江戸時代前期における弘前藩と夷島(えぞがしま)とのかかわりあいで最大のものは、寛文九年(一六六九)に起こったシャクシャインの乱つまり寛文蝦夷蜂起への出兵であろう。これについての記述は第三章第一節三に譲るが、翌十年に弘前藩士則田(のりた)安右衛門賀正によって記された、寛文蝦夷蜂起の原因探索報告書ともいうべき『寛文拾年狄蜂起集書(えぞほうきしゅうしょ)』(『日本庶民生活史料集成 第四巻』一九七九年 三一書房刊)には、寛文期(一六六一~七三)に毎年一万俵の米が津軽領から松前藩に移入されることで、同藩が成り立っていたことが記されている。このため延宝三年(一六七五)三月に、松前兵庫矩広(のりひろ)が必要とした台所賄米(まかないまい)七〇〇〇俵の沖口出が、弘前藩の不作を理由に拒否されていること(「国日記」延宝三年三月十六日条)は、松前藩にとって由々しき事態を引き起こしたものと思われる。夷島つまり松前は弘前藩士にとって米の売捌(うりさばき)場所として藩政当初から有力な市場であった。
以下、具体的な例をみてみよう。寛文三年(一六六三)二月三日付の浅川伊左衛門・関伝右衛門・笹覚之丞連名の青森沖口出米願書(資料近世1No.七九六)によれば、大光寺村の仁左衛門をはじめとする七人の小知行士(こちぎょうし)が米合計三一石五斗を松前へ積み出すことを願い出ている。七人の小知行士は上方詰中であり、その滞在費捻出のためであろうか。同年四月二十六日付の長内金助の青森沖口出米願書(同前No.七九七)は、自分の米一五石を同じく松前へ積み出すことを願い出たものである。長内は仙台廻舟上乗(うわのり)として仙台に赴くためとあり、その費用捻出のために米を松前で売るわけだが、仙台で売りさばくよりは松前で売りさばいた方が高く売れる可能性があったためと考えられる。同年六月三日付の岡村次五右衛門の青森沖口出米願書(同前No.七九八)は、岡村の主人である津軽為節(ためとき)(藩主信政の叔父)の米四〇石を松前へ積み出すことを願い出たものである。同年八月十三日付の関伝右衛門他の青森沖口出米願書(同前No.八〇〇)は、中畑村の市右衛門をはじめとする八人の小知行士の米計三九石を松前へ積み出すことを願い出たものである。八人の小知行士は上方滞在中であり、滞在費捻出のために米を売りさばいたものと考えられる。同年八月二十日付の杉山八兵衛(後に寛文蝦夷蜂起では弘前藩の出兵隊長として蝦夷地に渡ることになる)の青森沖口出米願書(同前No.八〇一)は、米一六石を松前へ積み出すことを願い出たものである。このように、青森から松前へは、藩の重臣から小知行士まで階層を問わず、藩士の米が家中払米として積み出されたのである。
鰺ヶ沢からは上方への家中払米(かちゅうはらいまい)の積み出しが多いのであるが、寛文三年には鰺ヶ沢からも松前へ米の積み出しがみられた。同年五月十三日付の野呂善左衛門の鰺ヶ沢沖口出米願書(同前No.八〇六)は、野呂の知行米一二〇石を松前へ積み出すことを願い出たものであり、量の多さが目を引く。同年十月十八日付の浅川猪左衛門・関伝右衛門の鰺ヶ沢沖口出米願書(同前No.八〇七)は、浅瀬石村の惣右衛門をはじめとする一一人の小知行士の米計六七石五斗を松前へ積み出すことを願い出たものである。前述と同じくこれら一一人の小知行士は上方詰めであり、その滞在費捻出のためと思われる。
一方、松前に近い、小泊・十三からも松前へ米の積み出しがみられた。同年三月二日付の嶋村善之助の小泊沖口出米願書(同前No.八〇八)は、自分の米四〇石を松前へ積み出すことを願い出たものである。同年四月十六日付の長山助左衛門の小泊沖口出米願書(同前No.八〇九)は、自分の米一三石を松前へ積み出すことを願い出たものであるが、長山六郎左衛門が江戸詰のためと断っているところみると、やはり滞在費捻出のためと思われる。同年五月二十三日付の木立長兵衛の十三沖口出米願書(資料近世1No.八一〇)は、自分の米三〇石を松前へ積み出すことを願い出たものである。このように、青森をはじめとして鰺ヶ沢・小泊・十三湊など領内の各湊から松前へ藩士の米が家中払米として積み出されていったのである。