寛永四年(一六二七)、雷火により天守閣が焼失した時に東照宮も被害を受けたらしく、同五年、現在地へ再建の時も本祐が地鎮祭を行った。寛永年間(一六二四~四三)、信枚は塔頭(たっちゅう)千寿院・寿福院・延命院・成就院・教王院・観行院の六院に社僧を置き、各一五石を寄進した。また、神主として桃井和泉・山辺兵部大夫を置いた。
薬王院門前が何軒あったかは不明であるが、東長町支配となっていた(資料近世2No.四〇二)。塔頭六院は明治の神仏分離の時に寺禄廃止で無住になり、廃絶した。報恩寺信枚が天海に帰依したことから、藩主家は江戸の菩提寺を天台宗津梁院・常福寺としてきた。信政は父信義が明暦元年(一六五五)死去すると、国元に報恩寺を建立し、長勝寺に替えて菩提寺とした。このため、六代信著が遺言で長勝寺に埋葬されると、両寺が対立し、報恩寺が津梁院を通じて寛永寺に訴え、その威光を借りて信著の墓石を報恩寺にも建てた(「記類」)。同三年、寛永寺宮門跡より、「一輪山桂光院報恩寺」の補任状が与えられた(資料近世2No.四〇四)。信政が二〇〇石、信寿が一〇〇石、信寧が俵子五〇俵を寄進した。信義の遺骨を江戸より国元へ持参した本好を第一世に推したが、本好は薬王院の開基本祐の弟子で常福寺住職であった。塔頭観明院・光善院・正善院・一乗院・了智院・理教院を配し、各一五石が信政によって寄進された。延宝五年(一六七七)、信政が境内の西側に弥陀・勢至・観音を安置する念仏堂・善入院、東側に丈六の十一面観音を安置する観音堂無量院(現袋宮寺)を寄進し、十一面観音の入仏供養は翌六年に行われた。参道の西には日吉山山王大権現、東には池の中島に弁天堂を据える島弁天を置き、比叡山や寛永寺を模倣した伽藍配置であった。
貞享四年(一六八七)、客殿から出火して焼失し、再建されたが、翌五年に藩は手廻組頭・馬廻組頭に廟所の火消番を命じ、毎年盆中の七月十三日より十四日まで藩の経費で施餓鬼会を行った。天明四年(一七八四)には、天明大飢饉の餓死者供養の施餓鬼も行われた。
明治三年(一八七〇)、神仏分離により塔頭六子院は寺禄廃止により廃絶した。この時、熊野宮(現市内茜町)別当袋宮寺が十一面観音堂無量院と合併となり、昭和二十九年(一九五四)、隣接する弘前高校の校地拡張に伴い歴代藩主の墓石は長勝寺へ移された。
図209.薬王院