明治二十年度予算審議

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明治二十年度弘前総町聯合町費支出予算案は、会議費五五円、土木費四四〇円、教育補助費七四七円九八銭--弘前高等小学校補助費、ほかに雑収入の授業料一一二〇円を教育費として支出する--災害予防及警備費七八円、内訳は除虫費二〇円、夜警費五八円、そして予備費五〇円、合計一三七〇円九八銭で、その収入は、地価割一三〇円五銭七厘、営業割三九〇円一七銭二厘、戸数割七八〇円三四銭五厘--これは全戸数四八二六戸に一戸につき一六銭一厘六毛九糸七を割り当てた。十八年度繰越金七〇円四〇銭六厘が入り、計一三七〇円九八銭の収入となる。これに雑収入として生徒授業料一一二〇円があり、合計二四七六円二八銭の規模である。
 弘前高等小学校の生徒は四五〇人の定員だったが、明治二十年一月現在充足率八三%の三七二人、うち女子生徒は一七人、教員の構成は、校長(月給一七円)、一二円教員一、一〇円教員三、九円教員二、八円教員三、六円教員二、四円教員一だが、一〇円教員三人のうち二人は八月から採用予定者、六円教員二人は美術と書道教師、四円は裁縫教師である。
 このときの予算審議で問題となったのは、根本的改良を図った茂森坂の改修費と除虫費-ブドウの害虫フィロキセラの駆除費二〇円だった。果樹栽培に熱心な郡書記菊池楯衛の懸命な説得によってやっと半額が認められた。反対者は、特産物になり得る苹果(へいか)(リンゴ)の害虫対策を立てないで、物好きな一私人のブドウ害虫対策費に弘前市街の金を使うのには反対という声が強かった。ブドウ栽培は、農商務省の後押しで酒造家藤田半左衛門を中心に広がり、明治十九年には全国第六位の栽培地となっていた。しかし、明治十八年、東京の三田育種場にフィロキセラの害が発生、ここから苗木の供給を受けていた藤田葡萄園には翌年発生した。フィロキセラはブドウの根につく害虫である。対策は抜いて焼き捨てるしかなく、中弘地方の栽培者はブドウを断念し、リンゴ栽培に切り替えた。このときの対策薬剤が後にボルドー液として青森県リンゴ栽培を救った。藤田葡萄園は大打撃を受けたが、明治二十二年に復活、大日本農会品評会で優等し、全国に名を知られた。
 この明治二十年度予算審議で最も激論のあったのは、土木費四四〇円の審議であった。全予算の三分の一の額である。議会での質疑を議事録で再現しよう。
  第一次会
番外二番菊池楯衛 茂森坂(註、新町(あらまち)坂のこと)タルヤ嶮坂ニモ拘ハラス該坂ハ迂曲ニテ両側ニ堰ナキガタメ春雨ノ際坂ノ中央ヘ数多ノ下水流落セリ タメニ坂ノ破損甚シク 年々修繕セルニ真ノ費用セサルヨリ是迄徒ラニ無益ノ金ヲ費シタルニ同然ナリ 如カス本年度ニ於ヒテ該坂ヲ直坂ニ改メ 両側ヘ堰ヲ掘リ一ハ以テ堅坂トシ一ハ以テ該坂トナルヨリ往来ノ便ヲ謀ランガタメ設ケタルモノナリ


写真67 新町坂

六番寺井純司 今四百余円ノ金ヲ以テ該坂改良スルトキハ何ヶ年位修繕ヲ要セサルノ見込ナリシヤ

番外二番菊池楯衛 今改良ヲ加ウルトキハ十ヶ年モ修繕ヲ要セサルノ見込ナリ

  第二次会
拾七番本多謙一 人民疲弊ノ今日僅カナル茂森坂等ヘ数百円ノ金ヲ費スハ無益ナリ 本員ハ大体ヲ不可トセン即チ本項ヲ刪除セン

六番寺井純司 本員ハ拾七番同然大体ヲ不可トス 茂森町坂改良ノ如キモ理事者ノ説明ヲ聞クニ漠然トシテ其ノ改良セルトキハ何寸勾配等ノ不明ニテアレバ予算ノ金額ヲ議スルニ因ル 只新坂ヨリ少シク緩ナリトノ話シノミニテ止リ(註、ここでの新坂は藤田庭園北側の細道のこと。現在の新坂は明治三十九年から改良工事を行い、昭和初年鷹匠町郵便局から駒越町へ直線化して主要道路となる)何程ノ益カアラン

拾九番藤岡知言 六番ノ不可説ハ其人ニ不似合ノ論ニ非ラスヤ 茂森坂ノ如キモ雪中ノ往来老弱ニ拘ラズ壮士輩ニテモ危険ニテ該坂登ルノ際転倒スルモノ少ナカラズ 今ヤ改良ヲ加ヘ往来人ノ便ヲ計ラザル得ザルナリ

拾三番外崎覚蔵 元案ヲ可トス 該茂森坂ノ危険ナルハ誰人モ知ル処ナリ 夫レ昔ハ医者駕籠ニテ往来セルカ為メ坂往来ニテモ駕籠ヨリ下リル事ナク今ハ人力車ナレバ中途若シクハ坂ノ前後ニテ車ヨリ下タルナレバ急病ノ障リノミナラズ自然車賃モ高クアリ 就テハ本年ヲ以テ改良ヲ加フルハ至当ノ見込ナリ

壱番笹森要蔵 元案ヲ可トス 該茂森坂改良スルトキハ日ノ当リモ能ク是迄ト違ヒ雪モ早ク解ケ 為メニ破損モナキニ至ルベシ 且該坂改良ノトキハ往来ノ便言ヲ俟タズ 岩木山ノ坊主転ロバシハ近時改良ヲ加ヘタルニ其ノ便ナル事三歳小児モ自由ニ往来ニヨシト云フ 今新町坂ヲ改良セルニ於テハ独リ人民ノミナラズ手車、馬車人力車諸荷物運搬ノ便少ナカラサルベシ

七番黒滝忠造 本員元案賛成ノ一人ナリ 今六番ノ説ヲ聞クニ該坂改良セルモ利益ナシトノ論ハ解セサル次第ナリ 該坂改良加ヘタルトキハ其利益実ニ大ナリ 其ノ一二ヲ言ハンニ下町流木土場ヨリ流木上町ヘ運搬セルニ該坂往来ノ際ハ壱駄ヘ二人ノ保護ヲ要ス 然レドモ該坂ニ於テ荷返シ等ノ事アル為メ其駄賃高直ナリ 今改良セルニ於テハ壱巻ニ付駄賃三拾銭ノ下落ニ成ルヘク 然ルトキハ七百巻一ヶ年ニ上町ヘ上ルト認メ駄賃斗リモ二百拾円ノ益アリ 夫レノミナラス総テノ賃金下落ニ至ルヘシ 又該坂ヲ塩分町ヨリ直線ニ改良セルニ於テハ在来ノ急坂半バ緩ニナルト聞キ下町ノ老父老母等ハ改良ヲ加エントノ話ヲ聞キ本員等カ当地ヘ鉄道ノ来タルヲ待ツガ如キノ思考ヲ下タセルトノ事ナリ如ク大益ノアルナレバ各員モ本案ニ賛成アラン事願フ

 結局第二次会で一二対五で原案が可決され、第三次会でも一三対四で土木費は可決された。
 二月二日は臨時弘前総町聯合会が開かれた。このときの案件は「弘前全市街拝借地処分議案-弘前新寺町報恩寺境外寺庵六ヶ処慈雲院界外共」だった。これは、現在の青森県立弘前高等学校の校地部分となっている新寺町一番地の地面である。官有地で総面積四町六反二畝一歩、現況は熟畑地。それまでこの土地は明治十年四月から十九年十二月まで弘前全市街惣代の名で借用していた。この借用期限が満期になったので、相当代金を支払って払い下げを受け、弘前高等小学校学田とする計画が立てられた。
 明治十年にこの土地を借りたのは、廃藩後の弘前発展のため蒲田昌清第三大区長のもと弘前全町惣代-町家は白崎源蔵武田又三郎武田良七士族小林忠之丞鳴海謙六笹森要蔵のときに、この地を拝借し、おいおいは柏木、館野まで開墾するつもりで計画した。ところが、町家惣代がこの計画に不参加のため士族総代だけ調印し、立木一九〇〇本を売却、一一五八円を得て開業資金としたが、さらに事業発展のため株主も募った。そして廃寺跡と林野を熟畑にしたが、明治二十年二月、関係者はこの畑と建物・道具一切、それに二五〇円を町に寄付し、町は一四円三二銭三厘で官有地を払い下げてもらって学校田とした。のち二十五年、元寺町校舎が火災に遭って、青森か黒石に移転の話まで出た県立中学校再建の地として県に寄付、翌二十六年校舎新築して以後現在まで、同地は県立弘前高校として百十余年の校史を数えるのである。
 なお、最後の弘前総町聯合会の議長は大道寺繁禎中津軽郡長である。