まず、南部氏についてみてゆくことにしよう。天正十五年(一五八七)六月十九日、前田利家は、南部信直に対して血判誓紙をしたためて、秀吉にとりなすことを約束したことが知られている(資料古代・中世No.一〇七七)。そして、八月には、信直が豊臣大名の一員として認められたことが、利家から伝えられている(同前No.一〇七八)。
これまで述べてきたように、奥羽に対する惣無事令の発令の時期、そして、それが北奥羽にまで伝達されたかどうかというところについては、議論のあるところではある。しかし、少なくとも、北奥羽の大名と豊臣政権とのかかわりを考えたとき、右の二つの事実は動かしがたいものであるといえよう。
また、これより少し前の天正十五年四月、利家は、南部氏からの要請で、田名部(たなぶ)から逃れた船を見つけ次第に捕まえるように、越中・能登・賀州の浦々百姓に対して命じている(『金沢市史』資料編三近世一)。
このように、南部信直は、前田利家との好(よし)みを通じて、豊臣政権とも結びついてゆくようになる。また、最上氏の侵攻にさらされていた仙北(せんぼく)の本堂道親(ほんどうみちちか)も、豊臣勢の出羽出動に期待し、その情報を南部氏に問い合わせていたといい、北奥羽の大名に対する豊臣政権の求心力をみることができるという(藤木前掲書)。
一方、北羽の安東(秋田)氏の場合、現在のところ、このころの統一政権とのかかわりを示すような史料は知られていないが、愛季(ちかすえ)は、天正十年(一五八二)六月の本能寺の変によって織田信長が死亡すると、ただちに秀吉に対して手紙を送っている。そして、九月に、秀吉は愛季に返書を送り、その状況を伝えている(『能代市史』資料編古代・中世一)。
この返書の中で、秀吉は、当時すでに秋田城介(あきたじょうのすけ)から左中将となっていた織田信長の長子信忠(のぶただ)を、「(秋田)城介殿」と記している。秋田城介の官途は、中世の「蝦夷沙汰(えぞのさた)」に密接にかかわるものであるといわれ(遠藤巌「秋田城介の復活」高橋富雄編『東北古代史の研究』一九八六年 吉川弘文館刊)、ここでの秋田城介という表記も、秀吉の統一政権構想から、この「蝦夷沙汰」にかかわる愛季の存在を見逃すことができなかったことを示しているものであるという(遠藤巌「戦国大名下国愛季覚書」羽下徳彦編『北日本中世史の研究』一九九〇年 吉川弘文館刊)。
豊臣政権の東国政策は、特に家康の臣従以前は増田長盛(ましたながもり)・石田三成を機軸とし、上杉―佐竹・宇都宮・結城(ゆうき)―蘆名(あしな)の系列が形成され、これをもとに推進されており、これに近い南部・安東氏を加えると、北国海運の商業資本の存在まで予測することが可能であるという(朝尾直弘「豊臣政権論」『講座日本歴史』近世一 一九六八年 岩波書店刊)。また、奥羽、なかでも北出羽は、北国海運を通じて上方(かみがた)の的確な情報をつかむことができたという(藤木久志『織田・豊臣政権』一九七五年 小学館刊)。ここでみたように、南部・安東(秋田)氏のような北奥羽の大名は、中央の状況に対して敏感に反応していることがうかがわれる。北奥では、このルートを通じて惣無事令の情報をつかんでいたのであろうか。
南奥羽では、たとえば伊達氏の場合、天正十三年(一五八五)五月から翌十四年八月までの長期にわたり軍事行動を継続した。しかし、それ以後は、天正十六年(一五八八)一月の大崎(現宮城県北部)への出兵まで、伊達氏は、出陣・出兵をほぼ停止している。これは、秀吉による停戦令、そして奥州への「惣無事」令によるものであるという(立花前掲論文)。
北奥地域では、史料の信憑性の問題はあるが、天正十五年四月ころから、南部信直が斯波へ進発しようとしたという天正十六年七月ころまでは、目立った動きはみえないようである(「七月十七日付南部信直宛葛西晴信書状」)。