図3.寛永期(17世紀前期)の城下の様子
この間の城下の変化として取り上げておきたいのは、元禄十一年(一六九八)に制作された「弘前惣御絵図」(弘図郷)にみられる御歩行(かち)町一丁目から六丁目の新たな町立てである。これは現在の市内品川町の南西部に当たる。この後、城下の大きな変化は、宝暦五年(一七五五)八月に、富田村に足軽町が成立したことである(『記類』)。翌六年の「弘前町惣屋敷改大帳目録」(資料近世1No.一一五四)には、本町支配・親方町支配・鍛冶町支配・土手町支配・富田町支配・楮町支配・東長町支配・和徳町支配・茂森町支配・荒町(新町)支配・紺屋町支配・亀甲町支配の一二の町支配および寺社門前軒数目録が記載されているが、富田町とは前述の富田村の足軽町を指すものであろう。なお、同年の「御本城絵図」によれば、四の郭(くるわ)の岩木川側の一角は柵を巡らされて土場(とば)になり、堀を隔てた左対岸の敷地にも柵が回され、城内の一角に組み入れられている。
安永四年(一七七五)の「弘前都図」(弘前市立博物館蔵)は、かなり大まかな絵図であるが、これには田茂木町・田町・萱町・緑町・植田町・片山町・川端町・森町・新楮町(現御幸町付近)、富田町と桝形(ますがた)、宇和野下屋敷などや、春日祠・慈雲院・大行院が新たに記載されている。このほか、茶園甫(現茶畑町)、宇和野付近の竹苑なども記載されている。また、町方と思われる町に武士の居住がみられ、たとえば、土器(かわらけ)町に八四軒、西大工町に六軒、大工町に六軒、下鍛冶町川端町に一七軒などである。
図4.宝暦期(18世紀中期)の城下の様子