明治元年(一八六八)の春以来、弘前藩兵は領内外にわたって広範な出兵を余儀なくされた。これまでも戦局の推移については詳しく述べてきたが、ここで簡略に整理しておこう。
閏四月、
奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)の命により
鶴岡(庄内)藩討伐応援として秋田方面に総勢二〇〇〇人以上の動員計画がなされ、七月に藩論が勤皇に統一されてからは、挙
藩体制での
鶴岡藩討伐が行われ、同藩はもとより、弘前藩と決裂した
盛岡藩の間でも大館(おおだて)・鹿角(かづの)方面で熾烈(しれつ)な戦闘が展開された。九月二十三日の
野辺地戦争は、
官軍に頑強な抵抗を続ける
盛岡藩を牽制(けんせい)する目的から、
奥羽鎮撫総督府付軍監(ぐんかん)の意向を受けて引き起こされたものであった。弘前藩側は四九人にも及ぶ戦死者を出して敗退したが、
盛岡藩にはもはや戦争を続行する余力はなく、ほどなく降伏を受諾(じゅだく)した。しかし、戦闘はすぐに停止したわけではなく、南部領毛馬内(けまない)方面では弘前藩の侵攻が続いた。
奥羽鎮撫総督府は東北戦争の終結を宣言し、数度にわたって弘前藩に対して軍事行動の停止を命令したが、それに応じて続々と藩兵が帰城したのが十月中旬のことであった。
こうして、北奥にはようやく平和が実現するかのようにみえたが、藩兵の帰城とともに新たな緊張が走った。
箱館に
旧幕府脱艦隊榎本武揚の軍が来襲し、同地を守る府
知事清水谷公考(しみずだにきんなる)が弘前藩に対して援軍を要請してきたのである。この飛報に接した弘前藩ではすぐに大隊長木村杢之助(もくのすけ)率いる四小隊を派遣したが、二〇〇〇人を越す榎本軍の前に為すところなく敗退し、
青森に逃げ帰らざるをえなかった。木村に続いて
清水谷公考と随行員も
青森に敗走し、世情は緊迫の一途をたどった。榎本軍の
箱館占領に応じて
官軍も続々と兵員を
青森に集結させたが、時節は厳寒に向かい、両軍とも本格的軍事行動をとれなくなり、海峡を挟んで翌明治二年四月の
箱館総攻撃まで、長い対峙が続
いた。この間にも元年十一月には
松前藩主
松前徳広(まつまえのりひろ)一行が榎本軍に追われて三厩(みんまや)に落ち延び、弘前藩兵は
榎本艦隊の来襲に備えて、長大な領内沿岸の警備に従事しなければならなかった。
このような軍事情勢の推移をみると、戊辰戦争勃発後、弘前藩は絶え間なく戦闘状態に追い込まれ、それは明治二年五月の
箱館陥落まで続いた。すでに本章第二節三の「
軍制改革の開始」の部分で触れたが、近代戦初戦ともいうべき戊辰戦争では、藩は武器調達から
兵站(へいたん)の一切を賄(まかな)わねばならず、莫大な戦費が必要とされた。一例をあげると、
西洋式小銃は付属品をつけると一挺一〇両もしたし、それを一〇〇〇挺単位で買わなければ戦争の遂行はできなかった。その他、
大砲・弾薬・兵士の宿代や賄(まかな)い料など、まさにありとあらゆる方面に藩の支出は続いていった。
そのうえ、自藩はもとより、榎本軍が
箱館を占領してからは、
官軍の越冬を賄う負担が大きく弘前藩にのしかかってきた。表17は
青森で越冬した弘前藩を含む諸藩の兵員と、それに貸し出された
夫卒(ぶそつ)(戦場に徴集された雑役夫)の数であるが、合計で兵員六六五一人・
夫卒五三三七人、総計一万一九八八人と、
官軍人数の多さがわかる。しかし、これはあくまで
箱館総攻撃前の最大規模数であって、実際には諸藩の
青森到着ほまちまちなので多少は割り引かなければならない。それでも弘前藩にとって過重な負担となったのはいうまでもないことで、
官軍の賄い方に関して
家老杉山上総は「現今ノ任、軍事、俗事湊合シ、時アリテ参謀ノ如ク、時アリテ問屋ノ如シ」(『
津軽承昭公伝』明治元年十一月条)と述べており、明治元年末から翌年の春にかけての弘前藩に与えられた最大の役割は、この
兵站(へいたん)基地としての機能であり、藩も勤皇の功績をあげようと、
官軍賄方(まかないかた)に要した費
用はすべて自藩で負担する覚悟を固めていた。
No. | 藩 名 | 藩兵人数 | 夫卒人数 | 計 |
1 | 鹿児島藩 | 263 | | 263 |
2 | 山口(長州)藩 | 694 | | 694 |
3 | 水戸藩 | 226 | | 226 |
4 | 津藩 | 165 | | 165 |
5 | 岡山藩 | 489 | | 489 |
6 | 久留米藩 | 250 | | 250 |
7 | 福山(備後)藩 | 609 | | 609 |
8 | 徳山藩 | 252 | | 252 |
9 | 大野藩 | 162 | | 162 |
10 | 福山(松前)藩 | 531 | | 531 |
11 | 熊本藩 | 118 | 38 | 156 |
12 | 黒石藩 | 101 | 38 | 139 |
13 | 弘前藩 | 927 | 1,125 | 2,052 |
14 | 箱館府役員・兵員 | 89 | 87 | 176 |
15 | 各藩兵附随夫卒 | | 2,574 | 2,574 |
16 | 弘前藩(東海岸警備) | 780 | 927 | 1,707 |
17 | 弘前藩(西海岸警備) | 694 | 548 | 1,242 |
18 | 青森残留諸藩人数 | 301 | | 301 |
計 | | 6,651 | 5,337 | 11,988 |
注) | 『津軽承昭公伝』P200~201(明治2年4月27日条)より作成。表中No.1~15は箱館に渡海した人数。それ以外は青森に残留した人数である。 |
ところが、近代中央集権国家樹立を目指す
新政府部内では、明治元年中よりすべての藩に対して均等な距離を保とうとの基本姿勢が打ち出されており、戦費負担も後日、酒田参謀局(現山形県酒田市に置かれた
奥羽鎮撫総督府の軍務機関)より償還(しょうかん)すると令達が出された。この点に関し、『
津軽承昭公伝』では実に意外であったと記しているが(明治元年十二月十三日条)、当時の率直な困惑が示されている。結局、弘前藩が
新政府に提出した報告書によると、明治元年中から二年四月に至る軍費負担は四九万四九七〇両であり(表18参照)、これに
箱館戦争の費
用を加えると、軍費負担は莫大な金額にのぼった。当時、弘前藩の平均歳入は約四五万両とみられることから、
藩財政はまさに破綻(はたん)同然といっても過言ではなかった。
No. | 費 目 | 金額(両) | 備 考 |
1 | 庄内藩討伐秋田表出兵 | 10,380 | 出兵人数564人 |
2 | 同上 予備領内出張 | 7,690 | 出兵人数606人 |
3 | 庄内藩討伐矢島口出兵 | 3,650 | 出兵人数312人 |
4 | 盛岡藩討伐大館・水沢口出兵 | 40,040 | 出兵人数1,870人 |
5 | 同上 領内間道出兵 | 14,900 | 出兵人数904人 |
6 | 野辺地出兵 | 15,870 | 出兵人数712人 |
7 | 榎本艦隊の箱館来襲にともなう出兵 | 18,340 | 出兵人数443人 |
8 | 同上 領内沿岸警備 | 36,610 | 出兵人数3,628人 |
9 | 清水谷公考青森転陣にともなう警備 | 217,290 | 警備人数6,855人 |
10 | 松前徳広青森落去にともなう費用 | 11,820 | 警備人数348人 |
11 | 薪炭・水油・草鞋・縄・苫類代 | 16,320 | |
12 | 夫卒徴発の農村に対する手当金 | 65,000 | 米32,500俵分 |
13 | 領内宿駅所の村に対する手当金 | 37,060 | 米18,530俵分 |
計 | | 494,970 | |
注) | 資料近世2No.568「御布告并願伺内外公私留」より作成。 |