じた。また、領内沿岸の陣屋も新設されたり、警備人数や武器が配置されたりと、藩政の遂行課題は北方警備一色に塗りつぶされていった。南溜池(現南塘(なんとう)町)が拡張されて盛んに軍事調練が実施され、藩主や重臣による武芸高覧が行われたのもこの時期である。こうした蝦夷地警備の負担は藩財政を極度に圧迫していったが、安政二年十月に起こった安政の大地震でも藩邸や藩士の長屋が倒壊し、藩ではその復旧に追われ、財政難はますます深刻化した。さらに、翌三年八月には再建半ばにあった藩邸が大雷雨のため再び大破し、藩士たちの長屋復旧も仮小屋程度にしか進んでいなかった。一一代順承(ゆきつぐ)は安政六年(一八五九)に隠居したが、時代はまさに文久・慶応の激動期を迎えようとしていた。