十七世紀の前半から後半にかけて、新田高は飛躍的に増大するが、十七世紀の末にはほぼ限界に達し(第二章第二節三参照)、十八世紀においては、その開発の成果を維持するのが精一杯の状況であった。各期の郷帳によって新田高の合計の推移をみてみると、貞享元年(一六八四)の朱印改め時が一九万七三〇七石余で最高を示し、宝永八年(一七一一)・享保二年(一七一七)・延享二年(一七四五)・宝暦十年(一七六〇)・天明七年(一七八七)の朱印改め時のそれは一九万六三五三石余となっており、年貢収納高が頭打ちになっていた(浅倉有子「津軽藩の郷帳について」『弘前大学国史研究』七三・七四)。
さらに、十八世紀の初頭には、貨幣経済の浸透によって米価の低落とは逆に、諸物価が高騰する経済状況が顕著となり、年貢収入が減少する反面、財政支出が増大していったことで、藩財政は困窮の一途をたどることになる。そして、これに拍車をかけたのが、連年の不作・凶作であった。
藩は、廻米を担保として、江戸や上方の有力商人からの借財によってこれをしのいでいくことになるが、特に寛延二年(一七四九)の大凶作によって、藩財政は困窮の極みに達し、宝暦四年(一七五四)時点での藩の累積借財高は、江戸・上方・国元と合わせた総額が、金三五、六万両にも及んでいた。特に上方からの借財が多く、全体の七割ほどを占めている。藩の年間総収入の二倍近い負債であり、もはや倹約や知行借り上げといった方策では、対処しがたい状況に陥っていたことになる(本節二参照)。宝暦三年から始まる藩の宝暦改革では、この借財を整理し、上方市場に依存する体制を脱却して、財政の立て直しを図ることが第一の課題であった。
一方、貨幣経済の浸透を主な背景として、農村状況も十八世紀中ごろから変容していった。それは、田畑の売買や質入れが行われることによって、農民の階層が上層農と下層農に分解する傾向を示し、小作人層の増大が本百姓体制を動揺させたのである。しかも、土地移動が一村を越えて広範に行われたことから、この時期の農村状況は、少数の肥大化した百姓と、増大化していく下層農・日雇取(ひようどり)層との関係が、一村を越えて広域化していく中で、百姓数の減少が現実化している状況ととらえられる。そして、この増大化した下層農・日雇取層が、それぞれ小作・仮(借)子(かりこ)として一部の上層農の再生産に組み込まれることで、自らの生活を維持していたことが、一層この傾向を拡大させていくのである(瀧本壽史「宝暦・天明期津軽藩農村の諸問題」『弘前大学国史研究』七一)。ここに、長期的な百姓取り立てと、暫時的な上層農による農民支配、および広域化した土地移動・農民関係に対応できる支配体制の構築が、藩政の課題として設定されることになった。