松前藩復領直後のイシカリ場所は、疱瘡流行で多くの働き手を失った直後であり、かつ不漁が続いたことも重なって必ずしも良好とはいえなかった。しかし、不漁の方も文政年間(一八一八~二九)末までには回復していたらしい。
この時期におけるイシカリ場所での大きな変化は、鮭の漁獲高増大をねらって投入された出稼和人労働力と、漁業の大規模化が進んだことである。このため、従来ほとんど全部アイヌから生産物を購入し、塩引類も生鮭を直接購入して加工する方式をとってきたのに対し、イシカリ川下流域沿岸には請負人直営の鮭漁場さえでき、出稼和人を入れてアイヌ以上の生産を得るようになっていた。そして、アイヌの榀網に代わって糸網が使用され、アイヌのそれとは比較にならない漁獲高をあげていた。
このような、イシカリ場所での漁業の大規模化は、一度に大量の労働力を必要とし、アイヌの老若男女の別なく請負人の需要にこたえることを強要した。このため、イシカリ運上屋から遠く離れたイシカリ川上流から、あるいは漁事の乏しい他場所(たとえばユウフツ、アブタ、ウス)からも労働力を集める傾向が生じた。すなわち、アイヌの雇への大量動員である。これにより、アイヌは次第に独立的な地位を失って、請負人に隷従する労働者と化していった。
この雇は、第一次直轄の時には幕府が極力禁止してきたが、松前藩復領後はまったく請負人の恣意に任される傾向にあった。このため、復領まもない文政中頃、『近世蝦夷人物誌』によれば、イシカリ川のカムイコタンより下流の十三場所のアイヌをイシカリの漁場で使役してきたが、日夜酷使を続けて何の保護も与えなかったので、人口が日を追って減少した。そこで運上屋ではその対策として、イシカリ場所の人別帳に入っていない上流域のアイヌを使役の対象にするため、イシカリ十三場所の人別帳に入れたと伝えている。
ここで注目されることは、いわゆるイシカリ十三場所外の人びとをも労働力として動員するために、人別帳に入れたといった記述である。このような事実を裏付けるかのように、松浦武四郎が『野帳』に書き写した安政三年(一八五六)のイシカリ場所の人別帳(新札幌市史 第六巻)は、さまざまな事実を語ってくれている。まず第一に、人別帳に記載されている一六六軒の事例のうち七四軒がイシカリ川上流・中流域出身のものであることである。これは、全体の四割強に相当する数字である。第二に、「元〇〇ノ者」というごとく記載されたイシカリ川上流・中流域出身者は、多くがイシカリ川河口に集住していることである。第三に、それらの動員されたアイヌが、帳簿上あたかも家族ぐるみ当該場所に実在するがごとく記載されているが、松浦武四郎が調査した限りでも実際は家族がバラバラで、「山」(イシカリ川の上流・中流域)に住んでいたり、逆に「浜」(イシカリ川河口か海浜)に下げられていて、実態とは遠くかけはなれていた。これらのことから推測するに、イシカリ十三場所外のイシカリ川上流・中流域からのアイヌの労働力の河口付近への動員は、文政の中頃から開始されたのかも知れない。ちょうど、イシカリ川下流域での糸網による大規模漁業の導入と大いに関係がありそうである。
一方、この時期の十三場所外の労働力の動員の問題でユウフツアイヌのイシカリへの出稼がある。ユウフツアイヌのイシカリへの出稼は、イシカリアイヌのユウフツ領千歳川への出稼と同様、第六章で触れたように第一次直轄以前から行われたのかも知れない。ところで、『林家場所請負文書』(余市町教委蔵)によれば、ユウフツ場所の請負人山田文右衛門支配下のアイヌが、長期にわたったイシカリアイヌとの漁業権紛争の結果として、イシカリ川筋への出稼が可能になったとある。しかも、ユウフツ、サル両場所の番人が、アイヌ「撫育」の手当を名目に、西蝦夷地アツタ、オタルナイ両場所へ鯡漁出稼の許可も得るにいたっている。この結果、ユウフツアイヌがイシカリ川をはじめ西蝦夷地へ出稼して得た鮭にせよ、鯡にせよ、荷物も一切イシカリ場所より積み出すにいたった経緯さえある。安政二年段階では、前出の表3・表6でもみたように、「ユウフツ出稼」分の諸施設が多くあることや、網引場が一五カ所におよんでいることなど、イシカリ場所への動員が恒常的であったことが知られる。
さらに、イシカリ場所外からのアイヌ労働力の動員は、ユウフツ場所のアイヌのみではなかった。嘉永五年(一八五二)の『村山家資料』によれば、他場所からイシカリ場所に動員されたアイヌは男女合わせて二六九人(フルヒラ男一三人、エトモ・ホロヘツ男女三〇人、ヨイチ男女七〇人、オショロ男二五人、タカシマ男一六人、サル・ユウフツ男女八〇人、ウス男三五人)におよび、賃金は一人約一両三分で、これは和人労働者の十分の一の賃金でしかなかった(子年石狩御場所勘定帳)。
以上は、この時期の最終段階での場所請負人によるきわめて恣意的なアイヌの労働力の使われ方の一端である。動員のすさまじさが知られる。