いわゆる「地方(じかた)知行制」とは主として中・上層藩士に個別の知行地が設定され、年貢の課徴権(あるいは限定付きながら領主裁判権)を与える制度であるが、全国的には蔵米知行への移行が大勢であった。その中で、北奥諸藩の中には形式的でなく、仙台藩・盛岡藩のように実質的にも幕末まで存続させていた藩もあった。これは中世以来の有力家臣・一族が領内に割拠し、領主権力の相対的自立性が弱いまま幕藩体制を迎えたという理由もあった。しかし、津軽領の場合、藩が藩士への俸禄の支給を一括して管理する「蔵米制」への移行が進み、貞享二年(一六八五)に早くも全藩士への蔵米化がなされているが、正徳二年(一七一二)には再び地方知行制が復活している。
この知行制のもとでも、個々の知行地は著しく細分化されており、一つの村が複数の知行主によって支配される相給(あいきゅう)が常態だった。たとえば一五〇〇石を給された大身の家老、津軽百助(ももすけ)の場合、宝暦十年(一七六〇)の段階では知行地は実に九七ヵ村にわたり、津軽領の穀倉地帯である現在の南津軽郡域をはじめ、新田地方、外浜とほぼ藩全域に分散している。知行百姓も一つの村で多くて四人、石高は多くとも三〇石ほどである。一〇〇石程度の中級の藩士でも四~七ヵ村に分散しているのが通常だった(「知行帳」弘図津)。したがって、弘前藩の場合には蔵入地・知行地の区別がなく、単独あるいは複数の村に一人ずつ置かれた庄屋が村政を一括して執行した。なお、武家社会においては蔵米制より地方知行制のほうが格が高いものという意識があり、蔵米制になって以降も、藩主から宛てがわれる知行帳には、形式的にせよ知行・村名が書かれるのが一般的であった。