享和元年(一八〇一)二月、以後の開発を基礎づける八ヵ条にわたる書き付けが令達された(同前No.八七)。そのうち、次の三点が注目される。
第一は開発人夫高の人別割である(一条)。これは、商戸・高無(たかなし)をもその開発に動員するために設定された条項であり、藩士土着時に期待した労働力(小給藩士)が、この段階において商戸・高無に移行したことを示している。しかし同時に「開発増相成候内」という限定、およびその四分の三が反別割であることは、商戸・高無のとらえかたがあくまでも補助的な労働力としての性格が強いことを意味するとともに、開発主体が基本的には藩の財政基盤である百姓にあったことを意味している。つまり、開発主体=百姓という基本路線は一貫してとられていたのであり、したがって百姓成り立ちが依然として重要課題となっていたのである。
第二は、居住地の定まっていない「居移之者」に対する処置である(五・六条)。これは領内の労働力をいかに配分するかということにかかわってくる。しかもこの際、より上位の田地の開発を優先している(四条)。翌享和二年十月、藩主が新田地域を巡検後に自筆書付をもって訓諭(くんゆ)したなかで、新田村の開発に力を入れるとしても、古田の開発の支障にならないように取り計らうべしとして、より貢租率の高い土地への移住を指示したことと同様の趣旨といえる(「要記秘鑑」開発之部 享和二年十月条)。特に帰国した人々や他国から引き寄せた人々がこの対象になったことはいうまでもない。
第三は、天明飢饉の際に他領稼ぎに出た者の内、いまだ帰国せず他国で徘徊(はいかい)している者が少なからずいることから、帰国させて領内の廃田畑を開発させようという呼び戻し策にかかわるものである(同前十一月二十五日条)。この呼び戻し策は、享和元年から行われているが、その範囲は非常に広範囲に及び、呼び戻し役の者は「秋田より越後路、信濃ハ善光寺辺迄、南部より仙台御領迄」派遣されている。もちろんこのこと自体は封建制下の他国にその労働力を求めるのであるから、細心の注意が払われている(同前)。城下および九浦からの人返し令の限界がここにおいて示されているのであり、藩の窮迫した状況をうかがうことができる。第二の点とも深くかかわる政策である。
このように、土着策廃止後の開発は、他領からの労働力導入と「自百姓」(領内百姓)を基本とした開発へと、その基調を変えていった。このことは平沢三右衛門による開発を継続しつつも、享和二年十月五日には新たに廃田調方御用懸を設定し、開発方を藩制機構のなかに位置づけていることからも知られる(同前享和二年十月五日条)。
この結果「享和初年より文政年中」までに新開村が二八ヵ村(『記類』文政六年三月七日条)、「享和三年より文政年中」までの新田開発高が三万八〇〇〇石余(同前天保四年六月十四日条)にもなったとされており、享和期以降の積極的な開発策を知ることができる。
しかし、この開発は百姓への加重負担となり、この期の農村は開発地の増大にもかかわらず、疲弊の方向をたどっている。次節で触れるところであるが、文化十年(一八一三)十一月、木造(きづくり)・広須(ひろす)・藤代(ふじしろ)・高杉(たかすぎ)組百姓二〇〇〇人が強訴を引き起こしている。その理由は「公儀方人馬賃銭」「松前郷夫出銭」「開発方・地面調方」などによって近年の役負担は三〇年以前と比べて三倍増となったからという(同前文化十年十一月二十五日条)。享和期以降の開発策による重負担と年貢収納の強化、それに蝦夷地警固のための郷人夫差し出しが、農村疲弊を増幅していったのである。したがって藩士土着期とそれ以降は、対農村政策においては基本的に変化はなかった。この意味においても、藩士土着は一貫した農村政策の上で展開された政策とすることができる。結果として百姓の、そして農村の疲弊につながっていったものの、その目指したところは、荒廃農村の立て直しであり、百姓成り立ちであったのである。逆にいえば、藩士土着策の失敗は、この前提を成り立たせることができないまま、在宅を推進したことに最大の原因があったといえる。
このような観点から他の改革諸政策とされるものをみていくと、多くはこの藩士土着策を成り立たせるための政策であったことがわかる。しかもそれは、都市政策を伴ったものとして、あるいは逆に都市政策が農村政策との関連で打ち出されていることに気がつく。このことは、藩士土着策が、都市と農村の両方にかかわって推進されていかなくてはならない性質の政策であったことを示している。同時にそれは、寛政改革の大きな特質としても挙げられるものである。以下、主な政策をみていくことにする。