同文書によると、田方のうち「荒田開発」は一七二九町八反八畝で全体の半分である。「空地開発」は一一六四町余で約三四パーセント、「畑田成」は四一一町余で約一二パーセントとなっている。開発地はやはり現在の西北五地方などのいわゆる新田地方が多く、藩の穀倉である現在の南津軽地域は少ない傾向がみられるが、現在の弘前市域に当たる藤代・高杉組でもそれぞれ一〇〇町歩を越える開発面積となっている(表55)。
表55 享和3年から文政2年までの廃田復興・新田開発 |
組 | 田方面積・町 (歩以下切り捨て) | 同分米・石 (銀は切り捨て) | 畑方面積・町 (歩以下切り捨て) | 同分米・石 (銀は切り捨て) |
和徳 | 23.35 | 200.582 | 56.50 | 169.813 |
堀越 | 24.40 | 167.420 | 15.87 | 39.762 |
大鰐 | 67.41 | 378.689 | ||
藤代 | 120.21 | 877.590 | 152.49 | 373.214 |
高杉 | 112.26 | 644.655 | 182.81 | 294.168 |
駒越 | 95.50 | 594.890 | 126.27 | 192.639 |
田舎館 | 36.82 | 312.498 | ||
広田 | 208.15 | 1228.566 | 137.19 | 358.128 |
増館 | 72.34 | 504.006 | ||
浪岡 | 47.47 | 307.943 | 93.55 | 197.027 |
浦町 | 73.11 | 410.407 | ||
飯詰 | 106.17 | 770.383 | 48.77 | 94.518 |
俵元新田 | 40.10 | 280.744 | 16.68 | 29.179 |
金木 | 276.81 | 1526.751 | ||
金木新田 | 102.20 | 502.001 | 7.21 | 9.468 |
広須 | 333.51 | 2058.617 | 156.64 | 282.993 |
木作新田 | 566.45 | 2991.329 | 123.62 | 183.454 |
合計 | 3420.22 | 21767.196 | 2678.01 | 5485.358 |
注) | 「享和三年より文政二年迄開発田畑高反別組寄調帳」(国史津)により作成。 |
表56 藤代組開発状況(享和3~文化9年) |
村名 | 古田面積・町 (歩以下切り捨て) | 同分米・石 (銀は切り捨て) | 「開発田方」・町 (歩以下切り捨て) | (参考) 天保郷帳石高・石 |
小友 | 83.64 | 618.580 | 11.62 | 823.000 |
川 | 41.22 | 288.833 | 12.68 | 348.000 |
笹館 | 10.10 | 57.774 | 3.61 | 85.300 |
廻関 | 94.40 | 630.156 | 12.22 | 797.800 |
妙堂崎 | 71.03 | 478.480 | 8.29 | 591.800 |
注) | 「藤代組御通行村々家数古田并亥ノ年より当年迄開発田方高反別帳」(弘前市立図書館蔵)により作成。 |
表57 小友村の例 |
開発着手年 | 面 積 | 分米・石 | 開発者 |
享和3 | 5町4反8畝29歩 | 27.441 | 「村中」 |
文化元 | 4町4畝21歩 | 20.224 | 「村中」 |
文化2 | 4反 | 2.000 | 卯兵衛・次兵衛・竹兵衛 |
文化3 | 4反7畝29歩 | 2.617 | 茂兵衛・弥八郎・勘之丈 |
文化4 | 1反6畝11歩 | 0.886 | 卯兵衛・忠次郎 |
文化5 | 2町5畝 | (検分未終了) | 弥太右衛門・清八・七右衛門・善吉 |
開発費用は、享和三年の例でいうと、開発予定の五〇四町七反余に対し、銀八六貫七八七匁(金に換算すると一両=銀六〇匁として約一三二〇両)に及ぶ。内訳は開発にかかわる「手当米」が半分以上を占め、四〇貫四九二匁である。手当米は面積割りで計算されており、荒田開発の場合一反歩につき八斗、「空地畑田成(あきちはたたなり)」の場合は六斗とされ、合計で三九六三石余の米をその対価として見込んでいる。残り四六貫余は人件費といえるもので、三五貫五〇〇匁が帰国人手当(家数七一軒、一軒に付き五〇〇匁)、四貫九九二匁が領内での移住のための手当(家数一六軒、一軒に付き三一二匁)となっている。
図166.享和3年から文政2年までの開発田畑反別組寄調帳
開発地のうち「御物入なし」、すなわち手当米だけで開発できるのは三五〇町弱、残りは「御物入にて開発」となっており、帰国者・移住者の労働力が必要とされる場所であることがわかる。この開発費用には用水の掘削などの普請料は含まれていない。また、金額もあくまで一年間のものであり、開発が継続すると、それに比例して莫大な金額になったことであろう。
廃田復興が一段落すれば、再び新田開発に関心が移ってくる。文化九年(一八一二)の時点で、藩は荒廃した田畑も残り少なくなったとして、新規の開発を再開する方針を打ち出した(「御郡在開発残地并新見立地大場所小場所大都調書」国史津)。これによると開発が見込まれている土地は一二九六町八反歩で、現在の弘前市域に限っても、小友村のほか、和徳組津軽野村、高杉組高杉村・楢木村・十腰内(とこしない)村でそれぞれ一〇~二〇町歩の土地の開発が予定されており、用廃水の見込みがつきしだい開発するようにと指示が出されている。なかでも規模が大きいのは十腰内村で、「格別宜地面之儀」と高い評価で、開発御用掛の両奉行が検分、人夫七〇〇人を投入しての溜池工事を予定している。ちなみに、小友村は「天保郷帳」(天保五年作成、内閣文庫蔵)では村高は八二三石余となっており、文化九年の分米高より二〇〇石以上の増加をみせている。これは、開発の成果とみて差し支えあるまい。
図167.御郡在開発残地并新地見立地大場所小場所大都調書
天保の飢饉で新田開発政策は一時的に頓挫したが、水田単作地帯で米以外に有効な産物を持たない津軽弘前藩においては、基本的に幕末に至るまで年貢増徴策の一環として続けられ、藩政末期には主として岩木川下流域の低湿地が対象とされた。文政六年の段階で「新開の村」として二六ヵ村が挙げられているが(『記類』下)、ほとんどが木造・金木・広須の各組の岩木川流域の村々で、一般的な「派(はだち)」「新村」のほか、「長富(ながとみ)」「福富(とよとみ)」「千代田(ちよだ)」などの雅名が付けられていることから新田村の特徴がみられる。
図168.現在の弘前市小友地区
幕末期の新田開発でもっとも規模が大きいのが、嘉永五年(一八五二)から始まる現車力村(しゃりきむら)周辺の千貫崎(せんがんざき)開発である。この開発自体は天保ころから計画されていたが、天保の飢饉で挫折。嘉永期に至り、郡奉行後藤門之丞を責任者として岩木川から二八キロメートルに及ぶ用水路を建設し、十三湖周辺の低湿地を開発して、安政三年(一八五六)に完成した。開発面積は約二〇〇町歩、新田は短冊形の地割りがなされ、新田を見下ろす河岸段丘上に豊富村と名付けられた新田村が建設された。入植者は安政四年までで四〇戸ほどで、車力周辺の村々の出身者が多いが、領内各地にわたっている(『車力村史』一九七三年 車力村刊)。幕末期の本県では、盛岡藩の三本木新田に匹敵する開発である。