寛政期の城下

26 ~ 29 / 767ページ
寛政期には城下の景観が大きく変化する出来事があった。それは藩士土着政策(「在宅」政策)により、武家地に多量の空き屋敷が生じたことである。天明四年(一七八四)に始まり寛政十年(一七九八)の廃止にいたる経緯(資料近世2No.七〇~八五)については、第四章第二節二を参照のこと。寛政七年(一七九五)の「御家中在宅之族(やから)村寄」(同前No.八五)によれば、藤代組・和徳組・高杉組・堀越組など城下近郊の村々に移住した藩士が多く、在宅者数は七九六人、在宅村数は二五七村に上っている。この年には、和徳町北端に足軽町を設置し、桝形が設けられている。
 なお、同五年の「御家中潰(つぶれ)町之事」(前掲『弘前城下史料』上)によれば、城南では在府町後通りと同新割町、城西では馬屋町・新町・鷹匠町・五十石町、城北では若党町・小人町・春日町、城東では長坂町など一七町、また坂本町・緑町・山道町などの一九町が永久屋敷潰れの町になった。『平山日記』には、表現に誇張があると思われるが、弘前の御家中が潰町になったため大草薮(やぶ)になり、狐狸(こり)の住む所となったと記されている。
 結局、この政策は失敗に終わり、在宅者たちは再び弘前城下へ戻って来ることになった。その受け入れ先になったのは、元寺町・蔵主町・在府町・相良町・馬屋町・百石町・笹森町・長坂町・森町・若党町・鷹匠町・徳田町の一二町であった。実際に在宅者の弘前城下移住が完了したのは三年後の享和元年(一八〇一)十二月のことであった。
 一方、藩士土着政策実施中の寛政六年(一七九四)には学校が新たに創設されることになり、「封内事実秘苑」(資料近世2No.二七四)によれば、追手門前の津軽蔵人(くらんど)・松浦甚五左衛門豊嶋勘左衛門・木村杢之助(もくのすけ)の屋敷が引き上げられ、八〇〇〇坪の地に校舎が造営された。現在の市立観光館・市立図書館のある場所一帯である。学校稽古館と命名され、「稽古館創記」(同前No.二八一)によれば、開莚(かいえん)式(開校式)が行われたのは同八年三月のことであった。稽古館では経学・兵学・天文暦学・紀伝学・法律学・数学・書学が教授された。武道についても弓術馬術剣術・長刀術・槍術砲術・和術が教授された。

図5.追手門前に建設された学校稽古館
目録を見る 精細画像で見る

 稽古館の創立は、家中に好学の気風を興し、庶民教育をも刺激し、出版も盛んになるなど大きな影響を与えたが、同十一年(一七九九)には早くも規模が縮小され、費が年三〇〇〇石から五〇〇石に大幅に削減された。そして文化五年(一八〇八)についに閉鎖されてしまったのである。その代わりに、城内三の丸に評定所を補修して学問所が設けられたが、教科は経学・数学・書学だけになり、講義も半減し、職員数も八〇人から三〇人へと半分にも満たなくなった。
 寛政末年(一八〇〇)ころの「弘前分見惣絵図」(弘図津)によれば、追手門前には学校が描写されている。このほか、亀甲町角に御蔵足軽町和徳町口に桝形、南袋川岸町(現西大工町)、古堀町、茶畑町、川端町などが新しくみえる。また、新楮町が古御徒町に、横鍛冶町が覚仙町に町名変更されているほか、川端町と袋町は武家地となっている。なお、寛政十二年(一八〇〇)の「弘前大絵図」(弘図岩)では、城郭内から西外の郭がはずされ、御家中(武家地)は四七ヵ町、町屋は四二ヵ町、寺社境内が一七ヵ所であった。