一方、集荷機構であるが、漆守が漆実を集め、城下の商人が藩に代行して買い取りを行うという体制がとられた。城下近在の者は直接弘前の「漆実買入所」に納入し、遠在のものはいったん最寄りの代官所に納め、俵数を確認したのち弘前に運搬することになっていた。そのため仲買人の存在も記録されている。「漆実買入方・蝋燭〆方」に任命されたのは、文化八年の時点では和徳町越前屋勘助、翌年に土手町池田屋利助も加わったが、天保十一年(一八四〇)の時点では紙屋伝八に代わっている。時代はやや下るが、弘化三年(一八四六)の時点で集荷に当たっていたのは、領内の漆守(漆守がいない地区では庄屋)三〇名で、樹液についての記録はないが、領内で六二五〇俵の漆実の買い入れが目指されている(「国日記」弘化三年七月十四日条)。漆守のもとで各村庄屋が一村単位で買い集め、代銭は代官を通じ漆守に渡され、さらに庄屋が通帳によって受け取るという仕組みになっていた。漆の実は買い取り値段が上中下にランク分けされ、さらに山漆・里漆でも買入れ価格が異なっていた。
国産奨励策では増強した特産物の他領・三都への積極的な販売も不可欠である。この販路拡大の動きはどうであったか。漆を特産としている諸藩は東北・北陸を中心として多く、さらに西国では蝋燭の原料として櫨(はぜ)も需要が増していた。しかしながら十九世紀初頭の段階で、漆は津軽領では領内需要を満たすのがせいぜいで、他領への移出を禁止する「津留(つどめ)」の品の一つに指定されていた。「漆木家伝書」によると、この書が書かれた段階で領内で集荷された樹液(水漆)のうち、藩で使用するのが七割、残りの三割を藩士や町方の需要のため払い下げるという状況で、他領に移出する余裕はなかった。このような状況に対し、藩は漆の栽培強化策とともに販路拡大の調査に乗り出している。文化三年には成田蔵次郎を通じて庄内の掻子の申し出にしたがい試験的に販売を行ったほか、前述した前田兵蔵は文化八年に一〇〇貫目の漆の余裕分が出たことから、上方・会津方面に持参のうえ諸国および三都の市場を調査し、それを受けて町奉行や主だった町人らに販売の可能性について検討させている。実際にどの程度他領に販売されたか不明ではあるが、「漆木家伝書」でも順調に栽培数が増えた場合の他領販売を具申しており、藩当局にも数少ない国産品として育成しようとする姿勢がうかがわれる。