ただし、この時期の御用金は利息付き、あるいは無利息のことがあるにせよ、基本的には返済されるべき性格のものであった。五所川原市の飯塚家文書によると(『五所川原市史』史料編2上巻)、延享元年の御用金は一ヵ月に一〇〇両につき一両二分の利息を付けて年末までに返済することを約束している。寛延三年の場合は無利息であったが、同年のうちに三分の一が返済され、残りは翌年までに代米で返済されたことが、同家文書および「封内事実秘苑」でも確認できる。後に時代が下り、天保期となると返済を最初から考慮しない一方的な上納命令が通例になったが、この時期はまだ御用金は返済されるものという認識が一般的であった。
また廻米の不足分は国元に転嫁されることもあった。「国日記」宝暦十二年(一七六二)九月十六日条(資料近世2No.三一)によると、藩はこの年までに領内各地から御用米一万石を上納させており、その利息を払わなければならなかった。しかし、支払うと江戸・大坂の廻米が滞る危険性があり、そうなると信用問題になり、今後の融資にも影響するとして、支払いの免除を申し出ている。
図132.国日記の御用金賦課の記事
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天明の飢饉後のことであるが、天明六年(一七八六)には、藩からの廻米が入らなかったとして、江戸の蔵元津軽屋が参勤交代のための融資を停止してしまい、藩主の江戸への出発も延期せざるをえないという事態に至った(同前No.三五)。参勤交代は、寛政期で片道一五〇〇両を要した。この時は江戸藩邸も困窮し、藩士の扶持米の支給にも事欠くありさまで、藩としても蔵元の機嫌を損ねるわけにいかなかったのである。
御用金の賦課は宝暦の改革の後も続いた。宝暦八年には三年間の限定処置ながら在々の百姓から借米として一〇石につき三斗を上納させた。また、安永八年には弘前に一二〇〇両、青森に五〇〇両、鰺ヶ沢に三〇〇両のほか在方を含めて都合三〇〇〇両の御用金を命じている。さらに天明の飢饉では少しでも余力のある町人・豪農に御用金の上納が命じられた。