弘前城本丸御殿の間取りなど居館の形式は、寛文~貞享期(一六六一~八八)の改造や拡張によって確立し固定したとみられる(佐藤巧『近世武士住宅』一九七九年 叢文社刊)。ここでは「弘前城本丸殿中図」(弘図古)によって、弘前城本丸御殿をみることにしたい(図87参照)。御殿は用途の上から六つに区分されよう。
図87.弘前城本丸御殿平面図
①玄関および御用所
②公式の儀式などに用いられる表座敷
③藩主の官邸としての奥座敷
④藩主の私生活の場としての奥
⑤台所
⑥その他―能舞台、御武芸所など
表座敷と奥座敷の間に御霊殿と上ノ御廊下がある。御霊殿は歴代藩主・一族の霊を祀る仏間であるのに対し、上ノ御廊下の北に隣接する西湖(せいこ)ノ間は神事を行う部屋であった。
東の方は中ノ廊下で表座敷に続いており、さらに東の方には奥右筆・御坊主詰所などがあった。さらに東の方の端に一般家臣の出入口として使用された中ノ口がある。
②公式の儀式などに用いられる表座敷
③藩主の官邸としての奥座敷
④藩主の私生活の場としての奥
⑤台所
⑥その他―能舞台、御武芸所など
①三層櫓(現天守)を右にみて公式の出入口という御玄関を入ると廊下があり、御広間、奥に続いて二ノ間・上ノ間がある。廊下の突きあたりは屯(たむろ)所といわれる休息所があり、御玄関を入って右の方には二階のある御徒(おかち)目付・御備方(おそなえかた)・御徒休息所がみえる。これらの部屋の北側に中庭を隔てて御用所がある。ここは藩士が勤務したところで、西から東へ上段・御用所上ノ間(家老〈大名の重臣で家務を統轄する者〉が詰める)、二ノ間(用人・大目付…用人は家老の補佐役、大目付は監察を任務とし法規典礼を掌る)・三ノ間(三奉行…寺社奉行・町奉行・郡奉行の総称)・四ノ間(吟味役・勘定小頭(かんじょうこがしら)…勘定奉行の下僚)と続いている。御広間と四ノ間の間には表右筆(おもてゆうひつ)(書記)の部屋があり、上段と上ノ間に時刻を知らせる時計を設置した御時計ノ間がある。
②は西から菊ノ間・竹ノ間・芙蓉(ふよう)ノ間・詰座敷上ノ間・同二ノ間・同三ノ間と続き、芙蓉ノ間の南に鷺ノ間が隣接し、それぞれ役職や身分によって部屋が定められていた。
③表座敷の北側に中庭を隔てて奥座敷があって、座敷が二列に並んでいる。北側は山吹(やまぶき)上段ノ間・山吹(款冬(かんとう))ノ間・浪ノ間・同次ノ間と連なり、南側は山水(さんすい)上段ノ間・山水ノ間・梅ノ間・同次ノ間と並んでいる。
表座敷と奥座敷の間に御霊殿と上ノ御廊下がある。御霊殿は歴代藩主・一族の霊を祀る仏間であるのに対し、上ノ御廊下の北に隣接する西湖(せいこ)ノ間は神事を行う部屋であった。
東の方は中ノ廊下で表座敷に続いており、さらに東の方には奥右筆・御坊主詰所などがあった。さらに東の方の端に一般家臣の出入口として使用された中ノ口がある。
④は藩主の私生活の場で、東・西・南・北の各座敷と二ノ間・三ノ間・四ノ間・次ノ間、四季ノ間・長局(ながつぼね)(総二階の女部屋で一四室からなる)・御料理ノ間・御釜屋(おかまや)などからなる。
⑤大納戸(おおなんど)・小納戸には日常生活に必要なものが納められており、その東には御台所があり、調理に必要な薪炭・味噌・肴などの物置から、行燈(あんどん)部屋や家具を納めてある部屋などがある。
⑥表座敷の西南に御稽古所(藩主の剣・槍術の稽古場)、御武芸所(弓・馬術)があり、能舞台は舞台・楽屋・太夫座敷などがある豪華なもので、藩主は菊ノ間から観賞できるようになっていた。このほかの建物としては、本丸の入口に門と番所、御玄関の東側の石垣ぎわに供待所(ともまちしょ)(来客の供人などを待たせておくために門口に設けた休息所)、その北側に井戸・御仲間(おちゅうげん)部屋(雑役に従事した下男(げなん)・草履取(ぞうりとり)・奴(やっこ)などと呼ばれた下級従者の部屋)があり、北の出入り口には番所が二ヵ所設けられ、警備が厳重であった。