南溜池の掘削と藩兵の訓練

711 ~ 713 / 765ページ
南溜池は弘前市の南側、相良町(さがらちょう)と新寺町(しんてらまち)の間(現南塘(なんとう)町)に位置し、付近には弘前学校最勝院(さいしょういん)五重塔、弘前大学医学部附属病院などがあり、現在では水が抜かれ、南塘グランドの名称で市民に親しまれている。南溜池の成立は各史料で若干のずれがあるが、慶長十七年(一六一二)から同十九年にかけて開削(かいさく)と土手の築造がなされたようである。この溜池は慶長十五年(一六一〇)から始まった弘前城下建設の一環として普請され、市域の灌漑(かんがい)用水の確保と、城の南を防御する軍事目的の施設であった。ただ、同池は岩木山を遠望できる風光媚(ふうこうめいび)な所であったため、藩主をはじめとして庶民のくつろぎ、憩いの場であった。また、池には多くの鮒(ふな)などが放流され、鳥類の殺生を禁止された時期もあり、宗教的な場でもあった。そのほかにも塵芥(じんかい)捨て場・身投げ地としての南溜池など、同池には諸様相がみられた(長谷川成一編『南溜池―史資料と考察―』一九八八年 弘前市教育委員会刊)。本項では文化年間より盛んに行われるようになった南溜池における軍事訓練について述べよう。
 もともと南溜池には貞享四年(一六八七)に矢場が設置され、その他にも星場があったことは「国日記」等の諸史料で確認できる。しかし、ここで藩士の弓術・砲術訓練が実施された旨の記載が頻繁にみえるようになるのは、文化三年(一八〇六)以降のことである。この年に藩では南溜池は「御要害之御場所」(「記類」下)であるから普請を行って掘り通しを命じたが、池の南側に再建しようとした矢場の空き地がなく、同十月には屋敷地を潰(つぶ)してこれに充てている(資料近世2No.一七一)。その後、同池ではたびたび藩主家老臨席のもと、弓術・水練が実施され、武芸に秀でた者には褒美(ほうび)が与えられた(同前No.一七二~一八一)。さらに南溜池の掘削は安政五年(一八五八)になると、「非常御用柄之儀ニ付御国役割ニ被仰付候」(「記類」下)と、藩の危機であることから町役(まちやく)のような税の徴収にとどまらない大規模な国役(こくやく)動員での整備になった。この工事で池は平均四尺(一・二メートル)あまり掘り下げられ、人夫四万五七六〇人余、馬一〇〇二疋余を要した(資料近世2No.一八二)。翌安政六年六月には南溜池において小屋掛けのうえ、家臣に水練の稽古をさせ、異国船を模した「ハッテーラ」という小型船に人を乗せて訓練をしたとある(同前No.一八八)。

図194.安政のころの南溜池
目録を見る 精細画像で見る

 文化三年における南溜池の掘削と修理はロシアの南下に対する蝦夷地警備のためであり、安政期の軍事訓練箱館開港に伴う藩兵鍛錬であることはいうまでもない。ただ、南溜池の基本的位置は、当初は城下の防衛であり、後に都市における用水の確保にあった。池の掘り下げも蝦夷地への藩兵用粮米の安定供給が第一義であって、軍事鍛錬が盛んになったのは付随的現象にすぎない。藩兵の演習地としては南溜池の他に宇和野(うわの)(現弘前市小沢辺り)が有名であり、ここでも藩主による覧が頻繁に行われた(同前No.一八七)。また、文久三年(一八六三)には城内に修武堂(しゅぶどう)という道場が設置され、槍(とうそう)をはじめとして各種の武芸が藩をあげて奨励された。加えて、文久年間になると藩士にもゲベール銃が徐々に普及するようになり(同前No.一九二)、大砲の鋳造・試射も宇和野など各地で盛んに行われた。治元年(一八六八)三月に、藩は戊辰戦争勃発に伴って大規模な軍制改革を始めるが、それは突然実施されたのではなく、これまで述べた幕末期からの藩兵訓練の連続性から考察されるべきであろう(軍制改革については通史編3を参照)。