取り調べと牢屋

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幕府では江戸城下で容疑者が逮捕されると、同心目明などにより簡単な吟味が自身番屋(じしんばんや)(町内警備を主目的として設けられた自警制度である自身番が詰める番屋。大坂京都にもあった)で行われた。その後容疑者が町奉行所に送られて与力(よりき)が取り調べ、その結果、奉行より「入牢証文(じゅろうしょうもん)」が出され入牢、すなわち今日の未決勾留(こうりゅう)が決定すると、一件書類は奉行所の吟味方へ、また容疑者の身柄は牢屋に送られる。与力は容疑者を牢屋から呼び出して取り調べ、自白すれば「吟味詰り之口書(ぎんみつまりのくちがき)」を作成して奉行が裁判を実施した。
 津軽弘前藩の取り調べについては、町奉行の職務に刑律方(けいりつかた)というのがある。町奉行ではその下に人別調役(にんべつしらべやく)が属し、四民の籍を調査して整理するのが職務であったが、裁判事務をも担当した(工藤主善「旧藩官制・職制」国史津)。入牢前の取り調べは、その役人・場所・方法などは不であるが、入牢となった容疑者の取り調べは平問(ひらとい)といった(「国日記」享保十年六月八日条)。これは拷問の前に行われる普通の取り調べのことで、共犯者があった場合、自分が否認しても相手が自白すれば、二人を引き合わせて否認から自白に導いたものであろう。平問で自白しなければ、次の段階が拷問である。
 幕府のような拷問と牢問の区別はなかったようで、釣責(つるしぜめ)(同前天和二年九月二日条)・水責(みずぜめ)(同前天和三年十一月九日条、方法は不)・海老責(えびぜめ)(同前元禄五年十二月六日条)があった。また早く自白させるために「そこくら」という道具も使用された(同前享保九年七月二十五日条、造など不)。さらに若年の者(未成年者であろうが正確な年令は不)に対して現責(うつつぜめ)が行われた(「御刑法書之写」文化七年四月条 弘図岩)。これは眠らせずに長時間継続して取り調べを行い、その結果下手人は睡魔に耐えきれず自白するのである。

図173.海老責


図174.釣責

 牢屋は未決拘置所であって、原則として刑の執行場ではない。刑罰が宣告される前の容疑者を収容する場所である。慶安二年(一六四九)ころの「弘前古御絵図」(弘図津)に城下の北端(現馬喰町)に牢屋敷がみえるので、このころまでに牢屋の所在地が定まっていた。それ以後藩政時代を通じて移転することはなかった。
 牢屋には主として百姓町人などが収容され、そのほかに下級藩士も含まれていた。牢屋敷の中に、取り調べ・申し渡しなどを行う番所があり、大牢・中牢(それぞれ三〇人程度収容)・女牢(収容人員不)が配置され、特殊なものとして四尺牢がある。四尺牢は容疑者が気が狂ったりなどしたために、他の者といっしょに入牢させがたい場合の施設であった(「牢屋敷平面図」参照)。道路を隔てて北側向側に文化二年(一八〇五)に揚屋(あがりや)が完成し(収容人員約四〇人)、比較的軽い容疑の者が収容された。

図175.牢屋敷平面図

 牢屋の役人は町奉行の支配下にあって、牢奉行・牢守・牢屋番人がいる。牢奉行は定員三人で牢屋敷の管理、その下に定員二人の牢守がいて牢屋番人の監督をした。牢屋番人は定員一三人を数え、牢屋の番人及び雑用にも従事した。そのほかに町医が入牢者に対し病気診察などを行った(前掲「旧藩官制・職制」)。