近隣諸藩の動向

232 ~ 234 / 767ページ
では、弘前藩と境界を接する近隣諸藩の藩論はどのように定められていったのであろうか。まず、秋田藩については、先述したように、弘前藩とは連絡が密であったが、京都から仙台藩等が朝敵の対象となった知らせを受けて、沢副総督らに続いて六月二十二日に盛岡を出発した九条総督一行を領内へ受け入れる決断を下し、いち早く勤皇を遵奉する立場を明らかにしていた。
 また、海峡を挟んだ松前藩でも、他藩と同様、藩論は紛糾していた。松前藩は背後に蝦夷地を抱えており、大きく注目される状況下にあった。政府は、蝦夷地の警衛に関して、清水谷公考を総督とする箱館裁判所の設置を実行に移した。かくして、明治元年閏四月二十六日、清水谷総督一行が蒸気船を使い箱館に到着する。箱館裁判所は箱館府、総督は府知事と改称されて、五稜郭(ごりょうかく)で旧幕府箱館奉行からの引き継ぎを受け、発足したのであった。

図58.箱館奉行

 松前藩では、五稜郭の警備を請け負うなど、朝廷に対して恭順の意を示していたが、藩主徳広(のりひろ)は病気がちのために、思うように執政を行えず、藩政の実権は、佐幕的性格の強い筆頭家老松前勘解由(かげゆ)にゆだねられていた。そのため、松前藩は、松前勘解由の主導で奥羽越列藩同盟に参加することに決定した。しかし、その一方では、秋田に転陣した沢為量副総督に藩金を献上するなど、やはり、日和見的立場を貫いていた。
 松前藩の藩論を決定したのは、八月に起こったクーデターであった。下級藩士であった松井屯(たむろ)・鈴木織太郎、下国東七郎を中心とする正議隊(せいぎたい)が、箱館知事や江差奉行などの協力を要請し、同志を集めて、藩主へ建白書を提出した。徳広の病状は思わしくはなかったが、家老下国安芸崇教(たかのり)を中心として、松前勘解由ら佐幕派を排除した体制を固めた。両派の武力衝突は避けられなかったが、正議隊の勢いが勝り、松前勘解由らを自刃に追い込んで反政府勢力を退けることに成功し、藩論は新政府への恭順で決定した。
 一方で同盟遵守の方針を決めた藩が、盛岡藩であった。盛岡藩の藩論は、楢山佐渡隆吉を中心とする佐幕派と、東中務政図(あずまなかつかさまさのり)を中心とする勤皇派に分かれていた。はじめ、盛岡藩は、四月に出された会津・庄内征討応援命令には従う姿勢を示したものの、奥羽列藩同盟に加わり、同盟諸藩の中で最後まで同盟を貫いて、秋田藩や弘前藩と戦争に及んだのであった。仙台藩からは同盟遵守の圧力をかけられ、秋田藩・弘前藩が同盟離反を表明する中で、二月より京都に派遣されていた楢山佐渡の帰藩を受け、京都の情勢を得たうえでの決断であった。
 さて、盛岡藩から分家して成立した八戸藩の動きは微妙なものであった。それは、八戸藩南部遠江守信順(のぶゆき)が薩摩藩八代藩主重秀の五男であったことによる。戊辰戦争勃発当初、八戸藩の行動は、旧幕府勢力に敵対するものではなかったにしろ、政府に従う方向で進められていた様相が強い。よって、奥羽列藩同盟には参加したものの、諸藩が同盟の内容に従って討庄兵を解兵する中、八戸藩は五月五日になってようやく兵を解いたのであった。
 しかし、この行動が盛岡藩の強い疑念を招いた。五月十七日、八戸藩太田広城を盛岡に派遣して釈明をし、盛岡藩の攻撃を避けたのであった。盛岡藩の強い影響下にある八戸藩は、同藩の動向に左右されながらも、一方では、薩摩藩との連絡もないがしろにはできないでいた。また、六月には九条総督の秋田転陣に際し、箱館へ向かうことになった佐賀藩兵を領内へ受け入れた。しかし、盛岡藩が同盟遵守を決定したことで、八戸藩は、九月に勤皇を表明した弘前藩と野辺地で戦火を交えることになった。