請作が設定された場所は、蔵入地の一年作の場合、給人上知(きゅうにんじょうち)・百姓跡地に設定された。そして、蔵入一年作請作地の年貢は、代官により、地所に応じて決定するとした(「御定書」四五)。また、代官のみならず、一年作奉行が設置され、奉行には番方上士(本参、または手廻組)が多く選ばれている。この一年作奉行の動きを、延宝三年(一六七五)の例によってみると、以下のとおりである。
まず、一年作奉行は、二月から三月初めの約一ヵ月にわたって派遣され、奉行の管轄が広範囲に及んでいる。そして、その任務は、「渡方吟味」と表記されていた。これらは、一年作地の年貢決定権が代官に属するということもあってか(同前四五)、一年請作奉行が請作地で、請作関係の設定作業をしたものではないことをうかがわせる。
「国日記」貞享三年(一六八六)二月二十八日条の外浜上磯(そとがはまかみいそ)代官の申し立ては、
②この地が新開地であったこともあってか、天和三年(一六八三)になって斗代が引き下げられ、「近年」では耕作の条件が改善され、この年には、本来の「渡方入札」で請作人を決定しても差し支えない。
というものであった。つまり、請作地の決定は、代官が、耕作希望者に斗代を競わせて、高い者に落札するという、「渡方入札」という方式で行われるのが本来の姿であったということができる。さきの一年作奉行の任務である「渡方吟味」とは、代官により入札された結果を吟味・最終決定したうえで、「一年作上帳」を作成することであった。
次に、給地の請作地であるが、給地は給地百姓地と給地作人地から成り立っており、作人地の斗代は、百姓地のものよりも高い。しかも、作人地の斗代は一律ではなく、おそらくは、蔵入地と同じように入札によって決定されていたものと思われる。そして、給地作人地は、中期にそうであるように、知行地を領内に分散(前期は積極的に外浜に知行地が設定される)させ、そこに作人地の割り込みと割り付けが行われたと思われる。また、一年作奉行によって検地で確定した打出地にはただちに請作人が決定したと考えられ、給地作人地の最終決定権は、蔵入地と同じように一年作奉行にあったようである。また、給地作人には御蔵百姓なども当てられており、こうした農民を、給人が藩の地方支配とまったく別に知行地で作人化したとは考えにくい。これらのことから、給地の請作も、蔵入地での代官の手による入札制にならい、給人により耕作を希望する農民が募られ、最終的には一年作奉行を通じて藩の承認を経て決定するものであった。