御用金の賦課

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このころから国元商人たちからの御用金も恒常化してくる。「国日記」延享元年(一七四四)七月五日条によると、茨木屋が七七三貫余の融資を行った同年に、藩は「時節柄難儀であろうと、気の毒に思っている」と断りながらも、弘前青森鰺ヶ沢の分限者五三人に計五四〇〇両、在方二七人に計八三三〇両の御用金の賦課を命じた。さらに寛延二年(一七四九)の飢饉の後には、弘前・両浜・在方の一〇五人に御用金合計八三二〇両と米三〇〇〇俵の上納を申し付けている(「国日記」寛延三年四月五日条)。宝暦四年(一七五四)にも弘前青森在方の分限者計三九人から、銀一四六貫金三〇〇両(金二四三三両に相当)・米一万五四〇〇俵の上納を命じている(「秘苑」宝暦四年条)。このように江戸大坂の借財の増加に対応する時期に、国元からも御用金御用米の徴収がみられた。
 ただし、この時期の御用金は利息付き、あるいは無利息のことがあるにせよ、基本的には返済されるべき性格のものであった。五所川原市の飯塚家文書によると(『五所川原市史』史料編2上巻)、延享元年の御用金は一ヵ月に一〇〇両につき一両二分の利息を付けて年末までに返済することを約束している。寛延三年の場合は無利息であったが、同年のうちに三分の一が返済され、残りは翌年までに代米で返済されたことが、同家文書および「封内事実秘苑」でも確認できる。後に時代が下り、天保期となると返済を最初から考慮しない一方的な上納命令が通例になったが、この時期はまだ御用金は返済されるものという認識が一般的であった。
 また廻米の不足分は国元に転嫁されることもあった。「国日記」宝暦十二年(一七六二)九月十六日条(資料近世2No.三一)によると、藩はこの年までに領内各地から御用米一万石を上納させており、その利息を払わなければならなかった。しかし、支払うと江戸大坂廻米が滞る危険性があり、そうなると信用問題になり、今後の融資にも影響するとして、支払いの免除を申し出ている。

図132.国日記御用金賦課の記事
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 天飢饉後のことであるが、天六年(一七八六)には、藩からの廻米が入らなかったとして、江戸蔵元津軽屋参勤交代のための融資を停止してしまい、藩主江戸への出発も延期せざるをえないという事態に至った(同前No.三五)。参勤交代は、寛政期で片道一五〇〇両を要した。この時は江戸藩邸も困窮し、藩士扶持米の支給にも事欠くありさまで、藩としても蔵元の機嫌を損ねるわけにいかなかったのである。
 御用金の賦課は宝暦の改革の後も続いた。宝暦八年には三年間の限定処置ながら在々の百姓から借米として一〇石につき三斗を上納させた。また、安永八年には弘前に一二〇〇両、青森に五〇〇両、鰺ヶ沢に三〇〇両のほか在方を含めて都合三〇〇〇両の御用金を命じている。さらに天飢饉では少しでも余力のある町人・豪農に御用金の上納が命じられた。