○水内 善光寺

   3左  
○水内善光寺
 上りは丹波島へ1里である。越後の方へ下るには、善光寺から荒町(新町)へ1里、牟礼へ2里半、柏原へ1里、野尻へ1里、越後の関川へ1里半、ここまでの道のりは7里である。野尻には湖水がある。そこから流れ出す川は、越後の今町(上越市直江津)の浜で海に入っている。この川を関川という。野尻の湖水も諏訪湖と同様に、氷が張ったその上を人も馬も往来する。ただし諏訪湖とは違って、厳寒の時期は風が激しく波が高いので、氷ができない。早春になってはじめて凍る。湖には島があって、弁財天を安置している。
 
 思うに、牟礼から柏原・野尻・越後の二俣・関山・二本木・荒井(新井)までを中山八宿という。また善光寺は北国街道の宿場で、本来の地名は水内郡柳原庄芋井郷長野村である。善光寺如来がこの地にお移りになってから、地名もまた変化して、地域の総称を善光寺というようになったのであろう。
 
 善光寺から東へ伊勢町・新町から淀が橋を渡り、横山村の次、三輪村の南脇に美和神社がある(『神名記』に「美和神社」。水内郡小八座の一つである)。神職は斎藤伊予守という(三輪神社は北国街道の道筋で、善光寺から15丁ほどの所にある)。三輪村の北脇に、時丸の塚という古墳がある(善光寺七塚の一つである)。
 
○定額山善光寺(水内郡柳原庄芋井郷長野村の霊場である)
 天智天皇3年の草創である。昔は天台宗で、三井寺の配下にあった。その後は真言宗となって高野山に属し、また寛永年間には東叡山寛永寺に属して、再び天台宗に帰属した。
 
 本堂は南向きで、高さは10丈、二重屋根の撞木造(しゅもくづくり)、柱の数は136本、垂木の数は法華経の文字の数(法華経の文字の数はおよそ6万9384字だという)にならっている。四方に上がる階段があり、正面の板敷の部分に大きな香炉の台を置いてある。香炉の右脇に太鼓があり、左脇には花瓶があって松が生けてある。これを親鸞聖人お手生けの松という。(毎月1日に差し替える)
 
 本尊の閻浮檀金阿弥陀如来は本堂の西の庇(ひさし)の間に安置している。御厨子の四方に戸帳があり、「応安二年申三月三日」と書いてある。その外側を綾錦(あやにしき)金襴などで七重に包んであるという。秘仏で、毎朝の開扉(かいひ)といっても戸帳を一重開くだけである。中の間(ま)から東にかけて、本田善光・善祐(善佐)・弥生の前の像を安置している。そもそも善光を中央に置くことは、いわれのあることである。
 
『塩尻』
 善光寺本尊は一光三尊である。これを新たに鋳(い)写したのは、尾張国熱田の僧、定尊(じょうそん)法師が夢のお告げを受けて、建久6年(1195)5月15日に中尊阿弥陀如来を鋳造し、同じく6月28日に2菩薩を鋳造したという。これが三尊を別々に造るはじまりか。また画像は伊豆国走湯山(そうとうざん)の僧、浄蓮上人が承久3年(1221)の春、お告げによって戸を開き、本尊を拝んで自ら描いた。同年5月、仏師越前の法橋(ほっきょう)海縄(かいじょう)が、鋳造によって写したという。
 考えるに、定尊法師は9歳の時に法華経を読んだ。それから32年間に読んだ法華経は、およそ4万8900部だという。その後は法華経の1字ごとに礼拝(らいはい)し、南無阿弥陀仏を1遍ずつ唱えて、法華経1000部を達成した。建久5年(1194)4月6日のことだった。その年の11月6日、善光寺如来のお告げを受け、6万9000人から寄進を集めて、金銅の尊像を鋳写したという。
 
 そもそも善光寺の本尊を生身(しょうじん)の阿弥陀如来と称するいわれをお聞きすると、その昔、中天竺でお釈迦さまは月蓋(がっかい)長者の欲の深いことを哀れに思われ、方策として西方極楽浄土の阿弥陀如来を出現させて、その誓願を説いた。阿弥陀如来はその不思議な力を示し、長者の最愛の娘をはじめ、500人の親族から国中の人々に至るまでの難病を治されたので、月蓋長者は夢が覚めたかのように感激の涙にむせび、信仰の思いが心に刻み込まれて、たちまち清らかな本来の心に立ち戻り、お釈迦さまのもとに参上して申し上げた。
 「どうか、今の阿弥陀三尊のお姿を模造して私の室内に安置し、重いご恩に報いたいと思います。しかし私のような凡人の力では、それもかないません。私の願いをかなえてください」
 お釈迦さまは長者にお告げになった。「よしよし、まことに感心だ。それならば閻浮檀金(えんぶだごん)で鋳(い)写して、阿弥陀如来のお姿をこの世にお留(とど)めするのだ。しかしこの黄金は普通の黄金ではなく、竜宮城にあるものなのだ。だから神通力のある羅漢でなければ、手に入れることができない。目連を使者として送り、竜宮城で探させよう」とおっしゃった。
 そこに集まっていた人々はそれを聞いて、「その竜宮城というのは、8万由旬(ゆじゅん)もの遠い所にある。その上、果てしない大海の底で、波も荒く、たとえ神通力第一の羅漢であっても、行くことはできないだろう」と、つぶやいた。
 目連はすぐに人々の疑念を悟って、進み出て言った。「私は昔、仏の声が遠い世界にまで響き渡っていることを知るために、遥かなこの世界を飛び越えて、光明盤世界というところまで到達したことがあります。それによって推し量れば、竜宮城に行けないはずはありません。まことにたやすいことです」と言って、お釈迦様の指示を受けて、そこに立ったまま、左足で大林精舎(だいりんしょうじゃ)の北の縁を踏んだかと思うと、右の足は早くも竜宮城へ飛んで行かれた。人々は驚いて、ただ感心するほかはない。
 
 こうして目連尊者は竜宮城にやって来て、その様子を見ると、四方に築地塀があり、銀の門があって、内側にはたくさんの小竜たちが厳めしく警固している。外の陣には四方に四季の景色が作ってあって、建物は玉の甍(いらか)、金の柱、瑠璃(るり)の扉、水晶の壁には玉の簾(すだれ)を掛けてあり、音楽がゆったりと聞こえ、よい香りが強く漂っている。
 門を警固している家来に、手長と足長という者がいる。その力は金剛力士のようで、厳重に守っていて簡単には入れそうにないので、目連が神通力で空中から入ろうと思っていると、内部から赤い衣の役人が出てきて、「ここは竜宮城です。あなたのような、人間が来る所ではありません。早くお帰りなさい」と言った。
 そこで目連尊者がお釈迦さまの言葉を語ったので、その人はそれを聞いて、「ではお釈迦さまのお使いなのですか。それならばお上(かみ)へ申し上げなければなりません」と言って、急いで内部に入ってそのことを申し上げたので、竜王はそれをお聞きになって、「そういうことならば、これへ」ということで、正殿に招き入れてさまざまにもてなし、その後竜王が出てきて目連尊者と面会した。
 目連はお釈迦様の言葉を語って言った。「西方極楽浄土からこの世にご出現になった如来のお姿をお写しして、末世の衆生を救いたいと思います。しかし鋳(い)写すには竜宮城の宝物の閻浮檀金(えんぶだごん)にまさる黄金はありません。お釈迦さまが望んでいらっしゃるのはそれです。どうかその黄金をお釈迦さまにお贈りください」と、その趣旨をご説明になった。
 竜王はそれをお聞きになって、「たしかにこの黄金は、この竜宮における第一番の重宝です。そもそもこの国には田畑を耕すことがないので、米がなく、畑に桑がないので絹布の類を作りません。それにもかかわらず安楽に暮らしているのは、この黄金の不思議な力で衣服や食物が自然にできて、まったく不足することがないからです。たとえお釈迦さまのものになるとしても、差し上げることはとうていできますまい」と、おっしゃった。
 目連はそれを聞いて、思った。「私はお釈迦さまの前で仰せを承り、とりわけ大勢の中からこの使者に選ばれたにもかかわらず、手ぶらで帰ったりするのはまことに残念だ。神通力を現して閻浮檀金を奪い取ることは、実にたやすいことだ」とはお思いになったが、「もしかしたら納得して、簡単に差し出すかもしれない」と、それとない話にかこつけて、お釈迦様が修行中だった昔のことをお話しになった。
 (中略)
 竜王はこの話を聞いて、まことに道理に屈した様子で、
 「このようにご無礼なことを申し上げたからといって、尊者よ、どうかお怒りにならないでください。仰せに従って、この黄金を献上いたしましょう。しかし簡単に差し上げてしまったなら、ごく普通のつまらない宝のようにお思いになるのではないでしょうか。竜宮第一の大切な宝物であることを述べて、不思議な珍しい物としてお褒めをいただきたいがために、このように申し上げたのです。ここにこの黄金がなければ、どうしてお釈迦様の仰せをいただけたでしょう。そうでなければ、尊者にもおいでいただけなかったでしょう。お釈迦様の仰せでもあり、また、仏像の材料にするためです。どうして出し惜しみをいたしましょうか」と言って、そのまま席を立って宝塔の戸を開き、閻浮檀金3700両を自ら取り出して、恭しく献上された。
 目連は閻浮檀金を受け取り、この善行の偉大であることを賞賛して、一瞬間にビシャリ国に帰り、閻浮檀金をお釈迦様に献上された。お釈迦様がお喜びになると、月蓋長者も喜ぶことこの上もない。
 
 こうしてその黄金を玉の鉢に盛って、台の上に置き、あの阿弥陀・観音・勢至の三尊をお招きすると、三尊はすぐさま光を放ってそれを照らされたので、お釈迦様もまた光を放ち、この二仏の光で閻浮檀金を照らしたので、不思議なことにこの黄金はたちまち軟らかになり、溶かしたかのようになった。その時お釈迦様は座禅をして無念無想の境地にお入りになり、ご自身が積まれた修行、六度・十波羅蜜(はらみつ)・十力(りき)・四無所畏(しむしょい)・三十二相・八十種好(しゅごう)など、体の内外のすべての修行の結果を現された。そうして座禅をおやめになって黄金に向かって印を結ばれると、たちまち黄金は阿弥陀三尊のお姿そのままに、金色の仏体に変化したのは不思議であった。
 しばらくして本物の阿弥陀如来が歩み寄って新仏の頭を三度なでられると、新仏もまた本仏を三度礼拝され、二仏はそろって空に飛び上がられて、空中にお立ちになった。その高さは、多羅樹(たらじゅ)の木の7倍ほどもある。二仏はともに光を放ち、人知には計りがたい不思議なありさまを現して、西方に飛んで行かれたので、月蓋ははるかにこれを拝んで、ありったけの声をはりあげて叫んだ。
 「新仏をお造りしたのは、この世界の本尊になっていただいて、遠い未来の衆生にまでご利益を受けさせようと思ったからです。どうして私の願いを無駄にして、極楽にお帰りになるのですか」と言って嘆き悲しんでいると、新仏は空中からはっきりしたお声で、「しばらく待っていなさい。本仏をお送りしたら、必ず帰って来るから」とお告げになったが、まもなく飛び帰られて、ビシャリ城の西の楼門の上にお立ちになった。
 
 月蓋長者はたいへん喜んで、如来をお招きして金銀七宝をちりばめた大寺院を建立し、500人の僧を召し抱えて、阿弥陀如来の四十八願の力を仰ぎ、絶やすことなく仏前でおつとめをした。これはすべて、お釈迦様の深いお恵みによるのである。そうでなければ、どうしてこんな不思議なことが起こるだろうか。月蓋長者とその一族や家来たちはもとより、ビシャリ国の人民はすべて大林精舎に参詣し、仏教を信仰して悟りの道に入った。わが国にご出現になった善光寺の如来というのは、このご本尊のことである。
 
 こうして月蓋長者は同姓同名のまま7代続いて、500年の間栄華を楽しんだ。
 その後の願いとしては、「国王となって、世に恐れるものなく如来様を安置して、おそばを離れずお仕えしたいと存じます」と願ったので、その次に生まれ変わったときには、百済(くだら)の聖明王月蓋長者の生まれ変わりであった。これはまったく如来の不思議なお力によるのである。
 こうしてご本尊がインドにおられて人々をお救いになったその年月は、500年間であった。
 
 その後は百済に飛んで行かれた。これは、月蓋長者が今はその国の大王として生まれておられるからである。如来は百済の皇居に飛び移り、空中にとどまられて光を放たれたので、りっぱな宮殿も庭園も、残らず一面に輝いて見えた。大勢の臣下たちや、様々な身分の官人たちが、「これはいったいどういうことだ」と皆不思議がると、国王もこの様子をご覧になって、たいそう驚かれた。
 如来は光の中から姿をお見せになって、はっきりしたお声でお告げになった。
 「それほど驚くことはない。私は四十八願を持った西方極楽の阿弥陀如来だ。左右の侍者は世の人々を救う観音菩薩と、衆生を守る勢至菩薩だ。そもそも聖明王が今の世に生まれる前、昔インドにいて月蓋長者だった時、無類の信心によって、極楽浄土から私を招こうとひたすら願ったので、私もまたこの世に出現して、長者とその一族をはじめそのほかの人々を救った。これはまったく、世の人々を救うまでは悟りをひらかないという私の誓いによるのだ。月蓋長者はこの善行によって、願いのとおりに王位についた。ところが王者の栄華に明け暮れて、いささかこの世が無常であることを忘れ、仏法を信仰する志を失い、悪い報いを招く行為をいつまでも続けている。今後は、また元のように地獄・餓鬼・畜生などに戻って、永遠の苦しみを受けるだろうことを見るにしのびず、昔の縁はまだ切れていないので、救い導こうと今ここにやって来たのだ」とお告げになった。
 このお声が聖明王の耳に触れるやいなや、聖明王は前世での習慣がよみがえって、信仰心が心に刻み込まれ、感激の涙が袖を伝って流れ、宮殿から庭に降りて、かぶっていた玉の冠を地面に付け、過ちを告白し悔い改めて、空におられる如来を礼拝された。そして宮殿を整備して仏間と名付け、如来をお招きすると、三尊の如来はほほえみの視線を振りまいて、空中から紫の雲に乗って宮殿の中に入られたので、よい香りがあたりに漂い、光が一面に輝いて、無数のあかりを一度にともしたかのようであった。王をはじめ、王妃、女官、臣下たち、役人たちは、皆如来を深く信仰して敬い、感嘆の声がしばらくはやむ時がない。あらゆる行動に真心を尽くして、一日六回のおつとめには怠りなく仕えて慎み敬われた。
 如来は百済の人々を教え導かれ、年月を重ねているうちに、1112年の歳月が流れた。その間の百済の王は、およそ9代であったという。
 
 さて、九代目の王を推明王と申し上げた。如来はこの王にお告げになった。「私はこの国の人間を救い終わったので、これから他国へ行くつもりだ。そこはどこかと言えば、ここから東の海を渡った所に一つの国があり、大日本国と呼ばれている。その国へ行って衆生を救いたい」とお告げになった。王をはじめ、后や役人たち、身分のごく低い者までが伝え聞いて、如来とのお別れをたいそう嘆き悲しんだ。
 しかし他国に移りたいというお告げがたびたびあったので、1000人の僧たちは泣く泣く外陣へ如来を担ぎ出したが、あまりにもお別れが悲しいので、再び内陣にお入れしようとすると、長老は言われた。「如来様が初めてこの国に来られた時、雲に乗ってやって来られたので、今度もまた、空を飛んで日本にお渡りになることだろう。自由自在に空を飛ぶことのできる御仏なので、どのようにお引き止めしても、我々凡夫の力ではどうにもならない。少しの間でも如来様をおとどめすれば、神仏がそれをお知りになることが恐ろしい。また一方では、そうした場合の如来様のお心も推察しがたい。ともかく日本へお渡ししなさい」と言われたので、皆それに同意した。
 
 王は如来とのお別れを嘆き悲しまれたが、如来のお告げなのでしかたがなく、命令を下して、如来を日本にお送りするための船を用意された。その船は様々な宝玉で飾り、船上には金と玉で造った壇を設置し、そこに美しい織物で作った敷き物ときぬがさを飾って、1000人の僧たちが如来をみこしにお移ししたので、大臣をはじめ官人たちがお供をし、王、皇太子、后、侍女などの方々は、乗り物の玉のすだれを上げて、名残を惜しまれた。そのほか国中の人々は、身分の低い男や身分の低い女に至るまで、道端にひれ伏し、如来とのお別れを惜しんで嘆き悲しむ声は、周囲に響きわたるほどである。こうして如来は船に移られたので、船長をはじめ水夫たちは櫓(ろ)と櫂(かい)を手にして海上にこぎ出した。
 
 さて、如来に付き添って日本に渡る使者には、西部姫氏達率奴利致契(せいぶきしたっそつぬりちけい)と思率多利致衍(しそつたりちえん)などのほか、2人の僧がいた。如来に添えて送られる書状には、次のように書いてあった。
 「純金の一光三尊阿弥陀如来の像、高さ1尺5寸。並びに脇士の観世音菩薩と得大勢至菩薩の像、それぞれ高さ1尺。さらに経論と幡蓋(ばんがい)とを付けて、献上します。私は、すべての法の中で仏法がもっとも優れており、また、すべての道の中で仏道がもっともすばらしいと聞いております。しかし仏法は理解しがたく、またとっつきにくいものです。中国の聖人の周公や孔子も、仏法を知りませんでした。仏法は人間に数限りない幸福と利益とをもたらし、また最高の悟りの境地に達したいという願いをかなえてくれます。仏教は遠くインド五州から朝鮮に伝来しました。仏の教えを実践し、天皇陛下も仏法をお修めになるようお勧めします。それゆえ貴国に仏像等を送ります。仏の教えはしだいに東に広まるということです。そのために使者に持たせて献上します。どうか信仰されますように。右のとおり献上します。以上」
 
 こうして、如来を乗せた船を出航させたが、推明王の后たちは大勢の侍女を伴い、日ごろは緑のとばりの中におられて街頭にはお出にならないのだが、如来とのお別れを悲しんで、人目もはばからず海辺にお出になり、おっしゃった。「私たちは女であるために成仏できない身なのですが、一光三尊の如来様に救っていただくことは生きている楽しみだと思って喜んでおりましたのに、今後はどうやって身に課せられた障害を取り除き、極楽往生を願ったらいいのでしょう。この世で如来様とお別れすることを、逆に極楽浄土で如来様と再会するきっかけにしてください」と言って、みずからお召し物の飾りを取って如来にささげ、如来の船にすがりついて乗り移られるかと見えたが、そのまま海中に飛び込んで、大往生を遂げられた。
 乳母(めのと)、大臣、官人たち、大勢の女官たちはうろたえて大騒ぎをしたがどうしようもなく、ただ気抜けしたように思いつめて、「如来様とお別れする悲しみの上に、さらにまたお后様にまでお別れするのでは、私たちはいよいよ迷いの道を歩むだけで救われません。私たちも同じ浄土にお導きください」と、念仏の声とともに次々に海に飛び込んだのは、もっともなことではあったが、また悲しいことでもあった。こうして入水した侍女は、全部で350余人であったという。
 またたく間に紫の雲が海上にたなびき、極楽の阿弥陀如来や菩薩たちが出現されて、極楽に導いてくださったのは、またとなく尊いことである。よい香りがあたりに漂い、音楽が響きわたって、極楽往生のありさまを現した。これを見た人や聞いた人は、思案に余り、言葉で表現することもできず、感激の涙を流した。
 こうして百済国中の人々は、身分の高い人も低い人も、太陽と月の光を失ってまるで暗闇の道を歩いているような気持ちがして、その昔お釈迦様が亡くなられた時と変わりがなかった。
 
 こうして如来を乗せた船は、波をかき分けて飛ぶように進み、たくさんの島や浦を過ぎて、無事に日本の摂州難波津(なにわづ)に、真夜中の鐘と同時に到着したが、如来は輝くばかりの光を放たれたので、周囲の山々はまたたく間に金色に照り輝いた。
 
 そもそも我が国に生身(しょうじん)の如来がおいでになったのは、第30代欽明天皇の御代、13年壬申(みずのえさる)(552年)10月13日である。その時代の皇居は、大和国山辺郡磯皈島(しきしま)の金刺(かなさし)の宮と申し上げた。さて百済の使者と2人の僧は、如来を乗せたみこしをかついで、皇居の庭にそれを置き、推明王の書簡を差し出して、仏像等を献上する旨を欽明天皇に申し上げた。
 天皇はそれをお聞きになったので、群臣たちをお集めになって、百済から送ってきた仏像と経典を受け取るべきかどうかをお尋ねになった。そのとき群臣たちは一斉に申し上げた。「外国から送ってき仏像を、あえてお受け取りになることはありません。その理由は、あの国は日本のすきをうかがって、服従させようとしたことがたびたびありました。しかし我が国の神国としての威風を恐れて、近寄ることができませんでした。今この仏像を送ってきたということは、日本をまじないによって服従させるためでしょう。急いでお返しになるべきです」と申し上げた。
 すると蘇我大臣(そがのだいじん)稲目(いなめ)の宿祢(すくね)が天皇に申し上げた。「そもそも国に仏道があるのはりっぱなことです。仏道がないのは恥です。百済の人々がたとえ昔は日本に野心を持っていたにせよ、今は悪心を改めて、このような仏像をもたらし、経典を送ってきたということは、まったく日本に他国を従わせるような威厳と徳があるからではありませんか。そもそも日本は神国です。神々の本来の姿を仏だとして、仏を貴び敬えばよろしいのではないでしょうか。すげなく仏像をお返しになったりすれば、『愚かで道理をわきまえない国だ』とあなどって、百済はすきをうかがって我が国を支配下に置こうとするに違いありません。これはとりわけ尊び敬わなければならない仏像でございます」と申し上げた。
 天皇はそれらをお聞きになり、詔(みことのり)を下して、小墾田(おはりだ)の御殿を改装して如来をお移しし、香や花を供え、灯明をかかげ、珍しい品物や宝物をささげて、礼拝し慎み敬われた。
 こうして異国の使者には贈り物を与え、返書を持たせて、2人の僧は残し、帰国を許したので、使者は百済に帰っていった。
 
 その後、蘇我大臣(稲目)の家に仏を安置する場所を新設して如来をお移しし、金銀や珠玉で美しくおごそかに飾り、さまざまな宝玉をちりばめた壇をはじめとして、錦のとばり、華鬘(けまん)、幡(はた)や天蓋(てんがい)に至るまで、立派で美しいものを使い尽くした。あるとき如来は、眉間(みけん)から光を放って、あらゆる方角を照らされたので、宮中の御殿をはじめ、女官の部屋までが一面に光り輝くなど、この如来は本当に生身の仏像なので、霊験や不思議なことがたくさんあって、如来と縁を結んだ人々でご利益を受けない者はなく、世の中も穏やかに治まって、19年の歳月が流れた。
 
 ところが庚寅(かのえとら)(570年)に当たる今年は、どういうわけであろうか、いたるところで疫病が流行して、貴賤男女を問わず、親に死別し、子どもに死に遅れて、これを悲しむ苦しんだ。そのほか牛馬をはじめとする家畜も同様で、町の中から山野にいたるまで、嘆き悲しむ声の収まる時がない。このために天皇は御心を悩まされ、群臣たちも心配して顔を曇らせるだけである。天皇は内裏に大臣公卿(くぎょう)その他の官人たちをお集めになり、天下を平穏にするための会議を開かれた。
 その時、物部(もののべの)遠許志(おこし)大連(おおむらじ)が申し上げた。「よくよくこの悪疫流行について考えてみますと、外国から怪しげな仏像を送ってきたのを、尊び敬っていらっしゃるからではないでしょうか。このような特別な像をわが国に送ってきたのは、前例がないことです。そのために我が国の天地の神々は、外国の人形(ひとがた)を崇拝して神々の権威を失墜させたことを怒って、陰陽の気を順調に巡らせず、病気を起こす悪い気と変えて、国民を悩ませていることは明らかです。そもそも我が国は、イザナギノミコト・イザナミノミコト以来、一氏も他の家系をまじえず、みな純正な子孫です。それなのに外国の人形を崇拝し尊ばれれば、我が国の神々の祟りが国民に及ぶでしょう。早く外国の像を捨てて、敬って当然の我が国の神々を崇拝なさるべきです」と、遠慮なしに申し上げると、他の公卿たちも皆これに賛同して意見を申し上げたので、天皇もこれをお聞きになって、「遠許志大臣の申すことはまことにもっともだ」と遠許志をお信じになったので、会議はすっかり終わって、恐れ多いことに生身の如来をこわして捨てることになった。
 こうしている間に遠許志大臣は指図をして、河内(かわち)と摂津(せっつ)から鋳物師を大勢呼び集め、火を激しく燃え上がらせ、恐れ多いことに如来を取ってその中に投げ入れ、七日七晩風を送って火を燃え上がらせたが、如来お体は色も変わらず、少しも傷つかない。それを見聞きした人々は、「これはいったいどういうことだ」と、身の毛もよだち、舌を巻いて恐れた。遠許志大臣ももはや興ざめがして、「ああ恐ろしい。ただもう水の底に沈めて捨てよ」とののしって、如来を難波の堀江に捨てた。
 
 その後世の中では、さまざまな悪いことが多くあった。翌年辛卯(かのとう)(571年)の初夏に欽明天皇は崩御され、遠許志大臣も病床で亡くなった。その昔旃度婆羅門(せんどばらもん)は、悪口を言ってほんのわずかの間仏を非難した罪によって、無間(むげん)地獄に落ちた。たとえ絵に描いたり木に刻んだりしたものでも、仏像ならば尊び敬わなければならないと聞く。
 
 さて敏達天皇(びだつてんのう)は、ご即位の後、ご病気になった。身分の高い者から低い者まで、全国民が不思議に思い嘆いた。学識者を招いて調べさせたところ、その学者は、「帝(みかど)のご病気は、先帝の御代に焼き捨てた仏像の祟りです」と申し上げた。天皇をはじめとして公卿たちはたいそう驚いて、ただちに勅使を難波の堀江に派遣し、終日さまざまに過去の罪をおわびした。その時、如来が水面に現れ、光が輝いたので、急いでそのことを天皇に申し上げて、すぐに如来を内裏にお招きして、さまざまな供養をしたことは、昔以上であった。こうして天皇のご病気も無事に治ったので、身分の高い者も低い者も喜びの表情を表して、万々歳を唱えた。
 
 さてまた弓削大連(ゆげのおおむらじ)守屋大臣(もりやのおとど)(遠許志の大臣の子)は、よくよく考え、参内した時に申し上げた。「先帝の御代には、この人形(ひとがた)を礼拝すると国土は衰え人民は病気で苦しむということで、永久にお捨てになったはずなのに、今また先帝の先例に従わずに仏像を崇拝されることは、先帝に対しご不孝と申せましょう。日本の神々がお怒りになることは間違いありません。お捨てになるにこしたことはないでしょう」と申し上げた。天皇はこの言葉を信じられて、「それならばおまえが申すように、先帝のやり方に倣って、我が国の神々を崇拝することにしよう」と、お言葉があった。
 守屋はたいへん喜んで、あの仏像は自分にとっても敵(かたき)だということで、河内国・紀伊国から大勢の人夫を呼び寄せ、斧(おの)や鉞(まさかり)を使って打ち砕こうとしたが、盤は砕け鎚(つち)は折れても、仏体は少しも傷つかない。身分の高い者も低い者もあっけにとられて、ものを言う者もない。守屋ももはや力が尽きて、ため息をついて、「たとえ千日千夜打ち続けても、炉に入れても、傷ついたりつぶれたりすることはないだろう。ただ元のように堀江に沈めてしまえ」と言って、黄金の仏体や仏具までも水底に沈めたので、黄金の軸の経巻は波の上に漂った。守屋はまた言った。「たとえ仏像を捨ててしまっても、仏像を守っていた僧たちを野放しにしておいたのでは、再び仏法を広めるだろう」と言って、一人一人捕らえて法衣をはぎ取り、牢に押しこめてしまった。
 
 こうして丙午(ひのえうま)の年(586年)の8月になると敏達天皇は崩御されて、弟君が皇位を継がれて、用明天皇と申し上げた。お后は穴太部皇女(あなほべのこうにょ)と申し上げる方であった。
 ところで、このお后がある夜見た夢の中で、高貴な僧が枕元に立って、「お后の胎内をお借りしようと思う」と言った。后は答えて、「私の胎内はたいへん汚(けが)れておりますのに」とおっしゃったところ、その僧は、「私には世の人々を救う願がある。私は西方から来た」と言う声とともに、后の口に飛び込まれた、と夢にご覧になって、たちまち懐妊された。これが聖徳太子である。(胎内に12か月おいでになった。厩戸(うまやど)の皇子、上宮(じょうぐう)皇子、八耳(やつみみ)の皇子などのお名前がある。推古天皇28年2月5日ご逝去。49歳。河内国科長(しなが)の陵に葬る。今、上(かみ)の太子(叡福寺)という)
 
 思うに、厩戸の皇子はご誕生になった後も、さまざまな思いがけない不思議なことがあったが、その中でも幼くして外国の経論にも通じられ、あるいは守屋の大連と戦った時も、不思議な椋(むく)の木に隠れて危険を逃れられたなどというのは、いささか疑わしいとも言えるが、ここで同様の例を挙げれば、神代の昔、大己貴命(おおあなむちのみこと)が神々にねたまれた時、鼠が出てきて、「内は洞々(ほらほら)、外は窄々(すぶすぶ)」と言って、自分の穴にお隠ししたことによって、命(みこと)は焼け野の危急を防がれた例にも比べることができるのではないか。ついには守屋を討伐されて、難波の堀江で如来とお言葉を交わし、仏教を重用されたことから、末永く我が国に仏教が広まり、君臣ともに信仰しない者はなく、衆生に利益(りやく)をもたらす本(もと)を立てられたことは、大きなご功績ではないだろうか。しかしこれも、天照大神(あまてらすおおみかみ)の御心にかなわなければ、どうしてこの神国にお生まれになっただろうか。これによって考えれば、善光寺の如来は、神を尊崇することに次いで、最も尊み敬わなければならない仏像だとして仰ぐことができる。
 
 第34代推古天皇10年(602年)4月上旬のころ、信濃国本田善光という者が、都での任務が終わり、そのついでということで名所旧跡を巡っていたが、道の都合で難波の堀江にさしかかったところ、何かはわからないが、水中から光が差して見えたので、「変だなあ」と思って、走り過ぎようとする背後から声がして、「やあ善光、恐れることはない。私はいつの世もおまえと縁があって、おまえに安置されていた阿弥陀如来だ。落ち着いて聞くのだ。昔の縁を教えてやろう。私はおまえを長年待っていた」と、仰せになる声は厳かで、よい香りさえただよったので、善光はにわかに信仰の前世からの縁がよみがえって、不審に思いながら申し上げた。「それならば、その私の前世のことをお教えください」と申し上げた。如来は告げて言われた。
 
 昔おまえはインドで月蓋と名乗っていて、私を極楽から招いて安置して敬った。
 次におまえは百済に生まれて聖明王と名乗ったので、私もその国に飛んで行ってそこに安置された。
 今おまえは日本に生まれて善光と名乗っているが、三国に伝来した本尊は一体で檀家も同じだ。
 私は今おまえを尋ねてここにやって来たのだから、早く前世からの縁に従って私を信仰せよ。
 私はいつの世もおまえを守っており、影が物に付き添うように少しの間も離れない。
 そのために私はおまえに従って東国に下り、悪の道に落ちた人間たちを救いたいと思うのだ。
 
 如来は重ねて仰せになった。「私はおまえを待つために、水底のごみとともに年月をおくってきたのだ(約16年の間であった)。待っていた時がとうとうやって来た。おまえは私を連れて国へ帰れ。私はおまえと同じ場所にいて、人々に恵みを与えたいと思う」と、如来のお言葉はまことにありがたい。
 
 善光は感激の涙を流しながら思った。「この如来の霊験は天下に知れわたっている。ことに聖徳太子様が信仰しておられるから」と、朝廷の意向をうかがった後、喜び勇んで如来を背負って自分の郷里に下った。
 よくよく、あらゆる物事は真理と同体だという万法一如(まんぽういちにょ)の道理を考えてみると、迷っている時は日本のみすぼらしい家の住人だが、悟った時にはそこは百済聖明王の御殿となって、あたかも、美しく飾られた仏の住む国土のようになるのである。
 もともと家の中で清浄な物といっては臼以外になかったので、その上に如来を安置して、親子三人一緒に慎み敬い、心をつくして供養をしてさしあげた。
 
 如来が当国の伊那郡におられたのは、41年の間である。
 
 第36代皇極天皇元年壬寅(みずのえとら)の年(642年)になって、如来はお告げになった。「この国の水内郡芋井郷に私を移せ。これから後、私はその場所に縁があるのだ」と、お告げがたび重なったので、水内郡にお移しした。
 善光は、以前から思っていたように、「仏様と同じ場所に住むのは恐れ多い」と思って、自宅の西側に一棟のお堂を建てて、本善堂と名づけてそこに如来をお移ししたが、ここでもまた元のように善光の家に帰ってしまわれた。不思議なことであった。
 
 あるとき油がなくなって、如来の御前に灯明をかかげなかったところ、如来自身が光を放たれて、家の中は昼間のようになった。善光は如来に祈って、「まことに尊いご利益で、言葉でうまく言い表せません。どうかこの光を移して、灯明と香の火にしてくださり、それを後世に伝えたならば、人々を救うための縁を結んでくださったことになり、まことにそのご利益は計りようもありません」と申し上げた。その光はすぐに如来の頭にもどり、如来があらためて眉間(みけん)から光を放たれると、その光は香と油の火となってあたりを照らしたのは不思議なことであった。如来は偈(げ)を唱えられた。
  一度見常燈  永離三悪道
  何況挑香油  決定生極楽
 これは、「この火の光は如来の知恵の光であって、欲界・色界・無色界の三界に住む衆生の迷いの闇を照らしてくださるのである」という意味を述べていっらっしゃる偈である。だから如来の御前の灯明は、如来が眉間の白毫(びゃくごう)から出された光で、数百年を経てもまったく消えることがなく、今もなお善光寺如来の仏前に輝いている常灯明がそれなのである。
 
 その後、如来の御堂の建立は、皇極天皇の願いとして、りっぱに造営がなされた。
 さて材木を運ぶ時になって、さまざまな不思議なことがあった。仏法守護の天部や神々がご出現になり、誰が引くというわけでもないのに、材木が自然に飛び跳ねるように移動して、この霊場に集まってきた。金堂を造るについては、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が大工となって現れてこれをお造りになり、造営が終わったのち、たちまち弥勒菩薩のお姿となって天に上られた。その菩薩が金堂造営の間に住んでおられた場所には一間(ひとま)を設けて、現在に至るまで「弥勒の間」と呼んでいる。
 
 今この善光寺は日本の片田舎にあり、愚かな凡人の創建ではあるが、菩薩がみずからの手でお建てになったので、妨害する悪魔は姿を消し、かえって守護神となったので、無事に完成した霊場なので、いったい誰がこれを尊崇しないだろうか。父の名前の字によって、この寺を「善光寺」と名付けた。
 
 如来を供養した檀家の略系図
 (略)
 右の檀家の歴代の名は『塩尻』に見えている。氏姓を相続した人々は以上の通りである。
 
『和漢三才図会』
 欽明天皇13年、本尊の如来が百済から渡来した。しかしまだ信仰されなかった。推古天皇10年に創始され、伊奈郡麻績の里宇沼村に寺を建てた。その後皇極天皇元年に、仏のお告げにより水内郡に移して寺を建立した。願主の名が本多善光であったため、それを寺号とした。慶長2年7月、秀吉公は本尊を京都の大仏殿にお迎えした。しかし仏はそれを喜ばれず、たたりがあったので、同年8月、また元へお返しした。
 聖徳太子は、欽明・用明両天皇と守屋一派の菩提を弔うため、清涼殿で七昼夜にわたって念仏を唱えさせた。小野臣(おののおみ)好古(よしふる)を善光寺に派遣して、1通の手紙を届けさせた。その手紙。
 
  阿弥陀様の名号を七日間唱えました。
  これは広大な阿弥陀様のご慈悲の恩に報いるためです。
  どうか本師阿弥陀如来よ、
  私が人々を救うのを助けて、常に守護してください。
    8月15日       勝鬘
  本師善光寺如来の御前へ
 
 好古は黒駒に乗ってやって来て、本田善光にこれを差し出した。善光はこの手紙に硯(すずり)と筆を添えて、戸帳の中に入れた。するとご返事の手紙があった。その手紙。
 
  汝(なんじ)は一日中名号を唱えて休むひまもなかった。
  七日間も休まずに念仏を唱えたご利益はたいへんなものだ。
  私は衆生のことを考えて、心に休む間がない。
  汝はよく衆生を救うので、私は必ず守護するであろう。
 待ちかねて恨むと告げよ皆人(みなひと)にいつをいつとて急がざるらん
    8月18日        善光
  上宮太子へご返事
 
 右の歌は『風雅集』に載っていて、「嘆くと告げよ」となっている。太子と如来が手紙をやり取りしたことは3度あったらしい。七言二句・四句・八句で、その第2回は法興元世一年辛巳(かのとみ)12月15日(使者の名は調子丸)、第3回は同2年壬午(みずのえうま)8月13日(使者は黒木臣と調子丸の2人)。その返書は法隆寺の宝庫に勅封され、これまで誰も見た者はない。神仏の霊異の有無は、論ずべきではない。
 
 思うに、『埃嚢抄(あいのうしょう)』などの小さな歴史書に詳しく載せてある。私的に考えると、年号は孝徳天皇時代に大化があったが一旦中絶し、天武天皇時代の大宝からは続いているので、これが年号のはじまりとされている。しかし推古天皇時代の法興元世という年号は聞いたことがない。しかもこの時代はまだ文章の形式が定まっておらず、七言の詩は大津皇子(第40代天武天皇の皇子)に始まっている。また聖徳太子が逝去されたのは、推古天皇29年辛巳2月である。この手紙の年は、皆ご逝去の後である。この文章や年月などは、後世の人が誤った説を加えたのではないか。
 
『古今著聞集』
 源頼朝が上洛した時、四天王寺に参詣された。その時、鳥羽の宮が別当でいらっしゃった。対面して将軍は言われた。「私の生涯で、不思議なことが1度ございました。善光寺の仏様を礼拝(らいはい)したことが2度あります。そのうちの1度目は定印(じょういん)でいらっしゃいました。次の時は来迎の印でいらっしゃいました。総じてこの仏様は昔から印相が決まっておられないと言い伝えておりますが、まさしく証拠を拝見しました」と言われた。「あの将軍はただ者ではない」と、鳥羽の宮は仰せになったということである。
 
 欽明天皇の御代から孝徳天皇の御代まで102年の間は、善光寺如来の宮殿(くうでん)には御戸帳(みとちょう)もなく、如来はむき出しのまま人々に拝まれておられた。ところが孝徳天皇の御代、白雉5年甲寅(きのえとら)(654年)になって、如来はお告げになった。「宮殿を造って私を納め、その前に戸帳を垂れよ。その理由はどういうことかというと、悪事をなす者どもが勝手に私の前に寄っていやなにおいを吹きかけ、私に手を触れる。私はそれを嫌うわけではないが、彼らはかえって重罪になって、みな悪趣(地獄道・餓鬼道・畜生道など)におちてしまうのだ」
 これによって人々は驚き恐れて、急いで宮殿を造り、御戸帳(みとちょう)を垂れ、秘仏におなりになった。これがその始まりである。
 
 考えてみると、善光寺の仏閣はたびたび火災に遭って無常の姿を示したとはいうものの、善光寺如来の徳によって天下の衆生は志を奮い起こし、間もなく再建(さいこん)した。大昔のことは、古い記録に見えない。今、善光寺縁起に載っているものを見ると、高倉天皇の御代、治承3年己卯(つちのとう)(1179年)3月24四日の午前十時ころに、すべて焼失した。その後亀山天皇の御代、文永5年(1268)3月14日の夜半に炎上。これは92年目である。また48年後花園天皇の御代、正和2年(1313)3月22日午後6時ころに炎上した。その後また88年過ぎて、後光厳天皇の御代、応安3年(1370)4月3日の夜、午前4時ころに炎上した。また後小松天皇の御代、応永34年丁未(ひのとひつじ)(1427)3月6日の正午ごろ、東の門から出火して、堂塔は一堂も残さずに焼失した。また後土御門天皇の御代の文明年間にも火災があった。
 こうした度々の火災にも、一光三尊の霊仏は、ある時はにわかに横山の堂に飛び移ったり、ある時はお厨子の辺りには猛火がまったく及ばず、錦の戸帳の内部は光り輝いて無事で、ある時は紫の雲に乗って金堂にお移りになるなど、生身(しょうじん)の仏像でなければどうしてこのような不思議なことがあろうか。仰がなければならない。信じなければならない。
 
 善光寺如来が百済より渡来してから、13代の天皇が引き続いて信仰され、あるいは宮中に安置されたこともあった。その天皇の歴代。
 (略)
 
○光明常燈(本尊のお厨子の前にある。昔から消えたことのない灯明だという。
その始まりは、本田善光の願いによって如来の光を移したもので、現在に至っている)
○後堂(内々陣の背後)には弘法大師四国八十四番の観音、釈迦、阿弥陀、観音、勢至を安置している。
○外陣には畳100畳ほどを敷いてあり、参詣の貴賤の人々はこの場所で礼拝(らいはい)する。毎晩通夜(つや)する人が大勢ある。
○正面の入口の前に、中左右と3つの賽銭箱がある。
○外陣に定香炉(じょうこうろ)の台がある。その脇の花瓶には松が差してある。これを親鸞聖人お手生けの松という(毎月1日に差し替える)。また堂に上がると、東西に鐘を釣るしてある。他では見ることのできないものである。普段は突くことがなく、開帳の時に用いる。
○戒壇廻りということがある。須弥壇(しゅみだん)の東脇に入口がある。階段を下り、内陣の下を3度巡って元の口に出る。まったく闇夜のようである。世間では、心がけのよくない者はここで犬となり、また不思議なことがあると、言い伝えている。未詳。
○御年宮(本堂の後ろにある)この宮は昔は八幡の社だったが、今は横沢町に移してあって、その跡である。毎年12月の2の申(さる)の夜、午前2時に儀式がある。
○鐘楼(本堂の東にある)
○毘沙門堂(本堂から東へ2丁の所にある。大勧進の別荘がここにある)
○納骨堂(本堂の北西にある)この辺りは本堂の裏通りで、諸家の石碑がたくさんある。
○経蔵(本堂の西にある)高さ4丈6寸2分、横6間3尺2分四方である。
○御供所(ごくうしょ)(本堂の北東にある)
○蓮花松(如来ご来迎の松という)
○十六善神(正月、5月、9月15日、大般若経会、その他ご祈祷の時に扉を開く)
○秋葉宮(経蔵の西にある)
○弁才天祠(やしろ)(同じく北にある)
○山王塚・諸神塚(本堂前左右の立石がそれである)
○万善堂(別当所の北に続く、東向きの仏堂である)
○忠信・次信の五輪塔が2つ並んで立っている。(三門内の西側にある。大昔の姿で、文字も斑になっていて分かりにくい)
○鉄灯籠(かなどうろう)・石灯籠 相馬弾正少弼(だんじょうのしょうひつ)室、石川播磨守、平岡美濃守室などをはじめとして、諸国から奉納したものは約230基余で、一晩中その光が消える時はない。
 以上は三門内である。(三門へ上がる日は、正月15日、16日、春秋の彼岸、3月15日、4月8日、7月14日、15日、16日、10月15日である)
○三門 高さ6丈6尺7分、間口11間1尺3寸、奥行き4間2尺4寸、文殊菩薩と四天王を安置する。
 
 これより仁王門までを記す。
大勧進(西側にある)別当所である。東叡山・比叡山からの住職である。
○手水鉢(三門外の別当所の前にある)
○天王宮(別当所の南にある)例祭は6月13日と14日で、祇園会(ぎおんえ)(祇園祭)である。山車の巡行と、夜は芝居狂言がある。その他古雅な練り歩くものがたくさんあって、たいそう賑やかで、諸国からの参詣者が多い。これを善光寺の御祭礼と言う。
○六地蔵
○大仏(山門下の東側に並んでいる)
○釈迦堂(世尊院にある)本尊は涅槃(ねはん)の釈迦如来である。天延年間に越後の古多が浜(こたがはま)から出現した像である。
○駒返り橋
○寛慶寺(山門の東にある)この寺は慈覚大師の建立で、浄土宗である。時の鐘がある。
○定念仏堂(じょうねんぶつどう)(宝林院にある。轡堂(くつわどう)という。この寺に江戸新吉原の遊女、高尾の石碑がある。13年目ごとに回向(えこう)があるという)
○地蔵菩薩(金仏(かなぶつ)である。西側にある。昔の本堂はここにあったという)
○阿闍梨池(あじゃりいけ)(その西、本覚院の裏にある)昔、皇円阿闍梨が蛇の姿となってこの池に住んだという。詳しい言い伝えはまだ聞いていない。
 思うに、遠州桜が池の話では、昔、比叡山の肥後の阿闍梨源皇という高僧は、比叡山で並ぶ者のない学者であった。法然上人の師で、上人はこの源の字をいただいて源空と名乗られた。
 さて源皇はつくづく考えた。「仏道は奥深く、自分の一生の修行では悟ることはできないだろう。弥勒菩薩が56億7000万年後にこの世に出現して説法されるのを待つことにしよう。しかしそれまで命を長らえるには、竜になるに勝るものはない。」
 そこで弟子たちを諸国に下らせて、竜が住む所を調べさせたところ、東国に行った使者が帰ってきて申し上げた。「遠江国(とおとうみのくに)笠原の荘に桜が池という池があります。南は青い海がどこまでも続き、北は青々とした山々がそびえ立っています。その間に池は水をたたえていて、水深は計り知れません。しかも清らかに澄んでいて、竜が住むにふさわしい霊池です」と申し上げた。
 阿闍梨はそれを聞いて、ある夜、座禅をして、一滴の水を手のひらに握り、竜となって雨風を起こし、雲に乗って桜が池にやって来て、そこにお入りになったので、波が激しく立ち、大雨が降り、雷が激しく鳴って、村里は大騒ぎになった。
 その後、法然上人はこの国にやって来て、池のほとりに立って師との別れを嘆き、謝恩のために阿弥陀経を読み、念仏を唱えられたところ、阿闍梨はみにくい大竜の姿で現れ、水上に頭を出して涙を流す様子である。法然上人も一緒に涙を流し、「師としてのご慈愛があるならば、元の人間のお姿でお会いください」と言ったところ、竜は姿を変えて源皇阿闍梨となり、互いに過去と未来のお話をされて、阿闍梨はまた水中にお入りになったと言い伝えている。
 だから皇円阿闍梨が蛇の姿となってこの池に住んでいるという話も、桜が池と同類であろう。
○諏訪明神社(敷石の東にある。祭は9月14日)
○熊野権現社(同じく西にある。祭は9月15日)この2社は、善光寺一山の守護神である。(神主は斎藤下総守)
○飯縄社(一山の火防の神となっている)
○閻魔堂(奪衣婆(だつえば)は小野道風作。閻魔は先年焼失した)
○御霊屋(おたまや)(大本願の北にある)御霊屋と御年宮は幕府のご造営だという。
○摂待所(同所にある)ここから上1町ほどは左右に小店が立ち並んでいて、数珠屋町という。江戸浅草雷門の内側の小間物店に似ている。如来御影の掛軸や数珠などをたくさん売っている。
○仁王門(高さ3丈9尺2寸、間口6間4尺6寸、奥行き4間1尺2寸。南側に仁王がある)北側は三宝荒神と三面大黒天(伽羅仏(きゃらぶつ)である)。
○大本願(紫衣(しえ)を許された尼寺である)住職は堂上家の姫君で、善光寺上人と称している。日本三上人の1つである。(日本三上人とは、善光寺上人、尾張熱田の誓願寺上人、伊勢宇治の慶光院上人)
○社家斎藤氏の宅(同寺の南に並んでいる。下総守(しもうさのかみ)と号している)
○法然上人旧跡(正信坊にある。上人が善光寺参詣の時に逗留した場所で、自作の木像がある)
親鸞聖人旧跡(堂照坊にある。笹字の名号と聖人の肉付きの歯がある)寺伝によれば、親鸞聖人は越後の国府に流罪となっていたが、建暦元年(1211)の春、朝廷からお許しがあった。その後、常陸国(ひたちのくに)へ行かれる時、当山に参詣して、堂照坊にご逗留の間に戸隠参詣された帰りに、風越(かざこし)という所でしばらく休んでおられた時、たわむれに道端の岩笹を採って、南無阿弥陀仏の文字の形を作られ、すぐにその夜堂照坊で、笹字の名号を書いてお与えになったことによって、風越の名号ともいう(建暦元年3月上旬にご逗留。この時堂照坊は、第21世源阿大蓮教智比丘(びく)の代であった)。聖人は横曽根正信坊と鹿島順信坊を連れて、当山の如来にご参詣になった。この時、花松をささげられた。今は親鸞松と言い伝えている(本堂正面の太鼓壇にある。毎月1日に差し替えている)。聖人の肉付きの歯、1つ(堂照坊にある)。74歳の時で、それを詠んだお歌1首がある。
  いつのまに髪に霜おき一葉落ち身にしみてこそ南無阿弥陀仏
また元仁2年乙酉(きのととり)(1225年)4月15日にもご宿泊になった(堂照坊第24世、空阿大徳了意比丘の時代である)。
聖徳太子鏡の御影(浄願坊にある。16歳の時のご自作の木像である)
○二天門(先年焼失して、礎石だけが残っている)東側に高札がある(松代侯が建てた)。西側に番所がある。参詣の人々で宿坊へ入る人は、ここで案内をする。本堂からこの礎石まで、長さ4丁、幅3間余の敷石が、碁盤の目のように敷き詰められている。これは伊勢白子(しろこ)の大竹屋某が寄進したという。
 
 ここから南へ連なる大門町・後町・新田町石堂町などは、北国街道の道筋である。商店が軒を連ねていて、旅籠(はたご)が多い。名産の牛皮餅(ぎゅうひもち)や銅細工(あかがねざいく)の店がたくさんあり、その他、果物、魚、食器などが豊富にあって、不便なことがない。男女の風俗や言葉も江戸の気風があって、繁盛の仏都と言うことができる。
 
善光寺には、四門四号というものがある。
 (略)