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松浦武四郎のイシカリ川筋探検

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 カラフトに渡るために江戸を立った武四郎は、福山、江差にいたり、四月十一日松前藩カラフト詰西川春庵の僕として江差を出発した。五月中旬にソウヤに到着、それよりカラフトに渡り、七月十九日ソウヤに帰着した。さらにソウヤからシレトコへ向けオホーツク沿岸を探検、一旦ソウヤへもどり西海岸を南下してイシカリに出た。八月十九日、イシカリ川を遡って千歳川へ出るため河口を舟で出発した。舟は、長さ四間くらい、幅三尺七、八寸の丸木舟に柳の枝を曲げて鉢形に作った屋根をつけたもので、食事の道具も積み込んであった。乗組員は、番人一人、首長一人、アイヌの水主三人と武四郎の六人だったようである。
 河口を出発してから、川筋に沿って遡る途中の自然景観やアイヌの人家の有無等は、表9のとおりである。イシカリ川筋は、ちょうど秋味漁の季節で、川筋のあちこちでアイヌが漁事を行っていた。イシカリ川は、流木がかなり多い川であったようで、網を引くのに邪魔になるので、毎年春先アイヌに流木の撤去をさせていたが、その費用もかなりの負担になっていたようである。
表-9 弘化3年松浦武四郎イシカリ川筋探検観察概要(8月19~20日)
地名観察概要
石カリオタルナイより8里28丁。船懸り、運上屋前大船小船入津して艫着にて荷役。川底枯木埋木多く引網に迷惑。網漁場では枯木を引上る。
トクヒライシカリより2丁程。勤番所運上屋魚見台塩切長屋、弁天社、アイヌ小屋、鎮守妙亀法鮫大明神あり。
ワッカヲイ水中朽木の根幹多い。春より夏にかけてアイヌに朽木等取らす。
テン子ン蘆芦多し。蘆に洲をなし20軒余の仮屋をして秋味漁。樹木多く、柳、桑、楢、椴、雑木。
マコンベツここより支流に入る。巾10間ばかり、深さ6・7尋。川柳垂れ、野萄葡熟す。20丁程で本流へ出る。
シビシビ本川筋東岸にアイヌの小屋1軒。皆この前にて漁猟。
トウヤウシ
上トウヤウシアイヌ仮屋を建て漁をす。川巾少し狭く水勢甚しい。
ハンナンコウアイヌ小屋あり。この前にて漁をす。
フスコベツ左岸の支流。古き川の意。巾13~15間もあるが猟事なし。両岸あし、垂柳、雑樹。
ヲタヒリ左岸の支流。アイヌ川際に住み、前にて漁事
ハツシヤフ右の方枝川。巾17~18間。アイヌ首長1人、平アイヌ5~6軒。昔より漁猟多し。李の木多し。ハツシャフ番屋。
サツポロ右の方枝川。巾12~13間。川上沼の由。アイヌの小屋多しと聞く。首長、平アイヌの小屋5~6軒。サツポロ、上サツポロ番屋
ベケレトシカアイヌ住む。川巾広く両岸雑樹多し。
ビトイイシカリより5里、番屋、アイヌ小屋皆出稼、サルルユウフツより出稼、本名シノロ、蔵、弁天社、李の木多し。シノロ番屋
トンビアイヌ住居し、川にて漁猟す。
カマヤウシアイヌ住居し、漁猟す。
トウハケ右の方枝川。この上に1里程の大沼あり。
トンヒルアイヌ小屋。漁猟多し。
トウベツ左枝川。川上沼。アイヌ仮小屋で漁猟す。川巾120間程。両岸柳、桑多し。
タン子ヤウシアイヌ住す。よき網引場
トマヽツタイアイヌ小屋あり。
ツイシカリイシカリより9里半。枝川秋味1000石上る。20年程前、上より引移る。番屋、弁天社、アイヌ小屋5~6軒、首長1人、小使1人、土産取1人。(泊)
スノツ左岸枝川。元番屋、今跡あり。
イベツフトツイシカリより1里5丁程。右岸大枝川。本流上カバタ下カバタ・ナイヲロ番屋あり。イシカリ番人川筋へ軽物取りに上る。
サヌイベツ左岸枝川。漁猟多し。両岸柳、桑、雑木多し。
ユウバリツイシカリより5里半。枝川あり、源はユウバリより来る。出水にて流木多し。硫黄の気多し。ユウバリ、上ユウバリ番屋。
シユマヽツプツイシカリより6里。番屋、弁天社、ユウフツ出稼番屋あり。ユウバリ出稼漁猟する。アイヌ小屋3~4軒。土地把沃。
松浦武四郎再航蝦夷日誌』より作成

 イシカリ十三場所のうち、川筋の、あるいは枝川上流の運上屋・番屋を順に記してゆくと、①トクヒラ、②ハッサム(ハツシヤフ)、③サッポロ、④上サッポロ、⑤ビトイ(シノロ)、⑥ツイシカリ、⑦上ツイシカリ、⑧上カバタ、⑨下カバタ、⑩ユウバリ、⑪下ユウバリ、⑫シママップ(シユママツプ)の一二があげられている。記されていないのはナイホ一場所のみである。しかも、場所の呼称が変わったと思われるのがシノロ場所で、当時はビトイといっていた。いま一カ所ツイシカリ場所は、もともとシノツ(スノツ)にあったが、二〇年ばかり以前に当時のツイシカリ川河口に引き移ったものらしい。シノツにはその跡が残っていた。
 武四郎と同行のアイヌたちは、イシカリ川河口より九里半遡ったツイシカリでまず一泊したらしい。ここの枝川は、秋味一〇〇〇石にも上る大場所で、アイヌの家も五、六軒あった。そのアイヌの家では、羆、鷲、鴞(ふくろう)を飼っていて、ことに鴞を飼えば痘瘡神が来ないと信じられていた。また、この辺は土地肥沃な黒土で、大豆、隠元豆、茄子、大根、稗、呱吧芋(じゃがいも)がよくできたが、耕作を禁じられているために人の目につかない山奥に作っていた。
 ツイシカリより先は、エベツブト(イベツブト)でイシカリ川本流と分かれ、支流の千歳川に入った。途中流れ込んだユウバリ川は、出水により流木が多く、硫黄の気が多かった。ツイシカリより六里でシママップに着いた。アイヌの家が三、四軒あり、ユウフツ出稼の番屋もあって、さらにユウバリからもアイヌ出稼にきていた。

写真-7 ツイシカリ番屋之図(再航蝦夷日誌)

 これより先武四郎は、千歳領に入り、イザリブト、カマカ、ママツブトを過ぎ、千歳番屋で一泊している。ここは、イザリブトより六里のところであるが、寛政年間陸道があったのに、当時わずかに残っている状態で、武四郎は「願ハくば此道筋を開キ置度事ぞ」と記している。
 明けて八月二十二日、千歳よりビビまでは山中を歩行し、ビビよりは小船で川を下り、ユウフツの運上屋に到着している。
 以上が弘化三年、武四郎がイシカリ川筋よりシコツ越えした時の観察概要である。イシカリ川筋では、各所で秋味漁が行われ、それは引網を盛んに用いていたようである。それに、ビトイ(シノロ)には、十三場所外のアイヌ出稼、それもサルやユウフツ方面からもきており、また千歳領との境シママップにもユウフツ出稼番屋ができていた。復領後からのイシカリとユウフツ場所間の取り決めによる相互の出稼が恒常化していたのであろう。
 武四郎がその著作で、イシカリ場所運上金、産物、人口の減少について詳しく触れたことは前述したので、くり返すまでもないだろう。蝦夷地の状況を、何の目的でこれだけ詳しく探ったのだろうか。そして、それら探検記録を整理し、蝦夷地に関する著述を多く残したのだろうか。その二年後の嘉永元年(一八四八)には、異国船が頻繁に北辺の近海に渡来することから『海防策』を記して建白しようとした。さらに、翌二年には、三度目の蝦夷地探検を志し、クナシリ、エトロフを究め、『三航蝦夷日誌』として書き残している。
 第二次幕府直轄以後の武四郎は、復領期に行った三度にわたる蝦夷地探検の実績を踏まえ、幕府御雇としての肩書きを持って蝦夷地探検に参加することとなる。それについては、第四編で詳述することにする。