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在住の移動

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 前述の蝦夷地在住の発令・入地等も含めて、イシカリ在住の動向を示したのが表2である。ただ、史料不足のためかなりに不充分なものであり、今後追加修正を要する事項も少なくない。中でも入地した場所などは、かなりを後年の聞取り等によっており、人名も若干は追加される可能性がある。また同表の「入地後の動向」の中、年月のあとに「現」と記してあるのは、ヨイチの林家文書『御賄留』(北大図)その他によって、その時点でイシカリ在住などであることが確認されたことを示している。未完成ながらあえて掲載したのは、これまでイシカリ在住について一覧できるものがまったく作成されていないため、かなりの有用性を持ち得ることと、今後これを完成させるための布石の意味からである。また、荒井金助三男の荒井鎗(槍)次郎のように、さらに不確実なもの若干は、表からはぶいた。
表-2 イシカリ関係在住一覧(50音順)
氏名元身分在住
発令
イシカリ詰
申渡
入地場所入地後の動向備考
123
秋山繁太郎小普請
阿部兵庫支配
安政
4.3.16
安政
4.閏5.5
ハッサム万延1.12現
蝦夷地在住
高150俵
吉郎と同一人と思われる
秋山鉄三郎安政
4.3.16
安政
4.閏5.5
ハッサム元治1.6.25
蝦夷地在住
繁太郎弟
天野為三郎安政
4.9.1
安政
4.10.10
文久1.1
モロラン在住
天野伝左衛門小十人
本多一学組
安政
4.7.23
安政
4.10.10
シップ文久1.2
死去
200俵
荒井好太郎シノロ明治1.8
箱館府任用
荒井金助長男
文久1.3箱館書物御用出役
井上斧太郎小普請組
岡田将監組
万延1.2現
イシカリ在住
明治1.8
箱館府任用
荒井金助
上野吉之助安政6.3現
イシカリ在住
文久1.5
マアヌイ詰の由
12俵1人扶持
文久1.5記事『北地内状留』による
大竹慎十郎甲府御小人安政3.9安政4.2
イシカリ着
ハッサム安政4.11
オタルナイ川で遭難
万延1.7現
イシカリ在住
文久1.2現
在トンナイ
大友亀太郎安政
5.12.15
慶応
2.2.
御手作場明治1.8現
イシカリ在住
蝦夷地開懇掛
大屋文左衛門小十人組安政
4.4.25
オタルナイ川文久1.8現
イシカリ在住
高150俵
伐木改役兼務
金子八十八郎小普請組支配
松井庄左衛門組
勘定所へ出役
安政
4.12.28
ヤウスバ安政6.9.27
シラヌシ着任
文久2.5.27
箱館奉行組同心
慶応3.12現
在東トンナイ
12石3人扶持
軽部伝一郎小普請組
戸川主水支配
安政
4.12.27
ハッサム文久2.10
イワナイ在住
元治1.3
岩内炭山取開
御用取扱
持高100俵5人扶持
文久1.4槍術教授方兼務
軽部豊三安政
5.5.27
ハッサム万延1.5現
イシカリ在住
元治1.現
イシカリ在住
伝一郎弟
葛山幸三郎御先手
岩瀬内記組与力
安政
4.3.16
安政
4.閏5.5
ハリウス文久2.7現
イシカリ在住
慶応1.現
在ウショロ
現米80石
 
酒井和三郎小十人組安政
4.4.15
安政4.5
在住頭取
安政4.6
ホロベツ
鈴木顕輔甲府勝手小普請
小田切土佐守支配
安政
4.6.21
ハッサム30俵1人扶持
イシカリ場所学問所教授兼務
高橋靱負御小姓組安政3.9安政
5.4.25
ホシオキ万延1.10現
イシカリ在住
慶応2.7
江戸で死去
高橋三平次男
中川金之助小普請
小笠原順三郎支配
安政
4.4.25
ホシオキ万延1
コトニに移住
文久2
退去(箱館在住)
高105俵
慶応4.4.7箱館在住頭取
長坂与一郎清水附書院番安政3.9安政4.2
イシカリ着
安政4.5
病気出函
永嶋玄造富士見御宝蔵番
藤沼源左衛門組
安政
4.4.26
オタルナイ川明治1.8
箱館府任用
100俵2人扶持
伐木改役兼務
永嶋芝之助元治
1.7.晦日
オタルナイ川慶応3現
イシカリ在住
明治1.8
在住
玄造悴
中嶋彦左衛門山田留守居
松井助左衛門組与力
安政
4.4.25
ホシオキ万延1
コトニに移住
万延1
コトニ→シノロ
文久2
退去
高150俵
永田久蔵清水番
御庭番世話役
安政3.9安政4.5.29
箱館出立
ハッサム安政4.11.晦日
死亡
8石2人扶持
中村兼太郎清水附
勘定並
安政
5.1.23
ヤウスバ明治1.8現
箱館府任用
12石3人扶持
定役代兼務
畠山万吉京極丹後守家来安政
5.3.9
ワッカオイ明治1.8現
在住
明治2.7現
在住
町田鉄三郎安政
5.3.27
安政5.8.5
奉行イシカリで会う
町田庫之助弟
松井小申吾元治1.
7.晦日
テイネオタルナイ川
に移動
明治1.8現
イシカリ在住
八右衛門悴
オタルナイ川移動年不明
松井八右衛門越後国蒲原郡
西条村浪人
安政4.
12.晦日
ハッサムオタルナイ川
に移動
明治1.8現
イシカリ在住
オタルナイ川移動年不明
山岡精次郎小普請
仙石右近支配
安政4.
4.14
ハッサム慶応2.10
退去
高300俵
弓気多源之丞安政3.10.11
出立の由
ハッサム安政5.5現
イシカリ在住
尻沢部に移動内匠惣領
尻沢部に移動年不明
弓気多内匠清水附
書院番
安政3.10.11
出立の由
ハッサム100俵2人扶持
渡辺鼎斉元治1.
6.19
明治1.8現
イシカリ在住
明治2.7現
イシカリ在住
本道(内科)外科医師
(1) 公務日記、維新史料綱要、箱館奉行所 明細短冊(慶応2年)、仮御役所 函府御用留(同)、同 在住・御・御医師同並明細短冊(慶応3年)、函府人名録―旧幕府3巻4号所収、箱館奉行所名鑑(北大図)、箱館裁判所評決留、開拓使庶務局 御人撰評議、白主御用所 在住御用留、同 御書付幷御奉書留、モンヘツ御用所 蝦夷地御用留(安政4年)、村山家文書 北地内状留、ヨイチ林家文書 御賄留、同 御場所見廻日記、西蝦夷地高島日記―越崎宗一 鰊場史話所収、栗本鯤 北巡日録荒井金助事蹟材料荒井金助逸伝、岩村判官 札幌開拓記、谷澤尚一 札幌創建への史的階梯―札幌の歴史12号所収、等より作成。
(2) 入地場所は、『荒井金助事蹟材料』など後年の編さん物によっていることが多い。
(3) 松井小申吾の入地場所の「テイネ」(文献には手稲とある)は、石狩河口近くのテイネイと考えられる。
(4) 高橋靱負は、父に従ってまずフレナイに入ったようである。

 この表でみる限り、イシカリ在住の発令・入地は、安政四~五年がピークであったようである。安政五年夏ころのイシカリ在住の数は二二~二三人ていどと思われ、イシカリが在住制実施にあたって重点地域であったことを示している。
 しかし表にみるように、在住の転出はかなり多いのにかかわらず、その補充は現在判明している分については、元治元年(一八六四)に三人まとまって発令されているほか、きわめて少数である。イシカリ在住の数は安政五~六年頃をピークとして漸減し、明治に至ったとみられる。
 また、この表でみると、秋山、天野、軽部、永嶋、松井、弓気多のように、親子あるいは兄弟など肉親関係で組んで入地していることの多いのが、一つの特色としてあげられる。このうち松井以外は片方が従来からの幕臣である。制度で記述したように、旗本、御家人の場合は、元身分による高および在住扶持等も支給され、在住手当金のみの支給にとどまる惣領、次三男、厄介などと、収入に大きな格差があった。このため両者が組になって、あるいは息子が親を頼るという形での入地が行われる場合が多かったと思われる。また松井は後述のように「永嶋玄造場内」(栗本鯤 北辺日録)と記されており、浪人出身の松井父子は、永嶋の場所の下請人となっていたことも考えられる。
 移動(退去)の要因にも種々の場合があった。永田休蔵が安政四年十一月晦日に海岸で波浪にさらわれて死亡したのはよく知られているが、これは例外に属する。やはり明治以降の聞取り史料によく記されているように直接帰府、あるいは出函してのち帰府するというのが、もっとも多い例であったと思われる。すなわち農民招募、開拓が順調に進まず、あるいは経済的な状況の悪化、さらには寒冷かつ僻陬の地に耐えられなくなったなど、なんらかの意味での挫折であり、当然これが多数あったと思われるが、個別具体的に史料で確認するのはいまのところ困難である。これと共に顕著なのは、カラフトへの移動である。現在史料的に確認できたものは秋山鉄三郎上野吉之助大竹慎十郎金子八十八郎葛山幸三郎の五人である。さらに秋山繁太郎については、『荒井金助事蹟材料』ほかの史料で、ハッサム在住の秋山姓は吉郎と鉄三郎二人であり、万延元年暮までに北蝦夷地在住となった秋山吉郎と同一人とみられるので、これをあわせると六人ということになる。また前出史料によれば、高橋靱負は、安政五年三月城六郎に従ってカラフトのクシュンナイに渡ったとされている。この時期城はまだ着任していないから、これは六年以降のことと思われ、さらに城自体は定住せず、高橋も、万延元年十月に、ヨイチ林家の『御賄留』に「石狩在住」の肩書で記載されているから、やはりカラフトへ定住はしなかったと思われる。なお高橋は、『自筆松浦武四郎自伝』(吉田武三 定本松浦武四郎)によれば、慶応二年七月に江戸で死去している。このカラフトへ移った在住六人のうち、イシカリでの入地場所が判明している五人中、秋山(繁太郎、鉄三郎)・大竹の三人がハッサム、葛山がハリウス、金子がヤウスバで、山麓地域の在住が圧倒的に多い。また秋山鉄三郎のようにカラフトへ移ってやはり在住を続けた者もいるが、金子、葛山らは幕吏として活動していたと思われる。昇格と考えてよいであろう。

写真-2 永田久蔵の碑(西区 春日公園内)

 このようにイシカリからカラフトへの在住の移動の理由は、一つはカラフトの状況の変化と、しだいに在住を奥へ移すという官の方針、さらにイシカリ役所クシュンナイ経営とも関わると考えられるが、一方在住の側からみると、生活等の問題も強く関わっていたと思われる。すなわち安政四年六月に、奥蝦夷に在住のものは、原則として三カ年間手当を二倍にすることが定められた(公務日記)。蝦夷奥地はカラフトを指してはいないであろうが、慶応三年現在、北蝦夷地在住秋山鉄三郎在住手当金二七両と同額の「北地在住ニ付増御手当」を得ているし(慶応三年在住・御・御医師同並明細短冊)、一時カラフト在住だった岡本監輔も、倍額支給されたと記しているから(岡本氏自伝)、カラフトも奥蝦夷と同じく倍額支給であり、この手当および前述の昇格が、多くの在住を北蝦夷地に赴かせた一因となったと考えられる。
 これ以外の移動については、あまりまとまったケースはないが、ホシオキに入った中川金之助中嶋彦左衛門は、聞取りによれば万延元年に二人の開発場であるコトニに移り、中嶋は同年、のちにシノロ村の一部となった場所(中嶋村と称せられる)に移って文久二年に退去した。慶応三年現在では、中川は箱館在住(明治元年四月に在住頭取)となっており、中嶋と同居している。またハッサム入地者の中心となっていたとみられる山岡精次郎は、慶応二年十月のおそらく初旬に退去したが、これが山麓地域で最後に残った在住と思われる。そしてこれ以降、ハッサム村は在住村から御手作場へ変換したと思われるが、これについては第九章第一節で述べる。