二代藩主信枚は、為信が慶長十二年(一六〇七)十二月五日、京都で死去すると、革秀寺を創建して墓所とし、長勝寺には為信の木像を納めた。同十五年、高岡(現弘前市)に築城すると、長勝寺も賀田より移転させ、長勝寺構の中心に据えた。寛永五年(一六二八)、為信の正室仙桃院が死去すると、長勝寺に廟所を造営した。この後も信枚の碧巌台、信枚室の明鏡台、三代藩主信義の白雲台が造営された。
図204.革秀寺津軽為信霊屋
信枚は天海僧正に帰依し、江戸では天台宗常福寺を菩提寺として埋葬されたが、後に創建される津梁院に改葬された。三代藩主信義は江戸で死去すると津梁院に埋葬されたが、国元では、四代藩主信政が新しく天台宗報恩寺を創建して五輪塔を建立した。この時から国元でも報恩寺を菩提寺とする取り扱いになった。
ところが、六代藩主信著は、延享元年(一七四四)報恩寺だけが重く扱われ、長勝寺は光信以来の先祖が崇敬してきているのに、今は軽く扱われているので、ここに埋葬するよう遺言した。そして、長勝寺の凌雲台に埋葬され、戒名を雲雄院殿震中無籌大居士とした。この様子をみて、報恩寺亮運は長勝寺呂山と論争し、遂に津梁院へ訴え、本寺寛永寺の権威により改葬することになった。この時、遺体はそのまま長勝寺に置き、報恩寺には墓所を立てたという(『記類』)。
図205.長勝寺津軽家霊屋