秋田安東実季の名護屋参陣

97 ~ 98 / 765ページ
天正十九年から朝鮮出兵へ向けて準備が本格化していたが、翌文禄元年、奥羽・「日の本」に至る諸大名は名護屋参陣を下命され、続々名護屋へ参集した。秋田(安東)氏がいつころに秋田を出立し名護屋に到着したのか不であるが、文禄元年十二月晦日付の楢山剱帯(ならやまたてわき)宛ての南部信直書状によれば、信直と秋田実季が名護屋陣所において和睦し「入魂成衆(じっこんなるしゅう)」と呼ばれていることから、文禄元年に名護屋に在陣していたことは確実である。
 この名護屋参陣の際、実季は家臣へ「名護屋御陣用意(なごやおんじんようい)」のため軍役に当たる金子の上納を命じた。この時、米にして五四五石九斗に当たる金子二枚二両三分の上納を浅利氏は命じられた。これに対して、浅利氏は金子一枚三両二分を納入しているが、残る九両一分が未進分となった。これら浅利氏の実季に対する軍役太閤蔵入地からの物成(年貢)未進が、後に浅利氏秋田氏との確執の原因になっていく。

図34.秋田実季僧形像

 翌文禄二年末に実季は秋田へ帰国したが、この年は「領知方算用年(りょうちかたさんようのとし)」ということで領内一様に算用を命じたところ、浅利氏は妻子を捨て、突然上洛し「上様(うえさま)」(豊臣秀吉)に直接奉公し直参(じきさん)として仕えようと企てた。実季はこの浅利氏の行動は、未進の物成(ものなり)から逃れるためだと豊臣政権に訴えているが、事実、文禄元年の太閤蔵入地からの物成名護屋参陣のための軍役金らかに未進となっていた。
 この紛争は、かつて奥羽仕置の際に秋田検地奉行を勤めた豊臣秀次家臣木村重茲が調停に入り、結局実季が浅利氏物成未進分を容赦し、浅利氏知行を返付することで落着した。浅利氏の突然の上洛計画といい、豊臣秀次重臣木村重茲の調停といい、浅利氏はすでにこのころより中央政権内において発言力を持つ人物と交渉を持ち、秋田氏からの独立化を企てていたのである。