津軽弘前藩は、貞享(じょうきょう)元年(一六八四)から実施された領内総検地である「貞享検地(じょうきょうけんち)」を契機に一連の施策を打ち出した。その一環として、貞享二年四月、藩士の知行制度を土地そのものを宛行(あてが)っていた地方知行制(じかたちぎょうせい)から、藩が一元的に取り立てた年貢米から知行高相当の米を俸禄として与える蔵米(くらまい)知行制に切り替えた。
藩政の確立期を画期として各藩では家臣団の地方知行の形骸化が進行し、年貢率は藩の決定に基づき、所領は細分化されていくのが全国的趨勢(すうせい)であった。一般的にみて、十七世紀後半、元禄期(一六九一~一七〇四)までに大部分の大名家(大名家数で八五パーセント、知行石高で五五パーセント)が藩庫から年貢米が支給される俸禄制へ変質していた。それ以外の大名家でも、知行権は限定され、実質的に藩庫支給の俸禄と大差のないものとなっていた(笠谷和比古『主君「押込」の構造―近世大名と家臣団―』一九八八年 平凡社刊)。
しかし、「国日記」元禄二年九月十二日条では、家中の知行割についての原則を示しており、それによると、三〇〇石以上の者に対しては、知行高の三分の一を新田地帯や外浜の村々において、残り三分の二は、「岡在」、すなわち城下弘前周辺の古くから存在した村々において与え、二九〇石以下のものは「岡在」の村々で割り付けることになっていた。このことは、知行制度の変更が行われたことと一見矛盾するようだが、この段階では、一元的に年貢を集めることが行われたとしても、形式として家臣が各村で知行を宛行われるような形態がとられたものと考えられる(『五所川原市史』通史編1)。
一方、民政面においても、これと前後して藩内の地方行政単位の再編、税制体系の変更など、従来の地方支配に大きな変更がみられた。これら一連の政策は、勘定奉行武田定清(さだきよ)をはじめ、信政に取り立てられて藩の財政・地方支配等を掌握した「出頭人」グループの面々が主導的役割を果たした。