明治五年(一八七二)の戸籍作成にともない、市在に戸籍作成を管掌し併せて人民を統轄する、開拓使の末端機関として戸長、副戸長が四月に設置された。諸村では以下の副戸長の任命がおこなわれた(市史 第七巻九二八頁)。
札幌・苗穂・丘珠・篠路 札幌村名主 小熊善右衛門
手稲・発寒村 手稲村貫属取締 伊藤作助
琴似・円山村 琴似村組頭 坪内猪之助
白石村 白石村貫属取締 佐藤廓爾
平岸・月寒村 平岸村名主 柴田峻九郎
副戸長は白石村を除き二村、多いところでは四村を受け持っていた。副戸長の人選をみると、貫属取締・村三役が兼務しており、行政的職掌と村落の自治的役割を兼ねていた。この時俸給は一カ年二〇円とされていた。しかし管轄も数村に及び範囲も広い一方で、明確な職掌規定もなく、不備の多いものであった。それでも副戸長の設置により、諸村の行政機構は一応整うことになる。なお対雁村は札幌市中の中年寄嶋倉仁之助が兼務した(細大日記)。
副戸長は当初数カ村を兼任していたが、間もなく各村にも配置されるようになる。この年(五年)六月に、琴似・円山村が分かれ琴似村は引き続いて坪内猪之助、円山村は阿部仁太郎となる。十月頃に手稲村が上・下に分割されて下手稲村は管野格が任命された。平岸・月寒村は十一月頃に分かれ平岸村は行方丹治、月寒村は四戸安蔵(六年三月に岩瀬末治)が任ぜられた。小熊善右衛門の管掌した四力村では、丘珠村が六年二月に安藤彦松、十月に苗穂村が坂野元右衛門、篠路村が瀬川友治、札幌村が菊地徳三郎がそれぞれ副戸長となった。さらに発寒村は笹布源吾、対雁村は伊藤溝次郎がこの年任命されたようである。白石村の場合、すでに戸数を一〇〇戸以上数えていたので、五年六月に榊原次郎七、千葉元享の二人が配置された。十月に榊原が辞任後、管野嘉敏がなり、六年六月に上白石村の分村のあとは同村の副戸長に転じた。
以上のように五年から六年にかけ、諸村では一様に一人の副戸長が配置されている。それだけ開拓使の方では、諸村の把握をはかっていたことがうかがわれる。
新しく成立した村をみると、山鼻、豊平村の設置は七年九月二十三日に開拓使から全国へ布達されたが、まだ戸数も僅少なことによりしばらく副戸長、伍長もおかれずにいた。山鼻村は屯田兵の入地と共に副戸長が設置され、九年五月十五日に大堀忠八が任命されている(明治九年辞令録 道文一五五五)。豊平村は戸数が多かったにもかかわらず市街地とみなされて、村務は札幌市街の町戸長が担当し、最後まで副戸長、伍長はおかれなかった。