稲作農耕を生産基盤とする本州の弥生文化に併行する時期に、北海道地方に展開した縄文文化以来の食料採集に生産基盤をおく文化には「続縄文文化」という名称が与えられた。近年、青森県・秋田県・岩手県そして宮城県にも続縄文文化の遺跡が多く知られるようになり、さらに、福島県・山形県・新潟県にまで分布域が広がった。時期的にも弥生時代から古墳時代後期まで併行することが明らかになってきた。
この続縄文文化の南下に関しては、気候の寒冷化と結びつけて説明されることが多い。東北地方北部における弥生時代後期以降の遺跡数減少は、気候寒冷化によって稲作農耕が後退し、人口が減少したことを示すと考えられている。当時の生産技術は、自然条件に大きく影響されたことは確かであるが、もう少し別の角度からも説明をつけ加えておくことにしよう。
日本列島の北に位置する津軽地方における稲作農耕の導入は、土器に施された文様の特徴などからもわかるように、縄文文化の伝統を受け継ぐ在地の人々の手で行われたのである。したがって列島最北の稲作農耕民は、気候の寒冷化によって、稲作に代わる生計戦略を模索することなく在地を放棄して、南の稲作地帯へ後退してしまったとばかりはいい切れない。東北地方北部で稲作農耕が行われていたころ、北海道地方で続縄文文化を形成した人々は弥生文化の影響を享受(きょうじゅ)していたと考えられ、両者の交流関係をうかがい知ることができる。とすると、続縄文文化の本州南下は、基本的には鉱物資源(主として鉄)、農・水産物、獣皮など諸物資の交換・獲得という人間集団の経済的要求に起因するものであり、さらにまた、サハリン鈴谷(すすや)貝塚を標準遺跡とし、オホーツク文化出現期に関わる鈴谷式土器の南下という現象も少なからず関係していたものと考えられる。東北地方に多く分布をみせる続縄文文化の江別C2・D式土器が盛行した三、四世紀という時期に北海道地方では続縄文文化は決して南へ退いていったわけではない。それまで地方色の濃かった続縄文土器は、江別C2・D式土器の時期に至って斉一性(せいいつせい)を強め、全道的な展開をみせているのである。鈴谷式と江別式の間には、円形刺突文が認められるという点から両者の交流関係を示唆することはできるが、両者の対立関係を示唆する根拠は認められない。気候の寒冷化によって在地における稲作農耕を放棄せざるをえなかった集団のなかにも、錯綜する文化の交流地帯における仲介者が存在した可能性がある。
ところで、続縄文文化の指標のひとつである後北(こうほく)式土器とは、「後期北海道式薄手縄文土器」を略した名称である。これは、本州の縄文土器が、「厚手式」あるいは「薄手式」と呼ばれていた当時の呼び方を踏襲したものであり、その時代概念は昨今研究の成果とは整合しない。また、標準遺跡名を土器型式名に充(あ)てるという原則からしても、必ずしも適切な名称とは思われない。本州側では、従来通り「後北式」という名称を用いることが一般的であるが、主に江別墳墓群から出土した土器を基準に後北式石狩型、後に江別型と呼ばれていた土器については、江別(A~D)式の名称を用いて記述をすすめることにしたい。
また、江別C2・D式に後続する北大(ほくだい)式土器については三類に分類されることが多かったが、その位置づけを明確に確認しておくことにしよう。江別式の系統を引く細隆起線で特徴づけられる一群の土器を江別式から分離してしまうことには多少の問題が残るが、古墳文化の遺物との共伴例が次第に明らかになってきたことから、両者の交流関係が安定化してきたことがうかがわれ、江別式の時期との画期を認めて「北大Ⅰ式」とし、縄文と沈線文が組み合わせられた続縄文終末型式の土器については、従来どおり「北大Ⅱ式」という名称を用いる。北大Ⅲ式と称された土器については、かつては墳墓以外の遺構形態がはっきりしなかったが、恵庭市カリンバ3遺跡ではカマドをもつ隅丸(すみまる)方形の竪穴住居跡に伴って、鋸歯状沈線文(きょしじょうちんせんもん)・突瘤文(とつりゅうもん)を特徴とする甕と東北地方南部の栗囲(くりがこい)式~国分寺下層式併行の土師器坏などが出土し、青森県内でも八戸市根城跡、同市湯浅屋(ゆあさや)新田遺跡などのほか、岩手県および宮城県の北上川流域、岩手県の馬淵川流域でも鋸歯状沈線文・格子目状沈線文の施された甕や坏が出土することが明らかになってきた。カマドをもつ方形の竪穴住居は擦文文化を特徴づける重要な文化要素であり、先の特徴をもつ土器群は擦文文化初頭型式に位置づけることが可能である。この時期の土器は、近年「十勝茂寄(とかちもよろ)式」と呼ばれている。北大式土器と称されてきた土器は、本来、続縄文文化から擦文文化へ推移する過渡的な時期に位置づけられる特徴をもっている。