町方の軍事負担

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市域の新町(あらまち)名主であった今泉万右衛門は「御用留」(弘図岩)という史料を残している。それには明治元年から二年までの町方の様子が書かれているが、戊辰戦争にかかわる実に多くの負担が町民に課せられていた事実が細かく判明する。
 まず、「御用留」に報恩隊という町兵の名称が初めてみえるのが、明治元年八月に藩に届け出た隊中名簿であり(明治元年十二月十三日条)、弘前藩でも町兵の組織が計画されたことがわかる。表16はその一覧であるが、三町全員では一五人の名がみられ、新町から七人、駒越町から四人、平岡町から三人の職人や日雇いなどを出している。表中No.1の中畑忠司は恐らく新町に住む藩士か浪人の次男で、武芸を見込まれて筆頭に据えられた者と推測される。ただ、町兵といってもこの人数のみでは隊成を成さないし、「御軍政御用留」にも軍政局から教官が派遣され、操練が行われた旨の記載や、出動したという報告はみられない。つまり、町兵の場合、他の諸隊と比較してほとんど機能していなかったことがうかがえる。現に万右衛門の「御用留」には隊中の者が無断で訓練に出ず不埒(ふらち)であるとの内容が多く、とても実戦部隊として動員できる状態ではなかったようである。この町兵の組織は翌二年正月にさらに本格化され、町々の火消しの者を一統報恩隊に取り入れたうえで、これまでの火消しを兼任とすること、操練の日割りは追って発表するから、十六歳から四十歳までの火消しは漏れなく、四十歳以上でもなるべく訓練に出るべきことが伝えられている(明治二年正月七日条)。ここから、藩は有事を想定して火消し組を整理のうえ、弘前城下に再配置したが、結果として直接軍事的脅威にさらされなかったため、報恩隊組織も尻すぼみに終わったと考えられる。
表16.町兵一覧(明治元年8月当時)
No.町 名氏 名年齢家業・他
 1不 明中畑忠司20歳中畑忠三郎二男
 2新 町佐助44歳蕎麦屋
 3 〃末吉23歳色継カ,八太郎弟
 4 〃貞作不明
 5江戸町(新町)岩吉19歳日雇,重吉倅
 6 〃福太郎28歳髪結,福蔵倅
 7 〃熊太郎22歳髪結
 8 〃太助25歳蕎麦屋藤助倅
 9駒越町定吉21歳大工,周吉弟
10 〃末之助35歳鍛冶,別名末吉
11 〃健次郎26歳鍛冶,勘太郎倅
12 〃浅次郎24歳魚売,長太郎倅
13平岡町忠八32歳日雇
14 〃勇吉36歳日雇
15 〃常吉18歳日雇,丑太郎倅
注)御用留」明治2年正月10日条(弘図岩)より作成。
表中,不明とは記載がなかったことを表す。


図56.今泉万右衛門の「御用留
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 その他、「御用留」から当時の町民が負わされた負担をみていこう。まず、大きなところでは明治元年十月に軍費二万両が九浦(くうら)・在方賦課され、弘前ではそのうち一二・六パーセント、銀三〇二貫五九二匁を拠出している(明治元年十月十七日条)。また、翌二年二月六日には藩兵の出張宿代として領内から金一万両が徴収されたが、この時も銀一五一貫二九九匁が弘前に割り当てられ(前掲「弘前藩記事」同日条)、新町では一六人の町役で八貫六〇〇目を賄っている(「御用留」明治二年二月十六日条)。さらに、人的負担も大きく、たとえば明治元年十一月に榎本武揚(たけあき)の旧幕府脱艦隊に攻められて、松前藩主徳広(のりひろ)が弘前に落ち延びてきた際、宿所の薬王院には一二人の町名主が詰番として集められ、給仕の下働きとして、二年正月二十六日から二月七日の間に、八町から延べ四〇人の町人が動員された(同前)。また、同三月に入って雪が消える季節になると、それまで動員してきた農兵や郷夫(ごうふ)を農作業のために帰村させざるをえなくなり、箱館総攻撃を目前にした藩ではとりあえず三六九人を弘前や九浦などから補充することにした(同前明治二年三月十三日条)。こうした負担は弘前各町に及び、戦後も人々の生活に多大な打撃を与えた。「御用留」の記載は明治二年八月で終わっているが、冷夏のために収穫が落ち込む見通しが決定的となり、各町挙げて倹約に励むべき藩の令達が収録されており、困難の続く次の時代を暗示している。