津軽信英による後見政治と法令の整備

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幕府が津軽信英を信政の後見としたのは、藩主が幼少で自ら政務を執ることが不可能なことに加えて、三代藩主信義時代が家中騒動などで藩政が不安定だった状態を踏まえて、家老とは違った強力な政治力を発揮できる人物の必要性を感じたからであろう。さらに幕府は、家康の養女の子息であり、徳川家の直臣である信英を通じてある程度藩政を指導しようとしたとも考えられよう。
 後見政治の期間、家老として特に重きをなしたのは、信英と同じく前藩主信義の弟である津軽信隆と、神保清成(じんぼきよなり)である。両名は信義時代からの家老で、暦三年八月五日付で幕府大目付北条氏長宛てに信政家督相続に際しての家老起請文を差し出している(「秘苑」)。この他に家老として高倉盛成北村統好渡辺政敏傍島正伴らがいた。信英と家老たちが合議ないしは相談の上で藩政を進めていったと考えられるが、しかし、この時期藩の支配機がどのようなものであったか、史料不足のため今のところらかにできない(福井敏隆「支配機の一考察―寛文・延宝期を中心として―」長谷川成一編『津軽藩の基礎的研究』一九八四年 国書刊行会刊)。
 信政は初入部した直後の寛文元年(一六六一)六月二十一日、十一ヵ条の「諸法度」と呼ばれる領内支配の基本法令(資料近世1No.七七三)を、また翌二年には藩士に対して十七ヵ条からなる「家訓条々」(国立史料館編・発行『津軽家御定書』一九八一年)を出している。「諸法度」は、孝悌・婦道の奨励、武士に対する学問・武芸の奨励、酒色の戒め、訴訟方法、衣服・振舞・音信贈答・婚姻の倹素、旅行者接遇、五人組設置、領内の度量衡などが規定されている。また「家訓条々」では、公儀法令の遵守(第一条)、職務厳正(第二条)、喧嘩口論・落書・張文等の禁止(第五条)、徒党の禁止(第一一条)、博奕・遊興・衆道(男色)の禁止(第一三・一四条)、私婚の禁止(第一五条)、末期養子の禁止(第一六条)などが定められた。
 「諸法度」・「家訓条々」の双方とも幕府旗本である信英の意志が働いて出されたものと考えられる。これらの内容には、幕府が旗本に出した「旗本諸士法度」(以下諸士法度と略記)と、相似・引用が多く見受けられ、影響を受けたと考えられるからである(福井前掲論文)。諸士法度は一万石以下の旗本御家人を対象に基本法として発布されたものである。
 信政が藩主だった時代には、この「諸法度」・「家訓条々」をはじめとして法制の整備が進んだ。武家に対する「家訓条々」の外に、領民・寺社統制の基礎法令として延宝九年(一六八一)正月二十一日に「農民法度」(「御定法古格」下 弘図古、「御定法編年録」弘図岩)・「町人法度」(資料近世1No.七七四)・「寺社法度」(同前No.七七五)が同時に制定された。