(一)藩主家の菩提寺

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 大浦光信は大永六年(一五二六)十月八日、種里城(現西津軽郡鰺ヶ沢町)で臨終の際、自分の没後は甲胄のまま埋葬すること、これまで海蔵寺菩提寺としてきたが、自分のために一寺を建立せよと遺言したという(資料近世2No.四一四)。これにより、盛信は父のために享禄元年(一五二八)、その戒名長勝陸栄大居士から、寺号を長勝寺として創建した(同前No.四〇五)。盛信は江山を師としたが、江山は自分の師菊仙を招じて葬儀の導師とし、長勝寺開山に推した。江山はこれまで伝法の僧侶の入寺がなかった海蔵寺開山となり、長勝寺の末寺に連なった。盛信は海蔵寺を墓所とした。この時から曹洞宗長勝寺大浦(津軽)氏の菩提寺となり、五〇石ともいわれる寺領の寄進を受けた。為信は、長勝寺八世格翁(かくおう)を参禅の師とし、堀越城下の形成に当たり長勝寺を種里から堀越へ移し、後に大浦城下賀田(よした)(現中津軽郡岩木町)に移した。また、寺領二〇〇石を寄進し、僧録所として領内曹洞宗を統括させた。
 二代藩主信枚は、為信が慶長十二年(一六〇七)十二月五日、京都で死去すると、革秀寺を創建して墓所とし、長勝寺には為信の木像を納めた。同十五年、高岡(現弘前市)に築城すると、長勝寺も賀田より移転させ、長勝寺構の中心に据えた。寛永五年(一六二八)、為信の正室仙桃院が死去すると、長勝寺廟所を造営した。この後も信枚の碧巌台、信枚室の明鏡台、三代藩主信義の白雲台が造営された。

図204.革秀寺津軽為信霊屋

 信枚は天海僧正に帰依し、江戸では天台宗常福寺菩提寺として埋葬されたが、後に創建される津梁院に改葬された。三代藩主信義は江戸で死去すると津梁院に埋葬されたが、国元では、四代藩主信政が新しく天台宗報恩寺を創建して五輪塔を建立した。この時から国元でも報恩寺菩提寺とする取り扱いになった。
 ところが、六代藩主信著は、延享元年(一七四四)報恩寺だけが重く扱われ、長勝寺は光信以来の先祖が崇敬してきているのに、今は軽く扱われているので、ここに埋葬するよう遺言した。そして、長勝寺凌雲台に埋葬され、戒名を雲雄院殿震中無籌大居士とした。この様子をみて、報恩寺亮運は長勝寺呂山と論争し、遂に津梁院へ訴え、本寺寛永寺の権威により改葬することになった。この時、遺体はそのまま長勝寺に置き、報恩寺には墓所を立てたという(『記類』)。

図205.長勝寺津軽家霊屋