県政初期の混乱

6 ~ 10 / 689ページ
新政府は、政府に協調的とみられる県には政庁の所在地をもって県名とした。青森県の命名はこれに該当する。特に青森県の場合、内務省の「地方沿革略譜」で「青森県 置県 明治四年十一月二日 廃青森県更置之」とあるように、弘前藩から自動的に弘前県となり、そのまま合県で青森県になった直線コースを否定し、明治四年十一月二日、太政官は弘前県の大参事野田豁通青森県権参事に任命して、新体制の青森県とわざわざ性格づけたのである。新政府も野田豁通に期待しただろう。しかし、野田は弱冠二十五歳、政府は大事をとって一週間後の十一月七日、福島県権知事で三十七歳の菱田重禧(しげよし)を青森県権令に起用した。菱田は明治三年白石按察府(あんさつふ)の権判官として弘前藩山田登の強訴事件を裁いた能吏である。しかし、この人事は裏目に出た。菱田と野田は人間的に肌合いの違うタイプで、氷炭相容れずだった。菱田の着任は十二月二十九日である。

写真4 菱田重禧

 着任してみると、野田権参事の地方人の人望の高いのに驚いた。そして我慢できないのは県庁の執務ぶりである。野田権参事は津軽人の気質をのみ込んでいたので、御仮屋を改築して県庁を開き、事務を執るにも畳敷きのままとし、座って事務を執っていた。洋式の開化風景を描いていた菱田は衝撃を受けた。明治三年の制度改正の時、弘前は中藩なので藩庁の職員定数は九三人とされたが、実際は二八三人もいた。野田が二一ヶ条の伺いの中で、いったん全員を退職させるという方針を立てたのはこの実態を知っていたからである。野田は旧慣尊重と地方人の意向を重視し、漸進主義で着実に成果を上げる道をとっていた。しかし、菱田は官僚主義・開化主義で一気呵成(いっきかせい)に事を運ぼうとした。就中、陋習洗脱(ろうしゅうせんだつ)に急だった。ねぷたも禁止された。権令と権参事の間に確執が起きた。翌年八月、野田は去った。近代化のスタートにおいて青森県はかけがえのない人物を失った。
 青森県誕生とともに、経済の安定は緊要のことであった。津軽と南部は、断交状態を長く続けた間柄で、風俗、習慣や経済的差異も大きく、斗南藩移住によってますますその差が甚だしかった。その点、経済の専門家の野田権参事の存在は大きかった。箱館戦争の際に兵站(へいたん)基地となった青森は急激に発展し、物価は上がった。しかも、明治五年一月、政府は自由経済の原則を布令として出した。
 さらに県の経済を混乱させていたのは弘前藩札の流通だった。政府は、明治四年七月十四日の相場によって旧藩札の引き換えを命じた。藩札一両は官札二分に銭二三三文と半値近くだった。藩札二分は一分と銭一六七文、両替料は一両につき銭一〇貫文とした。また、政府の通貨は一両を一円、一分を二五銭、一朱を六銭二厘五毛とした。さらに旧銅貨も天保通宝一〇枚をもって八銭、一二五枚を一円、寛永通宝(青波銭・元四文銭)一〇枚をもって二銭、文久通宝一〇枚が一銭半、寛永通宝(目白銭・元一文銭)一〇枚をもって一銭、一〇〇〇枚で一円、五〇〇枚をもって五〇銭とした。昭和初期まで一銭銅貨のことを一〇文と言う呼称が残っていた。
 旧藩札は津軽では依然通用し、官札との間に混乱を生じたので、明治六年一月全部を引き換えることにした。引換所は青森寺町の蓮心寺で、二十三日から一〇日間行った。一町一村の組頭がまとめて持ってきた。そして七月十九日、青森上浜町の学校地所で焼却した。このとき焼却した藩札は、大小取り混ぜて五二万九一〇七枚、新しい官札で計算すると一〇万五五〇一円五二銭三厘だった。
 弘前藩箱館戦争の戦費に約五〇万両かかり、維新前後に藩札を大量に発行した。この中に官に無届けのものもあり、それが廃藩のとき旧藩主の私債としてに二六万両残り、旧藩主津軽承昭家禄で決済することになった。しかし、米価の低落などで順調に行われず、請願して明治七年九月残高一〇万九〇〇〇円の半分が免除となり、さらに明治十年、残額五万二〇〇四円を免除してもらって無届けの藩札問題が解決した。この問題のとき、菊池九郎は鹿児島留学の際の人脈を活用して大山格之助、前山誠一郎らを動かし、事を有利に結着させた。津軽家は菊池の功に報いて、菊池が創立し、藩校を継承する東奥義塾の経営資金として毎年三〇〇〇円を援助した話も伝わる。
 菱田権令の官僚主義は、明治六年の五月中旬から二ヵ月間続いた弘前士族家禄支給問題を発生させた。政府は、財政の負担減少のため士族たちの家禄の廃止を計画し、明治六年に徴兵制を施行、さらに地租改正を実施して、武士の常職を解き、土地領有制を廃止した。したがって禄制存続の根拠はなくなり、家禄廃止の方向へ向かった。八年九月、家禄の現石支給をやめ、金禄支給として秩禄(ちつろく)処分政策を進め、九年八月金禄公債を発行し、禄制を廃止した。
 弘前藩では、版籍奉還後、数回大幅な禄制改革を行い、士族家禄は上等士族が二〇〇俵から一〇〇俵、中等士族が八〇俵、下等士族は三〇俵から一五俵となった。明治四年四月二十二日藩は彼らに余田整理の水田を分与した。受給者は二四二一人だった。しかし、村へ移転して耕作する者は少なく、帰農政策は失敗した。明治四年八月十二日旧藩主は禄高一五俵以下の士族、卒、その他医師、絵師、諸工人、小者ら一七〇四人に頒与残田二〇〇町歩の売却金や収穫米を家計維持金として与えた。士族には米七俵金七両、卒は米五俵金五両、小者は米三俵金三両又は五両、医師は米一〇俵金一〇両、絵師は金一五両、諸工人は金一五両ないし一〇両、七両とした。
 明治六年春は天候不順で、不作の気配が濃かった。米価は騰貴し始めた。青森県では正米不足を理由に士族家禄を現金支給とした。しかも四期分割支給だった。菱田権令の行政は政府の方針の先取りで、現地情勢を軽視していた。功を焦った官僚主義といえる。生活不安を訴える士族たちは、寺院に集まり、不満を述べ合った。やがて長勝寺に二〇〇〇人が集会する騒ぎとなった。元家老の第三大区大道寺繁禎戸長も辞職を願い出た。菱田権令は、説諭が効かぬとみるや強硬な弾圧策に転じた。青森分営の兵士の出動も考え、自分の方針を説明するため上京した。事態を重く見た政府は、大蔵省から北代正臣(きただいまさおみ)を派遣して説得し、士族らの不平不満を収めた。菱田権令は免官の上に位記返上(いきへんじょう)となった。
 当時の弘前士族は四分五裂の状態にあった。津軽家一門も保守派と時代容認派があった。旧藩主承昭は、明治五年熊本県人を家庭教師にして英語の習得に努めていた。そして、一門の若者たちを横浜に赴かせて英語を学ばせた。これを喜ばない弘前在住の一門もいた。彼らは、弘前三千士族の代表を自称して上京、津軽家の家政への参加を求め、封建復帰論を説いた。不平士族の一味は自らを正義の輩(やから)と称し、家職や旧参事を奸徒(かんと)として東京で運動したため、ついに政府取り調べの事件となった。そして、保守派は、上京の旅費強要や県治妨害の罪により禁固や罰金刑となった。弘前士族間の確執は、この後の近代青森県の発展に悪影響を及ぼし、中央に難治県の名を残した(関連・本章第二節第一項)。