表2-20 町代表(明治2年12月現員)
担当町名 | 町代名 | |||
大町 | 伊藤弥太郎 | 常野与兵衛 | ||
内澗町 | 平田文右衛門 | 啓治 | 津田勘兵衛 | |
弁天町 | 枚田藤五郎 | 昆藤助 | ||
地蔵町 | 西村宇十郎 | 新六 | 石川喜八 | 秦泰治 |
三町 | 徳兵衛 | 佐藤庄兵衛 | ||
大黒町 | 新五郎 | 重兵衛 | ||
山上町 | 宇左衛門 | 村林又右衛門 | 辻嘉左衛門 | |
尻沢辺町 | 徳三郎 | 松右衛門 |
注 苗字は史料にないもので、ほかの史料から推定で入れたものである。
明治2年7月「沽券地御用留」より作成
ところが、先に述べた明治2年12月提出の町役人の職務についての報告書には、中年寄の市中総町の担当区分ついて「市中八ヶ町を七人を以相勤、日々町会所へ一同相詰」と記されている。これは町政を担当していた町会所では、函館の町について「8町」と認識し、その他の町はこの8町持ちと位置付けていたことを示していると思われる。この考え方は、明治2年12月に函館市中の町代の現員報告(表2-20)に端的に示されている。大町、内澗町、弁天町、地蔵町、三町、大黒町、山上町、尻沢辺町がその8町である。この内、三町というのは鰪澗町、仲町、神明町を総称したもので、箱館の表通りの町(弁天町、大町、内澗町)の裏手(函館山側)に裏町として発展したこれらの町は、古くから三町と総称されてきた町であった。また、文化11(1821)年から統計上に登場した大工町は、その後の天保12(1841)年の「箱館町々戸口其他」でも内澗町持ちとなっており、町政的には内澗町の範疇で処理されていたようである。
つまり町政上の町は、大町、内澗町、弁天町、地蔵町、大黒町、山上町、尻沢辺町、鰪澗町、仲町、神明町の10町で、これに統計上では1町として扱われることもある大工町を加えた11町が公的に認められた「町」で、その他は「町に準ずるもの」との位置付けであったといえる。
なお、この11町を基礎とする最後の統計と思われるものが、明治5年の開拓使の記録中に「函館并近在六箇場所共人口戸数租税調大略」(道文蔵)との表題で残されている(租税調べの内容から明治3年以前のものと推定)。
『函館区史』ではこの時期の町域について、「明治二年の町」という見出しで「函館市街は明治二年九月開拓使出張所の調査によれば、町及び町に準ずるもの五十三あり」として、表2-21の町名を掲げている。しかし開拓使出張所が、この時期この種の調査を行ったという記録はない。この町名表は、『開拓使事業報告』第1編地理の部に「明治二年九月開拓使出張所管轄町村左の如し」として載せられている渡島国の函館市街の町名と全く一致するので、この表を引用したものと思われる。ところがこの表にはこの時期函館には含まれていなかったと思われる町名が入っている。函館市中の最も北東に位置する海岸町、富沢町、大縄町の3町で、うち海岸町は明治6年3月に「亀田郡亀田村地内海岸町 右は函館区内へ列候ニ付」(明治6年「御達書留」)との布達により亀田村から函館へ編入されている町である。他の2町も編入を確認できる文書は発見できなかったが、両町とも海岸町の横に並列する町で、明治9年の調査でも両町とも人口戸数ともゼロの町である。明治2年頃から函館の中に組込まれていたとは到底考えられない。明治2年での函館の町及び町に準ずるもの数は50町であったといえる。尤も町に準ずるものと思われるものの中には、現在その痕跡さえも確認できないものも含まれている。
表2-21 『函館区史』の「明治二年の町」表
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