江戸での借財の増加

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上方での蔵元(くらもと)を勤めていた茨木屋(いばらぎや)・鴻池(こうのいけ)に対し、江戸での蔵元を主に勤めていたのは津軽屋であった。津軽屋は元々「米屋」を称する米問屋で、関東・奥州の諸国から民間の流通機を経て江戸に回送されてくる米の委託販売を引き受ける「地廻(じまわり)米穀問屋」に属していた。貞享元年(一六八四)八月五日、当時の当主米屋三右衛門が津軽弘前藩最初の蔵元に任命され、以来、時期によって複数の蔵元が置かれたこともあったが(貞享期は橘屋、寛政十年から文化二年までは菊屋、文化十三年以降は松本平八郎ほか)、津軽屋だけは一貫して蔵元として江戸廻米を一手に引き受けて取りさばいていた。その業務は治五年(一八七二)七月に廃藩置県後の残務整理が終わるまで続いた(梅谷文夫『狩谷棭斎(かりやえきさい)』一九九四年 吉川弘文館刊 津軽屋の動向は主として同書による)。津軽屋という屋号も長年の藩に対する功績のため、元文二年(一七三七)に藩から与えられたものである。また、津軽屋大坂での蔵元と同様に、藩から俵子二〇〇俵五人扶持という中級藩士なみの待遇を受けていた。なお、寛政~文化期(一七八九~一八一七)の当主は民間の書誌学者・考証学者として著名な狩谷棭斎である(狩谷は津軽屋の本姓)。
 文化~文政期に津軽屋はたびたび津軽弘前藩に融資をしている。文化四年のロシアによる樺太・エトロフ襲撃事件の際は、金額はらかでないが大金を調達・上納した件で藩から銀子一〇枚と料理を頂戴している。またゴローニン事件の起こる文化八年(一八一一)には、藩庁の要請を受けて翌年の廻米売り立て代金のうちから三〇〇〇両を先納。同十年には年間の貸付金が一万九〇〇〇両に達した。津軽屋はこの資金を江戸駿河町(するがちょう)の両替商の三井や幕府勘定所から借りて捻出した。藩からの返済は一〇ヵ年賦の約束で、最初の数年は順調に行われたようであるが、その後についてははっきりしない。
 天保期に入っても津軽屋の藩への多額の融資は続いた。文政十一年(一八二八)には江戸藩邸の失火による焼失に伴う再建費用として一万五〇〇〇両、天保三年(一八三二)には不作などで一万両を融資、さらにこの年の暮れには幕府が同藩へ寛永寺将軍家位牌所ほかの普請手伝いを命じたが、津軽屋はもう一人の蔵元鳥羽屋清吉とともに一万四六八〇両余を負担している。
 この分の返済については、翌天保四年は大凶作となり、藩は天保六年まで繰り延べを依頼したが、同年になっても返済の見込みが立たず、閏七月二十五日には向こう五年間の返済停止を通告した。期限が来ても返済される見込みがないと踏んだ当主三平懐之(ちかゆき)(棭斎の子)は、藩への配慮から債権放棄を決断した。その額は一二万七五六九両にも及んだという(「津軽家三平書状」個人蔵)。そのため津軽屋は極度に困窮し、家財はもちろん庭石までも売り払い、召使の男女に暇を出したり、所持の土地まで売り払うに至り、棭斎が収集した古典籍もこの時売却され、散逸するという犠牲を払ったという(梅谷前掲書『狩谷棭斎』)。もっとも、この代償に津軽屋禄高二〇〇石の加増を受け、さらに津軽屋が提供した金子に見合う額になるまで、当面三〇〇石を付加された。それ以前からの加増分を含めると、津軽屋の総禄高は一〇〇〇石に達し、上級藩士なみの待遇を得たのである。

図189.債権放棄を伝える津軽屋三平の書状

 江戸での蔵元の中には経営が破綻する者も現れた。寛政十年(一七九八)に久しぶりに津軽屋以外の蔵元に任命された菊屋は、文化元年(一八〇四)ころには早くも経営が行き詰まり、自己の借財の返済に廻米売立代金を流用するなど、なりふりわない経営を行うようになり、同二年には江戸勘定奉行を抱き込み、藩の名義で本両替屋三谷勘四郎から借り受けさせた二七五〇両を借金の返済に充てて窮地を逃れようとした。しかし、経営はまったく破綻し、年末に至って翌年の廻米売立代金残金四六五〇両の上納不能を藩庁に申し立てたことから詮議を受け、同三年二月二十八日、ついに蔵元を罷免された。蔵元としての在任期間はわずか七年に過ぎなかった。