もともと南溜池には貞享四年(一六八七)に矢場が設置され、その他にも星場があったことは「国日記」等の諸史料で確認できる。しかし、ここで藩士の弓術・砲術訓練が実施された旨の記載が頻繁にみえるようになるのは、文化三年(一八〇六)以降のことである。この年に藩では南溜池は「御要害之御場所」(「記類」下)であるから普請を行って掘り通しを命じたが、池の南側に再建しようとした矢場の空き地がなく、同十月には屋敷地を潰(つぶ)してこれに充てている(資料近世2No.一七一)。その後、同池ではたびたび藩主や家老臨席のもと、弓術・水練が実施され、武芸に秀でた者には褒美(ほうび)が与えられた(同前No.一七二~一八一)。さらに南溜池の掘削は安政五年(一八五八)になると、「非常御用柄之儀ニ付御国役高割ニ被仰付候」(「記類」下)と、藩の危機であることから町役(まちやく)のような税の徴収にとどまらない大規模な国役(こくやく)動員での整備になった。この工事で池は平均四尺(一・二メートル)あまり掘り下げられ、人夫四万五七六〇人余、馬一〇〇二疋余を要した(資料近世2No.一八二)。翌安政六年六月には南溜池において小屋掛けのうえ、家臣に水練の稽古をさせ、異国船を模した「ハッテーラ」という小型船に人を乗せて訓練をしたとある(同前No.一八八)。
図194.安政のころの南溜池
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文化三年における南溜池の掘削と修理はロシアの南下に対する蝦夷地警備のためであり、安政期の軍事訓練は箱館開港に伴う藩兵鍛錬であることはいうまでもない。ただ、南溜池の基本的位置は、当初は城下の防衛であり、後に都市における用水の確保にあった。池の掘り下げも蝦夷地への藩兵用粮米の安定供給が第一義であって、軍事鍛錬が盛んになったのは付随的現象にすぎない。藩兵の演習地としては南溜池の他に宇和野(うわの)(現弘前市小沢辺り)が有名であり、ここでも藩主による高覧が頻繁に行われた(同前No.一八七)。また、文久三年(一八六三)には城内に修武堂(しゅぶどう)という道場が設置され、刀槍(とうそう)をはじめとして各種の武芸が藩をあげて奨励された。加えて、文久年間になると藩士にもゲベール銃が徐々に普及するようになり(同前No.一九二)、大砲の鋳造・試射も宇和野など各地で盛んに行われた。明治元年(一八六八)三月に、藩は戊辰戦争勃発に伴って大規模な軍制改革を始めるが、それは突然実施されたのではなく、これまで述べた幕末期からの藩兵訓練の連続性から考察されるべきであろう(軍制改革については通史編3を参照)。