西廻海運の発達は、大坂市場の発達とともに盛んとなり、流通機構の再編成を促した。津軽地方における上方廻米は、文禄四年(一五九五)の組屋源四郎による、太閤蔵米(たいこうくらまい)の南部と小浜への売却が知られる(資料近世1No.五九)。津軽氏の上方廻米は、為信が京都・大坂・敦賀に屋敷を構えた文禄二年(一五九三)ころに開始されたと推測される(同前No.五五)。
敦賀の蔵屋敷には御蔵が付設され、後の機能から考えて、主に国元からの廻漕物資、上方で購入した物資の国元への廻漕といったものの管理・運営をつかさどったと思われる。初期における津軽氏による上方廻米は、秋田氏がそうであったように、上方での生活に充てる台所米を中心とした兵糧としてのものであったと思われる。
さて、上方への廻米は、領内での流通機構の確立と不可分にある。本節二で触れる「十三小廻(とさこまわ)し」体制の成立がその一つであるが、これは、岩木川流域の津軽の穀倉地帯からの米穀が、舟運(しゅううん)で十三湊に集荷され、海上を鰺ヶ沢に廻漕される体制のことである(北見俊夫『日本海上交通史の研究―民俗文化史的考察―』一九八六年 法政大学出版局刊)。そして、これが緒(ちょ)についたのは、鰺ヶ沢に町奉行が設置された元和期であると思われる(渡辺前掲書)。はじめは、主に十三湊の町船・岩木川河岸の川舟がそれを担っていた。しかし、蔵物(くらもの)の上方廻漕によって積み荷が急増したため、おおよそ寛永から寛文期ころに藩船を利用する岩木川舟運機構が構築されることになる。岩木川を航行した船は、高瀬船かこれに次ぐ大きさの艜船(ひらたふね)であったと推測され、一〇〇俵積程度のものが多かったという(『五所川原市史』通史編1)。また、鰺ヶ沢は、西廻海運と藩経済の結節点としての位置を得ることになり、鰺ヶ沢町人が上方廻米船の上乗人に登用されたり、払米市場の設置、他国船の船宿といった機能を備えるようになってくる。