宝暦五年の飢饉時における対策については既に「宝暦の飢饉」において触れた(本章第一節一)。そこでの諸対策は、豪農層の経済力に支えられていたものであったが、乳井は彼らを農村支配においても大いに取り込んだ体制を組んだ。いわゆる「郷士(ごうし)」身分の設定であり、宝暦改革においては、大庄屋制(おおじょうやせい)として展開した。
十八世紀後半に入ると、しだいに農民は上層農と下層農に分極していく。また下層農の生活が上層農によって支えられるという状況が現れてくる。しかもその状況が、上層農による一村を越えた土地所持の中で行われていくことから、農村政策においても、一村単位の政策から、数ヵ村ないしは組単位の農民および土地把握を必要とする政策をとらざるをえなくなってきていた。郷士という新たな中間的身分の設定は、彼らを代官―村役人の中間に位置させることによって、農政単位の広域化に対応させようとしたわけである。また、数ヵ村単位で農民扶助を行っていた彼らの実態にも即しており、その意味では百姓経営の安定をも意図したものであった。
宝暦五年(一七五五)三月二十一日、代官を削減して、在方の「重立(おもだち)之者」二四人が大庄屋に任命された(その後三人追加)。そしてこれに伴い、庄屋と五人組が廃止され、大庄屋の下に手代(てだい)、その下に手付(てつき)が置かれ、それぞれ庄屋と五人組の業務を受け継いだ。大庄屋は俵子(ひょうす)五〇俵で帯刀御免、年始登城を許され、おおよそこれまでの代官の勤めを果たすこととなった。従来の郡奉行―代官―庄屋―五人組体制から、郷士身分の大庄屋の設定によって、郡奉行―代官―大庄屋―手代―手付体制に藩の農政機構が変わったことになる。手代と手付は村ごとに置かれ、大庄屋の目にかなった者が、大庄屋の申し立てによって配置された。つまり、大庄屋の支配単位が農政単位となったわけである。弘前の名主会所を借りて「加談所」とし、日常の業務は、そこに通って行われた。にわかに武士となった大庄屋たちは、金銀にまかせて大小の刀を差すなど、その威勢はもとの代官の一〇倍もあったという(資料近世1No.九二六~九二八、『平山日記』)。
さて、町・在の「重立之者」、すなわち領内の富裕層を藩政に取り込む施策は、すでにみてきたような、御用金の賦課や、宝暦四年の運送加談(運送方手伝)への任命のほか、同六年十月には運送方を蔵奉行に任命したり、同十一月には村々の手代に一〇俵を与えて苗字御免とするなど、「郷士」身分への登用を伴った形で行われるようになってくる(『平山日記』)。大庄屋制も大きくは、この「重立之者」を「郷士」として位置づけたうえでの施策であった。宝暦十一年に大庄屋は廃止されるが、郷士はそのまま差し置かれ、その後も「在方重立之者」を郷士に任命し、安永三年(一七七四)には七〇人ほどとなっていたという(『平山日記』)。この後、廃田開発を主要な任務として、天明七年(一七八七)二月から寛政元年(一七八九)九月まで、再び大庄屋制が展開するが(資料近世2No.一四・一五・一七)、この政策の基底にあったのもやはり「郷士制」であった。町・在の富裕層を取り込んだ政策は一貫してとられていたのであり、その上で、藩政の状況に応じた施策が講じられていったのである。