町と町に準ずるもの

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 幕末期には箱館市街の町名として沢山の町名が登場するが、箱館奉行が所管したと思われる人口戸数等の統計上に見られる町名としては、寛政期(1790年代)にはその存在が確認できる弁天町大町内澗町仲町神明町、大黒町、山ノ上町地蔵町の8町と、そのすぐ後に1町となった鰪澗町、文化11(1814)年からの大工町、幕末期に箱館市中の統計に入るようになった尻沢辺町の11町がある。このほかに先の8町からは若干遅れて成立したと思われる古い町としては会所町があったが、この町は「小役人・足軽并請負人小林屋等住す」(「蝦夷日誌」『函館市史』史料1)町で、百姓町人といわれた人々が人口戸数等の統計の対象となっていた江戸時代にあって、町政の枠外の小役人等が多く住む町として、内澗町持ちとなっていたようである。
 
 表2-20 町代表(明治2年12月現員)
担当町名
大町伊藤弥太郎常野与兵衛
内澗町平田文右衛門   啓治津田勘兵衛
弁天町枚田藤五郎昆藤助
地蔵町西村宇十郎  新六石川喜八秦泰治
三町   徳兵衛佐藤庄兵衛
大黒町   新五郎   重兵衛
山上町   宇左衛門村林又右衛門辻嘉左衛門
尻沢辺   徳三郎   松右衛門

 注 苗字は史料にないもので、ほかの史料から推定で入れたものである。
  明治2年7月「沽券地御用留」より作成
 
 ところが、先に述べた明治2年12月提出の町役人の職務についての報告書には、中年寄の市中総町の担当区分ついて「市中八ヶ町を七人を以相勤、日々町会所へ一同相詰」と記されている。これは町政を担当していた町会所では、函館の町について「8町」と認識し、その他の町はこの8町持ちと位置付けていたことを示していると思われる。この考え方は、明治2年12月に函館市中の町代の現員報告(表2-20)に端的に示されている。大町内澗町弁天町地蔵町、三町、大黒町、山上町、尻沢辺町がその8町である。この内、三町というのは鰪澗町仲町神明町を総称したもので、箱館の表通りの町(弁天町大町内澗町)の裏手(函館山側)に裏町として発展したこれらの町は、古くから三町と総称されてきた町であった。また、文化11(1821)年から統計上に登場した大工町は、その後の天保12(1841)年の「箱館町々戸口其他」でも内澗町持ちとなっており、町政的には内澗町の範疇で処理されていたようである。
 つまり町政上の町は、大町内澗町弁天町地蔵町、大黒町、山上町、尻沢辺町、鰪澗町仲町神明町の10町で、これに統計上では1町として扱われることもある大工町を加えた11町が公的に認められた「町」で、その他は「町に準ずるもの」との位置付けであったといえる。
 なお、この11町を基礎とする最後の統計と思われるものが、明治5年の開拓使の記録中に「函館并近在六箇場所共人口戸数租税調大略」(道文蔵)との表題で残されている(租税調べの内容から明治3年以前のものと推定)。
 『函館区史』ではこの時期の町域について、「明治二年の町」という見出しで「函館市街は明治二年九月開拓使出張所の調査によれば、町及び町に準ずるもの五十三あり」として、表2-21の町名を掲げている。しかし開拓使出張所が、この時期この種の調査を行ったという記録はない。この町名表は、『開拓使事業報告』第1編地理の部に「明治二年九月開拓使出張所管轄町村左の如し」として載せられている渡島国の函館市街の町名と全く一致するので、この表を引用したものと思われる。ところがこの表にはこの時期函館には含まれていなかったと思われる町名が入っている。函館市中の最も北東に位置する海岸町、富沢町、大縄町の3町で、うち海岸町は明治6年3月に「亀田郡亀田村地内海岸町 右は函館区内へ列候ニ付」(明治6年「御達書留」)との布達により亀田村から函館へ編入されている町である。他の2町も編入を確認できる文書は発見できなかったが、両町とも海岸町の横に並列する町で、明治9年の調査でも両町とも人口戸数ともゼロの町である。明治2年頃から函館の中に組込まれていたとは到底考えられない。明治2年での函館の町及び町に準ずるもの数は50町であったといえる。尤も町に準ずるものと思われるものの中には、現在その痕跡さえも確認できないものも含まれている。
 
表2-21 『函館区史』の「明治二年の町」表
寺町
神明横町
駒止町
下大工町
喜楽町
築島
龍神町
花谷町
天神町
鍛冶町
尻沢辺
七軒町
地蔵町
大森
梅枝町
茶屋町
浜町
鰪澗町
大黒町
蔵前町
海岸町
常盤町
坂町
町代
横町
大町
鶴岡町
富沢町
芝居町
山上
代地竪通
仲町
仲浜町
一本木町
大縄町
天神町
下新町
大町上通
神明町
内澗町

豊川町
合計
片町
山背泊
会所町
弁天町
東浜町
西川町
五三町
弁天町代地
台町
上大工町
西浜町
恵比須町
東川町
注 青文字は公認町名(ただし上下大工町は単に大工町として)で、赤文字は当時はまだ亀田村所属の町名