藩境封鎖問題を落着させた弘前藩は、六月初旬の時期を一応戦争が回避されたものと判断していた。時世に応じ、農兵隊の結成と訓練を命じたりもしたが、藩論の決定は先延ばしされた。弘前藩は翌七月に至るまで肝心の藩論を決定することができず、六月十五日には、官軍の証である菊花証旗(錦の御旗)の返納を総督府より迫られる事態とまでなったのであった。藩内は再び緊張の色が濃くなっていった。
こうした状況について、家老から六月二十二日、長柄奉行以上三奉行・御側役・御目付へ藩論の統一に向けて八ヵ条の諮問が行われた(同前No.五三七)。
藩としては、一連の動向からみて、新政府軍に従うことに藩論を統一したかったとみられるが、その諮問の結果、多くは「同盟ヲ履ンテ、官軍ニ抗シ、飽迄モ真正ノ勤王ニ従事セン」(『津軽承昭公伝』)との意見だった。つまり、薩長中心の政府に抗議することこそ、「真正の勤王」であるとの信条があったのである。結局、藩庁は態度表明を先送りした。
このように、閏四月から六月にかけて、弘前藩はその時々の勢力に左右されて藩論を統一することができなかった。京都でも弘前藩が朝敵側についたとみる疑いが強く、事態を憂慮した京都留守居役の西舘平馬(にしだてへいま)は蒸気船を雇い、神戸から急ぎ帰藩した。
七月五日に帰藩した西舘は、朝廷からの勤皇遵守の令書(資料近世2No.五三六)を示した。それは、弘前藩に対して、遠隔の地であるから事情には疎くなるだろうがとしながら、佐幕の疑いがある旨を告げ、道を誤ることのないよう警告を出すものであった。
さらに西舘は、津軽家が宗家と仰ぐ近衛忠熈(このえただひろ)・忠房(ただふさ)父子からの、勤皇に励み、家名を傷つけることのないようにという令書と、岩倉具視(いわくらともみ)からの同内容の書状を持参していた(同前No.五三六)。さらに西舘平馬は、京都で会津・米沢・庄内・仙台藩等、同盟の中心藩が京都役宅を没収されたうえ、入京を禁止され、朝敵となった事実を告げ、政府の勢いが強大である以上、反政府色の濃くなった同盟に固執することの危険性と朝敵となることの意味を強く説いた。ここに至って、日和見的な態度で状況に対応した自藩の危機を実感した首脳陣も、ようやく名実ともに「純一之勤王」、すなわち新政府側に従うことに藩論を統一することとなったのである。
近衛家からの忠告が決定打となり、奥羽越列藩同盟脱退を決めた弘前藩は、即座に関係各藩に同盟離脱を通告(同前No.五三八)した。それまで弘前には、仙台・会津・米沢・庄内藩など奥羽諸藩の使者がたびたび往来していた。さらに藩内には、六月初旬、庄内藩と和親をし、同藩から西洋砲や蒸気船を借り出し、秋田藩を挟み撃ちにする手はずを整えていたのだが、今回立場を明らかにしたので、それらを庄内藩に送り返し、また、仙台藩からも弘前藩の応援として一小隊派遣されていたが、こちらも、理由を説明して引き取りを願ったという伝聞までささやかれていたのであった(八幡宮神社古文書「公私留記」明治元年七月条)。そして、七月十七日に奥羽鎮撫総督府より再び庄内藩討伐応援命令が出ると、これまでの態度を挽回するように秋田藩への応援部隊を派遣した(資料近世2No.五三八)。
こうして藩論が統一されたことで、朝廷(政府)を頂点とする勤皇体制が明確となり、藩としての今後の課題は、そうした権力構造の中で、いかに弘前藩の存在を認めさせるかということに移ってゆくことになる。