上田歴史研究会 阿部勇
上田地域の「戌の満水」については『原町問屋日記』『海野町問屋日記』『信濃国小県郡年表』に書き留められています。さらに小県郡内の村々で書き留められた記録や、のちの世の聞き書きも残されており、現在でもその一部が発見されることがあります。
では、寛保二年(一七四二)の戌の満水の被害状況を『原町問屋日記』に書き留められた順番に『海野町問屋日記』と『信濃国小県郡年表』、市町村誌などを参考にしながら見ていきます。
・旧暦の七月二七日から八月一日(新暦八月二七日から三〇日)にかけての豪雨による洪水を戌の満水といいます。したがって八月一日は豪雨が終わった日ということになります。上田地域では被害が続出し、千曲川の満水は以後もしばらく続きます。千曲川左岸の小牧村にある瀧澤助右衛門(問屋日記を書いた人)の田畑は冠水し土砂も多少流れ込んだのでしょう「永荒」と記しています。
・田中宿は所沢川で発生した土石流が直撃しそのほとんどが流失しました。問屋と本陣を兼ねていた小田中家の当主と家族は流死、実家に帰っていた左太夫が生き残ったといわれています。
海野宿も半分は流失、しかし使用できる家も残ったので、以後機能を果たせなくなった田中宿の役割を担うこととなります。海禅寺村と深井村は両宿の上部に位置します。下塩尻村地区は千曲川下流坂城町との境、大日向以下は真田地域です。この両地区での被害も甚大なものでした。
・川中島、稲荷山、塩崎地域は上田藩松平氏の近親者が納めている領地ですから情報が入り『問屋日記』に記されているのです。八月一日には稲荷山と塩崎間の堤防が決壊、左岸の村々に大きな被害をもたらしています。堤防を決壊させた洪水は、まず塩崎村を、次に御幣川村、会村、を襲い小森村に流れ込みました。『松代満水の記』によると、流死者は塩崎村で八三人、御幣川村で一〇二人、会村一六人の多数に及んでいます。岡田村には土砂が流れ込みましたが、そのほかの地は無事でした。
・千曲川東の松代地域は大きな被害を受けたのですが、松代領ですからその状況はくわしく書かれていません。
・江戸も上州も大洪水に襲われたといいます。武州熊谷の土手が三ケ所切れ、阿部豊後守の城下も被害を受けたといいます。
・小諸の六供、田町、本町が流失し、流死者は三四〇人、馬が四匹流され、流れつぶれた家は二〇七軒でした。なお、小諸城下を通りかかった旅人の数は知れず、その消息もわかりません。本陣、問屋、庄屋の人々も流死しました。
『小諸市誌』によると、町家での死者は三一六人、藩内全体では五八四人に及んでいます。
・佐久郡の被害は甚大なものでした。
・諏訪地域は無事。長久保、芦田の中山道筋では、望月宿に土砂が流入し、田畑に被害はありましたが、それぞれの宿はそれほどの被害を受けませんでした。
・千曲川筋で流死した人々の遺体は秋和村の正福寺へ埋葬するよう、上田藩主が申しつけました。正福寺境内の入り口には現在も「千人塚」と呼ばれる戌の満水による流死者埋葬塚に供養塔が建っています。境内には上田海野町の縁者が講中を組織し、洪水の四年後に建てた石造の大地蔵尊があます。八月一日には講中の代表者がお参りに来ているということです。
『原町問屋日記』の戌の満水記録はさらに続きますが、掲載した史料はここまでです。次に続いている史料に記されている流死者数について他の史資料も加えて紹介します。
・上田藩内で流失した家は一一二〇軒ほど、流死者五四〇人余り、流された馬一〇匹ほど、と記されています。しかし、ほかの史料などから流死者五四〇人余りは多すぎるといいます。『上田小県誌』では「寛保二壬年八月秋満水覚」にあるという一五八人を引用、『長野県史』も同様です。
次に続く「八月十二日」の記述には「百九拾六人死人、馬拾疋、一五拾八人怪我人」とあります。同じ『日記』中に、五四〇人と一九六人、災害直後には情報は正確につかめない、一二日後にはほぼ正確につかめたということでしょうか。しかし、『東部町誌』では三三〇余人『小県郡史』では四三三人とまちまちです。上田領内で実際に亡くなった人は何人いたのでしょうか。