改革意見書にみられるように、藩士土着策は、端的には、藩士の城下集住策と蔵米知行制を見直し、藩士を在方に居住させ、直接生産活動に従事させることを基本とし、農民から直接に年貢を徴収させる地方知行制に転換することを目指そうとしたものであった。
この政策は、前述したように、給地在住による兵農一致、地方知行制の復活として、熊沢蕃山(くまざわばんざん)の主張や荻生徂徠(おぎゅうそらい)『政談』にもみえるところであり、津軽弘前藩による独創的な政策とはいいがたいが、その実施という点においては全国的にも例のないものであった。八代藩主信明(のぶはる)が徂徠の門人に講義を受けていたことや、改革意見書を提出した毛内宜応が徂徠学に傾倒していたことも要因の一つであろうが、藩はなぜこれまでの大原則を転換してまで実施に踏み切ったのであろうか。
藩士土着策登場の背景は改革意見書の基調に示したところであり、それだけでも十分な実施理由として藩当局は認識しているわけであるが、同じころ、津軽弘前藩は土着策の実施を推進しなければならなかったもう一つの大きな課題に直面していた。それは本節一で述べた蝦夷地警備の問題であった。蝦夷地と対峙(たいじ)し「北狄(ほくてき)の押へ」としての軍役遂行を義務付けられていた津軽弘前藩にとって、寛政元年(一七八九)以降の蝦夷地警備という新事態への対応は、一層の危機感を持って、土着策遂行に拍車をかけることになったのである。その意味では、北辺の大名であったからこその政策であったともいえる。
ここでは、土着策の展開に従ってその実体を示しながら、本来土着策が目指した点とともに、この政策が弘前城下に与えた影響等について述べることとする。
さて、年次的に土着策を概観すると、大きく次の四段階に区分される。天明四年(一七八四)~寛政二年(一七九〇)の下級藩士への開発奨励期(Ⅰ期)、寛政二年~同四年の土着策準備期(Ⅱ期)、寛政四年~同十年の土着策展開期(Ⅲ期)、寛政十年~享和元年(一八〇一)の政策廃止・在方引き揚げ期(Ⅳ期)の四期である。Ⅰ期は毛内宜応の意見書が重要な位置を占めるが、対象者を下級藩士・希望者に限っていることから、基本的には開発奨励期の域を出ない。Ⅱ期は、赤石・菊池の建議と、両人の郡奉行・勘定奉行への登用期。Ⅲ期は対象者を知行取層へ拡大し、また、土着地での給人知行権を強化する本格的展開期。多くの反対を押し切り、寛政五年「永久在宅」を打ち出し、二年後には在方住居が一応完成している。Ⅳ期は土着策廃止に伴う後処理の時期。土着藩士たちが弘前城下に再び戻ってくるに際しての種々の対応が取られるとともに、別な方策による当初の目的の達成を模索し始めている。本項ではⅢ期までを扱い、Ⅳ期については「藩士土着政策廃止をめぐる諸問題」として、項を改めて扱う。以下、それぞれの段階を規定する土着令(I期=天明四年令、Ⅱ期=寛政二年令、Ⅲ期=寛政四年令・同五年令、Ⅳ期=寛政十年令)をみながら述べていくことにする。