黒石立藩に関する、津軽寧親(やすちか)から幕府へ寄せられた上申は、次のようなものであった。文化五年(一八〇八)、弘前津軽家は北方永久警衛を命ぜられ、一〇万石に昇格したが、知行四〇〇〇石で幕府寄合を勤めている分家の黒石津軽家も、由緒深い家柄である。本家に入る貢米のうち、六〇〇〇石を足し与えて、表高(おもてだか)を一万石の大名に上昇させれば、蝦夷地と領内警備にも役立つと考えられるという趣旨であった(『記類』)。大名の分限である一万石にするために、本家の蔵米を充当しようとしたのは、幕府の加増を受けて大名に昇格することが不可能と判断したからだった。このように一藩の内部において、領地を動かさず行う石高操作を「足石(たしこく)」という。文化六年四月、幕府から通達があり、寧親の望みは達成されて、黒石津軽氏の一万石の大名栄進と、柳の間詰め(やなぎのまづめ)が決定した。「黒石藩」の誕生である。このあと、津軽親足(つがるちかたり)は、七月十四日に参勤交代を許され、十二月十六日には叙爵に与り、従五位下・甲斐守に任ぜられた。
図164.黒石陣屋図
文化七年正月、親足は江戸城において、将軍家斉から盃を賜り、時服を拝領。五月、大名として初の黒石入りをし、蝦夷館(陣屋構内)に茶屋を取り建てた。領地は、黒石市を中心とした地域と東津軽郡平内(ひらない)町を中心とした夏泊(なつどまり)半島部であった。こうして、津軽黒石藩は、廃藩に至るまで存続した。