さて、この奥羽列藩同盟参加、鎮撫総督軍の領内通行問題、そして、秋田藩境封鎖に至る過程の中で、藩の姿勢をどのように定めるかをめぐり、藩論が決定的に二分したのであった。すなわち、奥羽鎮撫総督の指揮下に入り、官軍と行動をともにするか、東北諸藩と足並みをそろえて、奥羽列藩同盟を貫くかという立場に主張が分かれた。前者を強く主張するのが、実際に出兵をして戦線近くにいた大隊長山崎所左衛門らであり、一方後者は、奥羽列藩同盟の離反とその制裁を恐れる筆頭家老西館宇膳ら藩首脳部であった。その結果、藩の行動も右往左往し、藩内には早飛脚が往来するなど、国中が慌ただしさを感じるようになり、内外に不安と疑念を抱かせる事態となった。
五月十二日、家老、用人たちが藩主承昭の前に呼ばれ、「勤王佐幕之儀」について話し合いが持たれた。しかし、同盟に背反すると、今度は同盟側から制裁を受けることが懸念され、結局、事態は同盟側に沿った方向で推し進められていた。勤皇派は、奥羽諸藩が同盟を結んだのは、会津・庄内の恭順謝罪を嘆願し、和平的な解決を望むためであったのに、特に仙台藩主戦派の勢いに押され、反官軍的な様相が強くなってきたことを指摘し、鎮撫総督軍の通行許可を強く求めたが、意見は聞き入れられなかった(資料近世2No.五二九)。
五月十四日には、仙台から同盟に調印した山中兵部が帰藩し、より詳しい事情を得た弘前藩は、十六日、碇ヶ関(いかりがせき)へ家老杉山上総を派遣して、秋田藩との藩境の街道を伐採した倒木などで封鎖した(同前No.五三〇)。これによって、沢副総督一行の弘前藩への入領を実際的に不可能にしたのである。
十六日、杉山上総・加藤善太夫らが碇ヶ関で同盟に従い、薩長勢を討つように命じたが、こうした処置はその場しのぎの策に過ぎず、大隊長山崎所左衛門や館山善左衛門はこの処断に反対して、急遽弘前城に帰還し、藩主承昭に藩境封鎖を解除するように強く進言した。山崎は実際の敵ならばともかく、官軍に討ち入ることはできないと強く反対したのであった。反官軍的な行動をとることは「狂人之如シ」とまで批判している(同前No.五二九)。
しかし、十七日、山崎らは同盟遵守派の過激な行動を抑えるために、あえて藩境封鎖命令に従った。一方で藤川能登や秋田藩の戸田十太夫へも、藩内で激徒が蜂起したため危険であるという藩境封鎖についての説明が送られ、秋田藩でも大館(おおだて)付近の警備が強化されたのであった。当然、総督軍も秋田藩も弘前藩の動向について不信の念を抱くことになる。そして、沢副総督がこの弘前藩の処置に対して「立腹」したという風聞が藩内に知られるようになっていった(弘前八幡宮古文書「公私留記」明治元年五月条 弘前大学附属図書館蔵)。さらに、十八日にはこの間の事情を説明する書翰が杉山上総ら三人の連名で盛岡藩および仙台藩重役へ送られた(資料近世2No.五三〇)。
やがて、藩内の対立が激化する様相に危機感を抱いた藩では、五月二十一日、徳川家名の存続と諸道官軍の撤退命令が出されたという情報(『弘前藩記事』一)に触れ、重役の面々が登城して評議し、沢一行を通すことを決定した。
結果、五月二十二日に矢立峠(やたてとうげ)の封鎖を解除し、沢為量副総督の領内通行も許諾する通知を送った。使者は銃隊頭館山善左衛門、勘定奉行神東太郎である(同前)。ただし、いまだ同盟を脱退するまでには藩論は統一されていなかった。同盟遵守の方向で行動をとっていた藩の急激な方針転換に関する釈明は、容易には納得されなかったため、弘前藩は総督府および秋田藩に対する必死の弁明を続けた。二十三日には碇ヶ関に詰めていた山崎所左衛門が参謀大山格之助(おおやまかくのすけ)へ書状を送り、藩境の兵を撤退させた旨を伝えた。こうした弘前藩の釈明を沢副総督も一応聞き入れることを認めたのであったが、二十七日には沢副総督からの使者が来て、領内通行が延引になったこと、沢一行は秋田領の能代から出帆する予定であり、もしも天候によりそれがかなわなくなったら、弘前藩の世話になる可能性があることを伝えた。
さらに、この五月下旬には仙台藩を脱した九条道孝総督も盛岡から津軽領を抜けるべく、弘前藩へ転陣を打診してきたが(資料近世2No.五三二)、同藩の藩論がいまだ統一をみないことを懸念した総督府付参謀の判断により、九条道孝総督も秋田にとどまることになった。しかし、全体として考えると、東北地方の鎮圧に新政府が本格的に乗り出してきたことが、大きな理由と考えられる。かくして奥羽鎮撫使一行の九条・沢・醍醐は、そろって秋田に滞在することとなった。なお、奥羽鎮撫総督府は、五月二十九日、奥羽越列藩同盟に加わる諸藩に向けて、同盟離脱を促す令書を出した(資料近世2No.五三三)。また、同日、沢副総督は会津・庄内を征討し、不審の藩についても問罪するとの決意を明らかにしていた。わきを固める軍勢は薩長をはじめとする諸藩からの応援兵を抱えたもので、その勢いは強大であり、また、鎮撫使清水谷公考(しみずだにきんなる)も薩長兵を多く引き連れて松前に渡海していた。