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検分の成果と影響

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 この大調査団は出発が予定より二カ月程おそくなったばかりか、出発前から不評をかうことがあったようで、松浦武四郎は「蝦夷行、堀織部も大不評判」と書いている(安政元年三月五日付、足代弘訓宛書状)。発足してからも二、三百人もの多人数が一度に奥州路から東西北蝦夷地を往復したのだから、その運送、通信、宿泊に動員された住人の労苦は一方ならぬものがあった。
 アイヌは常にその労務にたずさわらなければならなかったが、初めてアイヌに出会ったメンバーの中には風習のちがいに「肝を消ス」(天辺飛鴻)ものさえいた。どの場所でもアイヌ人口は減少していたから、一人に課せられる労働は過重になり、ために他場所から備馬を借用して過労を少しく補わんとし、イシカリもその例外ではなかったろう。それでも月日がたつにつれアイヌとメンバーの心は通じるようになる。西蝦夷地から東蝦夷地に越える際、下働きに随行したアイヌの交代があり、その様子を『天辺飛鴻』は次のように述べている。
 宗谷モンベツより送り来ル蝦夷も馬も、爰より立戻ルよし。人少キ処とて百里の余を、女夷迄夫役に課責して駆立来ル事、本意ならねとも余儀なし。殊ニ久々顔も見覚、弁当の残を与へ、且ハ馬の口取り終日物語抔せし故、言語は通せされども、彼も我も何となく余波は惜まれて、互ニ黙礼して別る。

 松前藩の負担も並々ならぬものだった。たとえば運送に使う船(押切船)を急拠五艘建造、一艘に二〇人の船頭水主をい、この建造費や給金を合わせると用船費だけで三〇〇〇両を超し、その多くは場所請負人の冥加に頼ったらしい。幕吏の旅宿は「軍中同様の事」だから野宿さえかまわぬといい、「御馳走等の御心配は堅く御断」りとは表面上で、松前藩士の挨拶が「甚手薄」だの、先方への連絡準備がおそいというトラブルがたえず、付添った藩士の心労はただならず、これが町奉行近藤兔毛の死を早めたとさえいわれる。この年の福山城下の祭礼の仕方まで、調査団の往返で変更するなど、市中全般に大きな影響をおよぼした。
 こうした住民の迷惑は本州の沿道でも同じだった。たとえば弘前藩の青森で一行の宿を命じられた升屋は手違いを生じ「公儀衆至て立腹」(家内年表 一)、町年寄名主が次の宿先まで追いすがり許しを乞うありさま。幕吏の増長はエスカレートするばかりで、公儀来泊となると「会所抔は名主早朝ニ詰合、夜ノ四ツ時九ツ頃ニ退出の体ニて甚心配」(同前)したが、箱館奉行所調役並になる喜多野省吾の通行にあたり藩の役人が出迎えていないと立腹し、宿が不便だ船がよくないと難じ、ついに弘前藩士小笠原勝弥は閉門、町年寄佐藤準助は罷免となるさわぎ。「虎より猛きの幕吏の宿泊所となる信宿は猶耐ゆべきなり。時には風待と号し、旬月に弥たるも有り。所謂、町中大迷惑とは察するに余りあり」と『青森市沿革史』の編者が嘆いたのはけっして誇張でない。
 両グループは箱館に帰着後、調所を称名寺に置いて調査結果の取りまとめにあたった。そうした中、安政元年八月十五日「清三郎より石狩舟雛形到来」(公務日記)とある。清三郎とは支配勘定出役でカラフトの東海岸マアヌイまで北上、西海岸クシュンナイに山越して帰った矢口清三郎だろうが、石狩舟とはどのようなもので何の必要が生じたか興味あることながら詳しい説明はない。調所での評議結果は十月二十八日「松前幷蝦夷地惣躰見分仕候見込の趣大意申上候書付」「北蝦夷地御国疆見込の場所申上候書付」にまとめ老中に提出された。事前に出されていたと思われる「北蝦夷地御取締見込の儀荒増左ニ申上候」をあわせ、三報告書に総括された要旨を表2とした。このほか多くの関係報文が作成されたが、両グループの調査結果はこの三書に集約されており、紆余曲折はあるにしろこれが以後の施政の基本となって、第二次直轄政策が展開したことは、本編各章で述べるところである。
表-2 堀、村垣調査団の総括
1 樺太問題
沿革・地勢領分をきめたことのない土地、国疆が治定されたことはない。
国境基本方針1、本蝦夷地対策が急務、それができねば国境を論じがたい。
2、国境約定の猶予、その間に本蝦夷地固めとホロコタン以北の徳化。
3、やむなくば北蝦夷地を捨郭同様にし、完全永制の法定まるまで仮の簡易の仕法を施し、経界を立てる。
4、唐太奥地は満州所属か、ロシア接境談判に清国を見据える。
経界1、松前家が介抱撫育したところを国域とみなす(東フヌフ、西ホロコタンだが国境の地形に不適)。
2、トツソ、コタンウトルを北陲の藩籬とする(天然の堺疆)。
3、その以北の夷民を南に転住、そのあとを出稼漁猟場とし、その北方は外国出稼場とする。双方はこの出稼場をもって接し、これを間地とする。
仮の備え当座の仕法1、石狩、宗谷、シャリに藩籬の設をなし、本蝦夷地の固を厳にする。
2、北蝦夷地を御料所とし、用弁第一にすすめる。
3、在住歩卒として漁場番人100人を仕立てる。
  請負人附属のまま奉行所の名目で帯刀
  給分を与え、冬もゆくゆくは家族同伴越年
  枢要地の警固 不正あれば即刻引替、咎申渡
  2、30人は秋に帰郷、欠員補充、できれば定住
  漁業が主務だが農業も心がけ 將来は身分取立て
4、見廻り人を派遣する。
  3~8月国境見廻り 在住歩卒と夷民へ警衛の訓練
  番人家族の教化
5、夷民が公儀を重んじるように教諭する。
  撫育、諸事憐愍、交易、不正防止、信仰を厚く
  銃陣調練、外患警衛
  賞罰の法を定め、法をおかせば咎申渡
6、クシュンナイ、マアヌイの開発をすすめる。
  東西岸交通路開設 会所陣屋の取建 漁場の開発
経費1、請負人の運上金(1,500両)仕向金(400両)をあてる。
2、山丹交易、長崎俵物の収益を算入する。
3、伐木、銅鉄、石炭他有用品を手馴れの者に任せ、益筋とする。

2 惣体検分
警衛1、福山城下-相応に手厚い。
2、本蝦夷地-甚だ手薄、小藩では行届くはずなく、商人の手に託している。
      台場(箱館のほか江差、ソウヤ、ネモロ、アツケシ、クスリ、エトモ)。
      勤番所(ユウフツ、イシカリ、ヤムクシュナイ)。
土地柄適地  1、東西在-奥羽越後と同地味、米殻ことごとく成熟。
2、イシカリ、ユウフツ-3、4月~9月穀菜成熟、打開けて場広の地。
区分  1、(2、3割の土地)曠漠、陽気薄く、野菜のみ生育。
2、(4割の土地) イシカリ~トママイ-夏は粟、稗成熟。
        イシカリ~ソウヤ-草原平地、牧牛馬場によし。
        良材、金銀銅鉄鉛錫砂鉄、瀬戸物用土、薬土、石炭、石油(内地より
        工匠入れ、国益となす)。
3、(3、4割の土地)クトウ~ヲタルナイ-五穀成熟。
        川縁は水利よく、すぐ田畑にできる。
夷民と漁業漁業の利潤1、莫大な漁利にのみたよっている。
2、請負人-すべてをとりしきっている。
      運上金、仕向金のみを所務し、その高下できまり、人品にかかわらない。
3、支配人-場所を一切まかされ、心のままに差配。
夷民の気味合1、支配人番人の呵責。
  惨刻の扱い方(非道、姦計) 人別減少 夷類つき果てる心配
2、夷民歎訴。
  江戸よりの世話を願う それを楽しみに待つ
  捨置けば外夷誘導のおそれ
外夷通航通航  1、ロシア(北蝦夷地に営柵、畑作、箱館にアメリカの例)。
2、アメリカ(箱館に繫泊、遊歩)。
3、イギリス(長崎にて願意申立)。
4、フランス、デンマーク(近く渡来との風説)。
北辺事情1、おいおい蝦夷地の事情は万国に伝播。
2、このままでは夷民が外国の誘導により帰服は必然。
3、帰服しては内地の患が目前となる。
4、今なら国境の戍卒とすることができる夷民をすてて、これを敵にまわすわけにいかない。

3 施政素案
御手入2条1、従前のまま私領→松前伊豆守は小身、いかに厳重に命じても蝦夷地取締は無理。
2、御料に引上げ→蝦夷地松前-円上地、国威培養。
         江差~小谷石を城附領分として松前家に据置、他に替地。
  諸藩分領-小藩疲弊、夷民撫育できず、永続不能。
  大藩割付-外国へ抜道、開墾後の取戻ししがたい、後弊。
  直捌-手数はかかるが永久のために行う。
政務の規模屯田農兵1、武備を練り文学を兼ねるに蝦夷地は最上の地。
  旗本、家人、次三男、厄介から内願のもの
  陪臣、浪人の用立そうなもの
} 手当を与え、蝦夷地に移す
2、新田開墾産物取立。
3、経費 内地の財資を費さず 此地出高をもって勘定
      まずは漁利で取りまかなう 下げ金があれば成功は速い
武備の効1、内地へ入費(蔵入)とはならないが、内地からの出費分を此地限でまかなうから、その分の利益は莫大。測りしれない永久の利益。
2、内地宛行を減じ、旗本らを手丈夫に仕立、充実。
3、兵備厳重となる。
4、江戸~蝦夷地の直乗に習熟、海路自在となり、近海警衛そなわる。
5、海路習熟自在の人物できれば不慮の地へ声援差向けができる。
6、諸藩の表準を立抜き、大名を感服させる。
生産の効1、畑作はじめれば即時収納あり、4、5年で穀菜をまかなえる地となる。
2、牧馬、牧牛が繁殖。
3、内地と産物を交易流用、物価を下落させる。
4、夷民は耕夫兵卒と化し、国地の強みとなる。

 総括してイシカリをどのように捉えたか。新政策の対象地を三区分し、カラフトに接する地区(蝦夷地の四割)の南端としてイシカリを位置づけた。そこにカラフト経営の前進基地的必要性を認めたのではあるまいか。検分当初はマシケをその有力地に数えていたふしがうかがえる。調査団が日本海岸を北上、カラフトに到達して経過地を検討する中で、イシカリの重要性を認識するにいたったと思われ、それが「イシカリ再検分」実施の要因であったろう。カラフト経営の足がかりとすべきイシカリに漁業収益を期待するとともに、穀菜栽培(異論もあったが)、牛馬牧畜、木材や鉱物資源の産出の可能性を予測し、警衛開墾の強化を打ち出したのである。石狩舟の雛形はこうした新事業の着手にかかわるものであったのだろうか。イシカリにとって、堀、村垣調査団の検分は、新しい時代の幕あけを告げた意義深い出来事であった。