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郵便

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 明治初期の通信制度は、はじめは近世の駅逓制度を踏襲した。この駅逓制度は、順次整備されて官設駅逓所制度として、昭和二十年まで存続する。一方明治初年前島密によって制定された郵便制度は、四年八月の函館郵便役所設置決定以降、順次北海道でも適用されていった。五年三月二日大蔵省は、監事主典から一名ずつ郵便御用掛を兼務させるように開拓使へ指令した(開拓使公文録 道文五七三二)。そして後志胆振以北を除いた道南地域に、国内一般の郵便制度を適用するという六月十七日の太政官布告にあわせて、開拓使内部に郵便掛をおいた。九月函館から札幌までの毎月三、八の日割りで郵便輸送が開設された。郵便掛は六年四月開墾掛に併合され、さらに七月には開拓使内部の機構改革により民事局駅逓課となった(開拓使事業報告、郵便上往来 道文四六二、六七三)。
 北海道の郵便は、その運搬や取扱人などは駅逓所に頼らなければならなかった。しかしその取扱量の増加とともに独立した役所として整備されていく。八年三、四月には郵便規則及び罰則を各村へ配布した。札幌郡では市街および篠路・札幌・琴似・丘珠・白石・上下手稲発寒・上白石・月寒・雁来・平岸村の各副戸長円山村総代へ配布された(郵便諸留 道文一二五二)。

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写真-11 札幌郡各村地図(北大図)

 また十三年、札幌から対雁経由で石狩への郵便路線が増設された(郵便文移録 道文三八九四)。さらに篠路村の早山清太郎対雁村の小笠原長吉をそれぞれ同村の郵便取扱人とした(郵便駅逓川渡守人名録 道文五二二八)。十五年月寒村字厚別・白石・札幌・山鼻・下手稲村字軽川に切手売下所を設け、琴似村には無集配郵便局(郵便受取所)を設けた。十六年中に郵便切手売下人をしていた南一条東一丁目の土倉一郎を南二条西一丁目の忍海長之丞に変更した。渡島通切手売下人が逃亡したため南二条西四丁目新田房吉を任命した。大通西二丁目の切手売下人を秋山清美に変更した(札幌県治類典 道文七四一七、八〇四七、八〇四八)。市中の切手売下所がいつ設置されたのか確認できないが、この頃に郵便の普及により郵便網を、札幌市中及びその周辺地域と順次整備していたことのあらわれであろう。
 開拓使から札幌県になると札幌の郵便業務は、はじめは札幌県が管轄したが、十六年七月農商務省駅逓局の管轄となった。そのもとで函館駅逓出張局が全道の郵便業務を監督した。十八年逓信省の設置とともに管轄も移った。