[現代訳]

   
皆様が善光寺参りをなされるのに、どの駅より乗車されたとしても、到着は長野停車場である。切符を渡して外に出て、正面の町は末広町という。
 
末広町
 一線路ともいう。町は1丁余、右と左は対旭館(藤屋)と五明館(扇屋)の支店である。その他、旅館や会社の支店が多くある。
 その右にある町は二線路と言い、
 
石若町(二線路
 長さ1丁余。様々な会社の支店が多い。中でも中牛馬会社、および通運会社、日本運輸会社等は、著しく忙しい。
 新聞の丸上商店はこの町にある。
 
千歳町
 末広町より石若町を貫通して右へ一直線の町である。5丁ある。駅の入口は、5丁目である。
   
石堂町
 末広町を突き当たって、南北の町である。
 
米屋町
荻原町
 末広町を突き当たり、石堂町を少し上って左へ行く町である。ここを行けば相生橋を通り、安茂里村などの村々への道で、大町街道である。
 
苅萱山寂照院西光寺
 石堂町にある。苅萱法師と石堂丸の開基である。
 
本尊地蔵菩薩
 2体ある。これは苅萱法師と石堂丸の一刀三礼の作である。そこで、かるかや親子地蔵という。
 苅萱法師はここに住み、善光寺に毎日参詣した。ある時善光寺如来の夢のお告げによって、2人の僧はこの像を彫刻した。善光寺如来が衆生を済度するお姿である。私の姿を拝もうと思ったら、この像を拝めとの仰せがあった像である。
 
世栄観世音菩薩
 行基菩薩の作。東京本郷区駒込肴町酒井八右衛門の寄付。
   
成田不動明王
 祐天大僧正の14歳の作。東京京橋区新富町の仮名垣魯文(作家)の寄付。
 
宝物
 飛鉦鼓、桔梗八ッ花形鏡、苅萱上人の法衣、親鸞聖人御山入真影、名体不二の名号、その他にも多いが略す。
 
常念仏
 苅萱石堂の石碑、九重の宝塔がある。
 
布引坂
 石堂町西光寺の前の坂をいう。また袖引坂ともいう。
 
庵跡堂観世音
 曽我五郎致宗(ときむね)の妾、虎法尼の開基である。
 栗田家の系譜によれば、芹田村に小形郡司直秀という郷士がいた。栗田家に仕え、忠勇の士であった。長篠の合戦の時に、武田の軍勢にいて、栗田鶴寿と共に戦死した。その妻スミは出浦氏の息女であったが、この村に一人静かに暮らしていた。ある時、布をさらしていると、牛がやって来て角に布を引っ掛けて行ってしまった。女は腹が立ち、牛を追いかけて行くと、この坂にたどり着く頃には日は西山に入り、辺りは薄暗くなってきて、この坂で布を取り返そうとしたが、牛は再び走り出し、ついに善光寺の本堂の近くで牛を見失ってしまった。女は本堂に入って、牛の行方や、布を取り返すことを如来に祈り通夜した。(一茶 はる風や牛にひかれて善光寺)その夜一緒に通夜をした人の信心の話によって心を改め、翌日、布の行方も打ち捨てて帰ると、この坂の観音堂にその布があった。これは近所の人が布を拾い、昨日女が牛を追いかけて行った時の布だから、返してあげようと預け置いたのである。これにより女は布を取り戻していよいよ信仰の道に心を入れ、例の牛はこの観音の化身であると思って、西光寺の蓮了上人の弟子となり、髪を切り尼となって法名を妙蓮尼と言い、この虎跡堂の観音のもとに住んだ。この尼の石碑は西光寺にある。なお尼の詠歌であるというものが、同寺の什物にある。
   牛とのみ思ひはなちそ菩提てふ道に入べきおのが心を  妙蓮尼
この虎跡堂は弘化4年の震災に遭い、観音は刈萱山西光寺に移した。今の布引観世音の尊像がそれである。
 ちなみに、世間に知れ渡っている小県郡の不信心の老婆という話は、小形と小県が似ているため誤って伝わったものか。布引山は佐久郡である。小県郡に布に縁のある観音はないという。
   
田町
 石堂町の次、坂の北からをいう。
 
南八幡川
 新田町を貫通して、二又に分流する。
 
栽松院
 新田町右側にある。南八幡川の二又の間にある。曹洞宗である。俗にこれを島の寺という。
 
傘松
 銘木である。傘の形であるため、そう呼ばれる。
 
原町
 八幡川の際を左へ行く町。旧西河原であり、大町街道である。
 
八幡川
 新田町と後町の間を流れる川に沿って、左右に町がある。右へ行くと梅毒病院に至り、千歳町に通じる。左は西河原町である。
 
後町
 八幡川より上をいう。新田町と後町の中程までは右側を
 
問御所
 という。
 
紫雲山十念寺 本尊阿弥陀如来
 後町左側にある。浄土宗である。源頼朝公の開基である。建久8年8月3日善光寺参詣の時、如来が旭山の方に現れ、紫の雲に乗って十念をお授けになるという夢を御覧になったことにより、頼朝公は寺を建て、寺号を奉った。仏殿の額は頼朝公の御直筆である。
 
大仏殿
 大仏の御丈は2丈1尺(6.3メートル)あまり。座像である。京都の大仏殿の堂形を写したお堂である。
 
観世音菩薩
 脇士、三十三番の尊像がある。
   
秋葉社
 社殿は美麗である。(立川和四郎富昌の作)祭神 火之迦具土命
 
長野学校南支校(後町小学校の前身)
 十念寺の上に入り口がある。
 
菊屋小路
 右側にあり千歳町へ通じる。この所に菊屋という酒造家がある。そのため地名となった。旧家である。山崎氏という。
 
権堂小路
 後町より千歳町に通じる。
 
宮内省御用の芳雪堂菓子店
 有名な鳥飼。権堂小路の上の角にある。
 
長野米穀取引所
 千歳町にある。権堂小路の突き当たりにある。
 
第六十三国立銀行
 後町、左側にある。(現在の八十二銀行長野支店)
 
長野郵便電信局
 同所の次にある。(現在の北野カルチュラルセンター)前に県町へ通じる町がある。電信横町と呼ばれる。突き当たりは
 
県町
 本通りの西の町である。県庁から駅へ通じる町である。
 
犀北館
 県町にある。郵便電信局前から突き当たった所にある。この館は近山与五郎という旅舎である。
 
長野県議事院
 犀北館の脇からの突き当たりにある。
   
月輪殿正法寺
 後町の左側にある。真宗西派である。(現在の西本願寺別院)
 
太子堂
 聖徳太子像は運慶の作。善光寺七院の一つである。
 
鐘鋳川
 後町と大門の間を流れる川である。この川より上を大門町という。川に沿って左に行く町を諏訪町という。右へ行くのは鐘鋳川端という。
 
蓬莱橋
 鐘鋳川に架かる橋である。古くはかえり橋といった。この橋を嫁入り、婿入りなどに渡ることを忌む。かへりばしという名が縁起が悪いためである。これは誤りだとはいえ、今なおこの習慣は止まない。その昔建久8年8月4日、右大将源頼朝公が善光寺参詣の時、この橋を渡りかけて権堂往生院の池の蓮の花を馬上から見返されたことから、頼朝公のかえり見給う橋と言ったのを、次第に単にかえり橋と言う習わしになったという。
 
諏訪町
 蓬莱橋より左へ行く町である。2丁行くと右に、長野県師範学校付属小学校がある。(現在の長野市立図書館)
 
桐畑
 付属小学校の前をいう。
   
旭町
 桐畑の西の四つ角から橋を渡り、上へ行く町である。これを行くと長野県庁の前に至る。
 
信濃毎日新聞社
 旭町にある。
 
県町
 桐畑の西の四つ角から下る町である。直行しても同じ呼び名である。
 
長野大林区署
 右側にある。
 
長野県監獄署
 同所の次にある。
 この辺りは県町であるが、監獄前と言われる。
 
妻科本郷
 
曹洞宗学林
 村の入り口にある。僧侶学問所である。
 
善松寺
 曹洞宗である。
 
妻科神社
 延喜式内の社である。長野町の大半の産土神である。
 祭神 八坂刀売命
 相殿 健御名方命 彦神別命
 延喜式神名帳によると
   妻科神社
  三代実録二ノ巻に
   清和天皇貞観二年二月五日、信ノ国の正六位上妻科地神に従五位下を授ける云々。
  同書四ノ巻には  
   同五年二月十四日丁未、信濃国妻科神・八櫛等に従五位上を授ける云々。
  夫木和歌集に
   草深き野中の森の妻社こや花すすき穂にいずる神  よみ人知らず
  例祭 10月1日 長野大祭の内
  摂社 白山社  祭神 伊邪那美神
  摂社 粟島社  祭神 玉依姫
  同  大姥神  祭神 磐長媛命
  摂社 聖徳森
   議事院の後ろにある。長野弥栄神社の祭典では、ここで神霊を天から降される。
 
大門町
 蓬莱橋より上の町である。町の幅は広い。右は
 
鐘鋳川端
 同所から右に入る町である。これを行くと東町および権堂に至る。
名産 まんじゅう
 
東洋館
 大門町の左側にある。三層造りである。この館は山屋喜兵衛という旅舎である。
   
新小路
東洋館の真向かいを東町へ通じる町である。
 
前坂町
 新小路の中程から鐘鋳川端へ通じる町である。
 
花屋小路
 東洋館の4、5軒上を左へ行く町である。これを行くと西町および長門町で、突き当たりは、
 
天満天神社
 長野天神という。祭神 菅原道真
摂社 琴平大神 祭神 崇徳天皇
 
名産 杏缶詰
 西町四つ角の室川氏が販売している。
 
若松町
 大門町より長野県庁への本道である。
 
電燈会社
 
西町
 大門町の西の町である。
 
長門町
 西町の四つ角から少し進み、左の方へ下る町である。
 
旭町
 県庁前より下る町である。これを行くと駅に至る。
 
長野県庁
 左側にある。
   
長野県尋学師範学校
 県庁の西にある。
 
同体操場
 師範学校の西にある。これより西長野に至る。
 
長野県中学校 体操場の西にある。
 
下堀小路
 大門町中程より右へ行く町である。これを行くと
 
東町
 大門町の東の町である。四つ角より東は武井町という。田町に至る。
 
武井神社
 武井町にある。長野東部の産土神である。
 祭神 健御名方命  例祭8月27日
末社 松尾大神  二社ある。本社の左右にある。
   天神社   本社の東にある。
   金比羅社  同
   稲荷社   同
   三峯社   同
   猿田彦大神 本社の西にある。
   田ノ神   同
 
広小路
 若松町の上を、大門町より左へ入る。突き当たりは
 
安養山西方寺
 西町にある。浄土宗である。
 本尊 阿弥陀如来
 
随勝院
 西方寺門前にある。浄土宗。
   
五明館
 長野ホテルという。大門町にある。四層と三層造り、美しい佇まいに、人は皆長野の花と称している。この館は扇屋金四部という旅館である。
 
上堀小路
 五明館の前より東町へ通じる町である。
 
信濃協盛社
 東町にある。上堀小路の突き当たりである。
 
魚市
 協盛社や他の店にも毎朝立つ、賑やかな市である。
 
対旭館
 大門町の右側にある。三層造り。これもまた長野ホテルという。この館は旧本陣で、ふぢや平五郎という旅館である。
 
二天前
 大門町上の辻をいう。この辻の中央を元標辻として、長野より諸方へ里程を測る。
 
長野県元標
 辻の東北に立っている。ここから駅へ行くときには、これまで右と記したものは東であり、即ち左となることを心得てほしい。総てこの町の上りは北へ向かうのである。駅の方へ行くときは下りであり、南に行くと心得てほしい。この辻より北は善光寺境内である。境内の道路は敷石がある。右の方は山内の中衆という坊舎である。
   
定額山善光寺
 二天前より正面に見える本堂まで4丁。上り口の左には
 
善光寺寺務職大本願
 代々皇族より御住職がおいでになり、寺務をお執りあそばされるのである。現在の御住職は
久我宮殿下誓円上人
 副住職は 勧修寺唯心上人
 
本誓殿
 御持仏三尊阿弥陀如来。黄金仏である。御法会など諸事はここで頼む。
 
光明閣
 御宝物拝礼の場所である。
(大本願の図)
   
見真大師御旧跡
 石段の際の堂照坊である。
笹の葉の名号 同坊の什物である。
見真大師御歯
 84歳の御抜歯である。
  その節の御詠歌
 いつの間に髪に霜置き一は落ち
  身にしみてこそ南無阿弥陀仏
 
二王門
 今は焼け跡のみである。北に辻がある。左へ行けば桜枝町である。右へ行けば伊勢町、新町および北越街道である。
 
元善町
 二王門と山門の間の町である。両裏はみな宿坊である。
 
駒返り橋
 石橋である。山門下の元善町の小橋をいう。左の方の石に穴がある。源頼朝公参詣の時に、駒が踏み抜いたため、ここより駒を返したのでこの名が付いたといわれる。
 
山門
 石段の上にある。
   
善光寺本堂
 正面南向き、三ッ棟造り、二重屋根である。また御所棟造りという。表15間3尺、高さ10丈、奥行き29間3尺、柱数136本。
本尊三国伝来一光三尊阿弥陀如来
 閻浮檀金仏で天竺毘舎離国に出現された。
 正面向かって右から
 弥生御前
 本多善光
 本多善佐
 三体を安置する。この方々は当山の開基である。この右に東京月参講の宝塔がある。
 
内陣
 唐戸の内である。
 
戒壇
 月参講宝塔の後ろより階段を下り、如来の下を巡る。これは即ち如来を頂く意がある。
 
北空山
 開基三尊の後ろである。阿弥陀如来、釈迦牟尼如来の二尊を安置する。脇士は観世音菩薩、左は大勢至菩薩である。
次の間に八十八仏がある。四国八十八か所の本尊を写し、弘法大師の安置されたものである。その次に十六童子がある。その前の釈氏仏は東京講中からの奉納である。
 
大仏の間
 唐戸の前の間をいう。左右に大仏がある。右は地蔵菩薩、左は多宝如来である。
 
欄間の二十五菩薩
 唐戸の上の欄間である。鎌倉の運慶の作である。その中に蓮華座だけの所が一座ある。
   
千体仏
 二十五菩薩の左右にある。丹慶および安阿弥の作である。
 
額三尊仏
 内陣入り口の上にある。安阿弥の作。
 
黄金の華蔓
 大仏の間の上の虹梁に掛けてある。武田勝頼公の寄付である。
 
弥勒の間
 板敷きの間である。右の方に弥勒菩薩を安置する。この尊像は旭の長者の内仏であるという。今なお平柴村に弥勒寺という字がある。
次に観世音菩薩、次に閻魔王および十王を安置する。
 
賓頭盧尊者
 弥勒菩薩の前にある。たいそう古仏である。左の方には
 
如意輪観世音菩薩 法道仙人の開眼である。
 迦葉尊者 運慶の作
 
釈迦牟尼仏
 阿難尊者 丹慶の作
  この南に離れて
 
聖徳太子
 尊像を安置し、側に屋根ふき替えの事務所がある。
 
蜀山人 難波江にあしとて捨し御仏を今は信濃によしみつの寺
   
親鸞松
 如来の正面にある。聖人が百日間日参した時、如来に供えられた松である。
 
妻戸の間
 入り口の中央にある。太鼓3個および諸音楽の楽器、皆ここに供えてある。明治29年3月、日清戦争戦利品を政府より供与されたので、ここに並べた。
 
弁慶ねじり柱
 東向拝(ごはい)の南の柱をいう。西塔(さいとう)の武蔵坊弁慶が北国に下った時、源頼朝を恨み、善光寺の柱をねじったという。その後度々改築したが、何日も経たないうちに今の様にねじれてしまうという。
 
山王塚 諸神塚  紀州新宮山口義男記
 共に正面の向拝前の左右にある。これを遠国の人は亡者塚という。その話。
紀州新宮の人が長く江戸に住んでいて、帰国の際善光寺参詣したが、この人の故郷での隣人がこの塚に腰掛けて、砂の付いた飯を食べていた。珍しさに声をかけたが、その人は答えなかったので本堂に参拝したが、気がかりなので、またここに来て見るとすでにその人の姿は見えなかった。帰国してその話をすると、「それは不思議なことだ。その人は亡くなって、ちょうどその日のその時刻に葬式をした際、誤って霊供膳を庭に落としてしまった。そのままとり急いで出葬したのだが、善光寺で砂の付いた飯を食べるのを見たとは」と皆驚き合った。それから亡者塚と呼ぶようになったという。
   
経蔵
 本堂前の、西の方にある。高さ4丈3尺。6間3尺四方である。宝暦7年(1857)に建立されたものである。一切経を納めている。輪転造りである。両端に伝教大師と恵信僧都を安置する。入り口の石段の前に念仏柱がある。回す輪が付いている。
 
鐘楼堂
北山老聞書集に次のように書いてある。出羽の国秋田の人で金井東人という人が、善光寺参詣しようと越後の国米山のふもとを通ったとき、空が俄かにかき曇り大風が吹き、海面は盛り上がり、恐ろしい有様となった。その時突然ひとりの美女が現れ、「あなた様が善光寺参詣するのであれば、これを本堂の勤番へお渡し下さい。絶対に途中で開いて見ないでください」と言って頼んだ。それは1寸(3センチ)四方ばかりの箱で、重さもたいして重くなかった。そこで快く承知して善光寺近くまで持って来たが、道のほとりで休んで四方八方の風景をながめているうちに、ふと箱の事を思い出し、「善光寺へ着いて勤番へ渡すときは、何が入っているかわからない。ここで中身を見てみよう。」と、こっそりとふたを開くと大鐘が飛び出した。大変驚いたが、いかんともしがたく善光寺本堂へこのことを届け出て、勤番の案でそりを造り、善光寺へ引いていった。このそりを造った所は今でも地名を返目と言い、鐘を押し始めた所を押鐘村というと伝わる。越後米山のふもとの、美女が箱を渡した所を金ヶ崎というとある。ところで、この鐘は竜宮に縁のあるものか。この鐘を用いると供養のたびに雨となるので、今の鐘は改造したものであるという。
 
納骨堂
 本堂の北西にある。人はこのお堂に歯骨を納める。
 本尊 載院の河原地蔵尊
  脇士 閻魔王 葬都川の老婆
  これらが安置してある。
   
山門
 高さ6丈6尺7分、裄行11間1尺3寸、梁行4間2尺、寛延4年(1751)に建立された。
本尊 文殊菩薩
 脇士 四天王 階上に安置する。
  毎年春秋の彼岸に登上を許す。
善光寺」 表正面の額は宋人の筆である。
 
二王門
 明治24年6月2日に焼失。
 
別当大勧進
 山門の下、西の方にある。前に池があって欄干のある橋がある。風景がたいそう美しい。表門の額に「大勧進」と書いてある。明人の筆である。
 
万善堂
 山門の西の方、赤門より入る。大勧進の建物のひとつである。もろもろの法会はここで行う。
本尊 三尊阿弥陀如来
 脇士 不動明王
  三界萬霊塔、善光寺如来画伝等を安置する。
これより奥に諸堂および大広間がある。宝物等の拝観はここで頼むとよい。
   
兄弟塚
 山門の西、万善堂の門前にある。源義経の家臣、佐藤継信、同忠信の追福のために、その母君が立てられた塚である。
 
仏足跡
 万善堂の前にある。釈尊の御足形を石に写し、彫刻したものである。
 
爪彫の阿弥陀仏
 経蔵の後ろにある。法道仙人が如来の御来迎を拝し、石に彫りつけた石碑である。文字は磨滅して分かりにくい。法道仙人は天竺三十六神仙の内の一人である。不思議なことが多い。(現在は親鸞聖人が爪で彫ったと伝えられている)
 
地震横死人の塚
 鐘堂の南にある。弘化4年3月24日の震災に横死した人の供養に立てた塚である。
 
金の大仏
 山門の下にある。明暦年間の江戸の大火、八百屋お七の火災の時に、焼死した人の供養のため、吉三郎が出家して、諸国の有志の寄進を集めて造立したという。
   
須磨の薬師
 最勝院の本尊である。須磨の浦より出現されたので、その名前がついた。
 
阿闍梨ヶ池
 本覚院にある。皇円阿闍梨が遠州桜が池からこの池に来て、如来に参詣するという。
 
当麻の曼陀羅
 尊勝院にある。九条殿からのご寄付で、日本三曼陀羅の一つである。
 
涅槃像の釈迦
 世尊院の本尊である。越後の国の居多の浜から出現された。
 
観世音菩薩
 弘法大師の作。玉照院にある。信濃百番の一つ。
 
法然上人御旧跡
 正信坊にある。そのため地名を法然堂町という。
   
弥栄神社
 上西之門町にある。
 祭神 素盞男命
  末社 天神社 金山彦大神
 例祭 7月7日より14日まで。
 13日と14日に俄か物の行列がある。
 
神明宮
 東之門町の四つ角にある。祭神国常立命
 
伊勢宮
 同町にある。祭神 天照皇大神
 
寿福山寛慶寺
 同町にある。本尊 阿弥陀如来 脇士 観音勢至 浄土宗
   
銘工霧吹の獅子
 この寺の門の獅子をいう。明治24年6月24日、西之門町より出火して、折から西南の風が激しく、またたく間に大火となって、大本願と仁王門が焼失し、山内は一面の火災となった。この焼失範囲は西之門の上下、桜枝町少し、元善町、法然堂町、東之門町、城山等で、火の勢いはますます盛んになり、燃え広がる方角がいくつにも分かれ、大勧進に火が移り、山門や本堂に吹き付け、どうにも防ぎようがない。東へ向かった火先で山内から芝居小屋の鶴座および伊勢宮、長野学校が焼け落ち、また一手は寛喜庵に火が移り、長屋を焼き、門に火が付き、正面の寛慶寺の本堂に吹き付け、一面の火となったが、不思議なことがあった。今、南門に火が移り、西の柱および門戸が火災となって、獅子に火が移ろうとした時に、雷のような音がして獅子が霧を噴き出し、あたり一面に朝霧のようになったので、これまで呆然としていた消防はこの気配に力を得て、一同で消火にとりかかったので、結局この門戸と柱は獅子の下まで焼けただけで、ここで消し止めた。また大勧進も一棟だけで消し止め、その他も一斉に鎮火となって、人々はようやく安心した。これよりこの獅子を霧吹きの獅子と言い伝えるようになった。
 この獅子は左甚五郎の作という。また弘法大師の作とも言われるが、善光寺建立記には次のように書いてある。
 「本多善佐は信濃守となり、勅命により寺を建立した。すなわち父の名によって、善光寺という寺号を賜った。また、大極殿の形状を写し、芋井の里に寺を建てた」
   
 御普請が始まる時に、飛騨の国の人で大工の荘作という者が、彫刻の仕事がしたいということでやって来て、2か月程様々な職人に混じり、右の2つの獅子を造った。ところが大工の棟梁と荘作は口論して、その夜、荘作の行方は分からなくなった。また、獅子も見えなくなった。本堂が落成して冬になると、阿闍梨ヶ池の上に蝶が2羽舞っていた。本多善佐はそれを不思議に思って、従者に命じてそれをとって見ると、大工のかんなくずで造られていた。さらに池の中を探してみると、2つの獅子に石が結び付けてあるのを発見した。本堂が落成した後だったので、これを門の獅子に用いた。
 考えてみると、左甚五郎は古い名工である。成飛騨の匠で同国の観音寺村に生まれ、幼名を匠といった。長して内匠頭(たくみのかみ)となり、名工として知られ、最後はどうなったか分からない。あるいは仙人の世界に入ったとも言う。
 この門の伝来は、記録によれば、善光寺火災は治承3年3月24日に落雷によって焼失してから、元禄13年7月21日まで度々の火災があったとはいえ、この門だけは少しも損することはなかった。建久8年、源頼朝公が善光寺を再建した時、この門を大勧進へ移し、のこらず御造営になった。その後、代々大勧進の門だったが、等順僧正の代にこれを当山(寛慶寺)に寄付され、今の大勧進の門を造営したことによって、今は当山に伝わり、弘化の震災にも火災の中で残り、またこのような不思議が起こった。
   
歓喜庵
 浄土宗。古くは西之門町にあって、お屋敷内の寺であった。今は寛慶寺の門の西の方にある。開基は栗田鶴寿である。
 
長野公園
 善光寺本堂の東。
 
如来御供所
 公園地に隣り合っている。
 
ふだん咲きの白藤
 公園地にある。3本あって、盛りの時は真っ白、その他は薄紅を帯びて、10月まで花が絶えることはまれである。
 
長藤
 松風亭前の、池の端にある。紫に咲き、花房は4尺(120センチ)に達する。
 
御幸橋
 湯福川に架かっている。
 
御幸町
 善光寺より城山への通路である。
 
三幸座
 三幸町にある。芝居小屋である。
 
東本願寺別院
 同町にある。
 
長野県測候所
 城山にある。毎日天候の予報をしている。
   
城山県社
 式内大社 祭神 健御名方富命
 延喜式神名帳に
 「健御名方富命彦神別神社 名神大」
 
招魂殿
 明治27年と28年の日清戦争の戦死者の霊を祭っている。
 
末社 木匠祖神 稲荷神社 千幡神社
 
戦利品8点
 明治29年、政府より寄付された。
 
芳艸園
 事務所の庭園である。
 
鳥居の額は有栖川宮幟仁親王殿下の御筆である。
 
芭蕉の句碑
 月かげや四門四州もただ一つ はせを
 
山寺常山先生の碑
 長三洲の書である。
 この神社の境内は見晴らしがよい。花の時は、梅、桜がたいそう多い。
   
城山館
 公会所である。美麗なことを見て知っていただきたい。観覧券は1枚5銭。
 
花月亭
 県社の境内にある。名物はすし。
 
福生稲荷社
 城山館の東にある。
 
筆草
 県社の境内に生えている。花が終わった時、これを用いて文字を書くことができる。
片葉芦も同じ所にある。
   
二天前より東に行くと
東横町である。
 
法然堂町
 東横町より山内へ昇る町である。
 
本町(もとまち)
 東横町より法然堂町の次を上る町である。
 元はこれを東之門町と言った所である。
 
東町
 東横町より下る町である。
 
岩石町
 東横町を突き当たって、折れ曲がって、北へ行く町である。曲がり角より下ると
 
西の宮大神
 岩石小路にある。
 祭神 蛭子命 事代主命 稲蔵魂命
 祭礼 1月19日20日
   
虎跡庵跡
 西の宮の後ろである。曽我五郎致宗(ときむね)、曽我十郎祐成(すけなり)は富士の裾野で仇を討った後に死んだ。その愛妾の化粧坂(けわいざか)の少将と大磯の虎という女がこの場所に住んで、菩提を弔ったという。
 
新町
 岩石町より曲がって、伊勢町と合わさって下る町である。
 
淀ヶ橋町
 名産麹 松沢氏製造 よい品である。
 
河原崎町
 
横山町
 
相之木町
 
三輪山時丸寺
 境内に時丸の墓がある。 本尊 観世音菩薩
 
美和神社
 三輪村の産土神である。三ツ鳥居がある。
 祭神 大己貴命
 延喜式神名帳によると 「美和神社
   
白鳥山康楽寺
 東町にある。真宗西派である。
 
稲荷社
 田町の川端にある。この辺を七ッ釜という。
 
普済寺
 田町にある。曹洞宗である。
 
明行寺
 権堂町にある。真宗東派である。
 
蓮池山往生院
 浄土宗。記主禅師の開基。善光寺火災の時に仮堂になった跡である。そのためにこの地を権堂という。
 
秋葉社
 祭神 火之迦具土命 祭礼 8月26日
 
千歳座
 秋葉社の西の方にある。芝居小屋である。
   
長野遊郭
 大門前
 大門
 仲の町
 住吉町
  仲の町の南である。
 松ヶ枝町
  仲の町の北である。
  三か町とも1丁目より3丁目まである。
 
若宮
 上松村の産土神である。祭神 仁徳天皇
 
駒形嶽神社
 上松村にある。祭神 応神天皇 例祭 3月1日 参詣者が群集する。
 
子どもが馬のくつをかぶって参拝する。これは皮膚病を除くことを願ってだという。
   
岩井堂
 箱清水村の山の上にある。岩穴に観音がまつられている。
 弘法大師がここで護摩を修行されたという。
 
枡形の古城跡
 岩井堂の峯にある。
 
雲井山
 北郷村にある。薬山という。元薬師如来のお堂があった。今は八串神社になっている。
   
善光寺本堂から西へ行くと
 
弁天坂
 経蔵の後ろの坂である。
 
横沢町
 貫通して西に
 
花咲町
 
長野地方裁判所
 花咲町にある。
 
狐池
 
狐池鉱泉
 
湯福神社
 横沢町の北にある。祭神 事代主命 健南方命 長野町北部の産土神である。例祭 10月9日。氏子中より奉納の相撲がある。
 
安楽山往生寺
 山の苅萱という。本尊 無量寿仏 苅萱親子地蔵尊がある。加藤左衛門重氏の往生の地という。
 吉良の桜
  吉良佐兵衛(左兵衛。上野介義央の養子)が出家してこの寺に住んだ。その時植えた桜だという。
 来迎松、その他名所が多い。
 この寺は見晴らしがたいへんよい。
   
塩沢御嶽
 祭神 国常立命
 
塩沢鉱泉 功能
 
焼野鉱泉 功能
 
荒安村
 
皇足穂神社
 荒安村にある。祭神 保食命
 
松田屋の松
 荒安村の入口、休所松田屋熊五郎氏の庭先にある。
 
神代桜
 泉平村にある。たいへん古木で、周囲は5丈(15メートル)余。花の時期は山全体が花のようになる。
   
二天前から西へ行くと
 
西横町
 
長野県長野警察署
 西横町の北側にある。
 
 この西に四つ角がある。南は西町である。北へ行くと西之門町である。
 
信濃銀行
 四つ角の一角にある。
 
銘酒吉野川
 同北の角、よしのや藤井氏の醸造である。
 
栄町
 同角を直行した町である。
 
妙薬善光丸本舗
 茂木氏製。諸病に効果がある。
 
立町
 栄町の次である。
 
長野県庁
 左にある。
 
上水内郡役所
 右側にある。
 
西長野町
 立町より続いている。
 
西之門町
 信濃銀行前の四つ角より上る町である。
   
神明町
 西之門町中程より左へ行く町である。右側に大神宮の社がある。
 
桜枝町
 西之門町を上り、四つ角から左へ行く町である。四つ角より上を上西之門町といい、右へ行くと仁王門へ出る。この間を
 
御霊舎(おたまや)小路という。
 
安良町(あらまち)
 桜枝町を1丁ほど行き、左へ入る町である。これは戸隠山の本街道である。少し上り、四つ角の一角に
 
権衡(はかり)製作場がある。
 松沢竜右衛門氏がこれを経営する。
 
 この四つ角から右へ行くと新道と言って、弥栄神社の後ろを通り、駒返橋に至る。
 左へ行くと花咲町で、辻より上は
 
横沢町 安良町の次である。
 
愛宕社
 横沢町の左側にある。祭神 伊弉冉命 火産霊命 太郎坊像がある。火伏せの神である。
   
神社
 桜枝町の右側にある。
 祭神 菅原道真
 
長野連帯区司令部
 右へ入るとある。
 
長野裁判所
 同北にある。
 
来間池(くるまいけ)
 同右にある。
 
西長野町
 桜枝町の次である。
 
加茂神社
 西長野町の産土神である。
 祭神 別雷之命 玉依姫命
 
頼朝山静松寺
 横棚寺という。頼朝法師の開基である。同法師の背負った厨子と仏像がある。右大将頼朝公の御祈願所である。
   
旭山五郎ヶ滝
 二天前から1里5丁。木曽義仲の臣、落合五郎兼行の閑居した所である。そのため五郎ヶ沢という。葛山の落合備中守は、その子孫であるという。
 
不動瀑布
 同じく2里12丁。入山村にある。小鍋村より裾花川を隔てて見る。常に虹がかかっている。そのため虹が滝とも称される。
 
鬼女紅葉窟
 柵村にある。謡曲紅葉狩を見よ。
   
葛山弁財天
 茂菅にある。祭神 伊都岐嶋姫命
 落合備中守の御守神だという。ご懐妊のお像がある。
 
茂菅鉱泉
 同じく茂菅。功能
 
養蚕神社
 西長野町にある。
祭神 豊宇気日売命
 
謡曲柏崎の旧跡
 山門の東の石がそれだろうという。
 
閼伽井
 弘法大師が、山内吉祥院の井戸水によって、善光寺如来の前で胎金両部閼伽の秘法を修されたことが、大師の山籠記に見える。
 
雲切目薬
 伊勢町眼界堂、笠原十兵衛氏の製造。
 
動物標本店
 西町東側、若松町角の福島氏の製造。諸鳥獣実物の作。長野の逸品の店である。
   
名物 後町東側権堂小路角
 芳雪堂 鳥飼久蔵
宮内省御用 御菓子所
 求肥餅 御用品元祖杏製 更紗梅
 同 甘露漬 同 所自慢
 寛永7年(1630)の開業で、宮内省・陸海軍省の御用を承り、さらに内外の博覧会・共進会・品評会に出品し、数度優等賞を取った、滋養と美味が全く共に著しい名産品である。
   
長野病院
 石堂町西の県町にある。
 
日吉山王社
 県町の西にある。
 祭神 猿田彦命
  
囁森(ささやきのもり)または佐々夜貴神社(現在の柳原神社
 中御所村の産神である。祭神 諏訪社
 
髻(もとどり)観世音菩薩
 中御所にある。源頼朝公の御守仏である。
 
 建久8年(1197)善光寺参詣の時、ここに御所を造られたため、今に至るまで中御所と言うのだという。
 
栗田城跡
 栗田村にある。栗田鶴寿、栗田永寿、栗田形部の3代が城主で、善光寺の守護職であった。
 
木留神社
 善光寺七社の一つ。荒木村の産土神である。
 祭神 健御名方命
   
成田不動尊
 荒木村にある。下総の成田山の出張所である。
 
熊谷山一乗院仏導寺
 吹上の東、市村にある。
 浄土宗 蓮生法師開基
 本尊 阿弥陀如来 善光寺七院の一つ。善光寺本堂より南へ30丁にある。
 綱引阿弥陀如来 蓮生法師の作
 そもそも当山は、人皇八十二代後鳥羽天皇の御代、文治4年(1188)、武蔵国の住人熊谷次郎直実、蓮生法師の創立で、その息女玉鶴姫の逝去往生の旧跡である。今なお姫塚と称して、遺跡の墳墓が存在する。これは善光寺七塚の一つという。綱引の如来は、蓮生法師が善光寺に参籠した時、一刀三礼で作られた仏である。
 什物
 ・法然上人御真筆 蓮生法師へ御授与の名号
・玉鶴姫の法衣と念珠
・小形郡司直秀の陣刀 一振り
・直江山城守寄付の薙刀
   
銀杏大樹
 寺の前にある。直立し、高さ27間余。遠方から見た時、目当てになる木である。
 
さらし井
 寺の前にある。これは小形直秀の妻すみが寺の側に住んで、布をさらした池だという。今は宝井ともいう。
  
姫塚
 寺より西の方へ2丁余、吹上との間にある。熊谷次郎直実の娘玉鶴姫の墓。五輪塔がある。「空風火水地」と記し、戒名は「仏導院殿一乗妙蓮大禅定尼 延応元天九月五日」。またもう一基は、正面は「(梵字)南無阿弥陀仏」と記し、側面からの3面に玉鶴姫の履歴を記した文を彫刻してある。年号は「元禄十五載次壬申夏五月瑞祥」とある。後ろに槻の大樹が2本ある。一本は周囲が1丈7尺、もう一本は周囲が1丈3尺ある。川中島合戦の時、ここに直江山城守がしばらく陣を置いた。『甲越信戦録』を見よ。
   
丹波島
 犀川に架けた橋である。長さ300間、渡銭1銭。
 
裾花川
 水源を鬼無里村の奥に発し、長野町の西を流れている。
  この奥に桜の里のあればにや
   裾花川と人は言ふなり  西行
 
相生橋
 長さ30間余。裾花川の橋である。大町街道である。橋の上より長野町が一望でき、まことによい景色である。
 
幟神堂
 小柴見村にある。本尊 観世音菩薩
 大昔、秦川勝の霊を祭ったものである。応神天皇の御代、漢より呉羽(くれは)と服織(あやは)の両女が来朝し、錦を織った。これがわが国の織物の初めである。川勝はその子孫である。そのため秦を姓とした。聖徳太子に仕え、守屋を討ったという。そのため女子は織物を習う時、この寺に祈るという。
   
旭阿弥陀堂
 平柴村の旭山にある。弘法大師の御作である。見晴らしが特によい。
 
長者屋敷
 小柴見宮内という郷士の屋敷跡である。
 
千年家
 平柴村の藤原長次郎氏の家。枝の付いた立木を用いて家造りをしてある。たいへんに古い。
 
正覚院
 安茂里村にある。
 本尊 観世音菩薩
 
歓喜天
 正覚院にある。霊験あらたかである。
 ここは風景がよい。四月中旬は杏が花盛りで、大勢の人が参詣する。
 
杏花
 安茂里村は一面に、杏・梅・桜などが咲き誇ってにぎわう。ことに4月18日に群集する。
 
両郡橋
 小市村の奥で犀川に架けた橋である。風景がまことによい。