宝暦期の城下

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弘前城下に大きな変化がみられたのは、慶安二年(一六四九)に横町(現東長町)の算盤(そろばん)屋大坂屋久兵衛宅から出火した火事により、寺町の五ヵ寺が類焼し(資料近世1No.七一三・七一四)、翌年寺町の寺院を南溜池の南に移動させて新寺町を形成したのが最初である。次の動きは、天和三年(一六八三)ころから始まる城内の御地化である。築城当初から本丸には藩主家、二の丸には家老などの上級家臣、三の丸には中級家臣が住んでおり、城内町を形成していたのである。元禄九年(一六九六)から同十二年にかけて武家屋敷城外移転が進んだ。この背景には、元禄八年の大飢饉によって藩財政が窮乏し、翌年「減少」と呼ばれる政策によって下級武士・御職人・能役者などを中心に一〇六〇人に暇(いとま)が出された。その結果、城下武家屋敷に大量の空き屋敷が生じ、城内の家臣たちがこれらの空き屋敷に移住を命じられたのである。この政策は同十年、同十二年と続き、弘前城を囲む堀端の白銀町と大浦町は上級藩士の住む武家地となり、蔵主町・笹森町も侍町に変化した。その後、宝永二年(一七〇五)にも三の丸の武家屋敷が城外に移転させられ、同六年にも小規模の屋敷替えがあり、城内には藩士の屋敷はほぼなくなった。元禄と宝永の二度にわたる武家屋敷城外移転により、城東地区に下級武士を中心とする新たな侍町が形成されたのである。ここに、弘前城内は政務機関の所在地となり、城下武家地町方寺社地に区分される典型的な城下町の景観を示すことになった。

図3.寛永期(17世紀前期)の城下の様子

 この間の城下の変化として取り上げておきたいのは、元禄十一年(一六九八)に制作された「弘前惣御絵図」(弘図郷)にみられる御歩行(かち)町一丁目から六丁目の新たな町立てである。これは現在の市内品川町の南西部に当たる。この後、城下の大きな変化は、宝暦五年(一七五五)八月に、富田村に足軽町が成立したことである(『記類』)。翌六年の「弘前町惣屋敷改大帳目録」(資料近世1No.一一五四)には、本町支配・親方町支配・鍛冶町支配・土手町支配・富田町支配・楮町支配・東長町支配・和徳町支配・茂森町支配・荒町(新町)支配・紺屋町支配・亀甲町支配の一二の町支配および寺社門前軒数目録が記載されているが、富田町とは前述の富田村の足軽町を指すものであろう。なお、同年の「御本城絵図」によれば、四の郭(くるわ)の岩木川側の一角は柵を巡らされて土場(とば)になり、堀を隔てた左対岸の敷地にも柵が回され、城内の一角に組み入れられている。
 安永四年(一七七五)の「弘前都図」(弘前市立博物館蔵)は、かなり大まかな絵図であるが、これには田茂木町・田町・萱町・緑町・植田町・片山町・川端町・森町・新楮町(現御幸町付近)、富田町と桝形(ますがた)、宇和野下屋敷などや、春日祠慈雲院大行院が新たに記載されている。このほか、茶園甫(現茶畑町)、宇和野付近の竹苑なども記載されている。また、町方と思われる町に武士の居住がみられ、たとえば、土器(かわらけ)町に八四軒、西大工町に六軒、大工町に六軒、下鍛冶町川端町に一七軒などである。

図4.宝暦期(18世紀中期)の城下の様子