[現代訳]

柴を刈る童子、薪を背負うきこり、あるいは蔦の生い茂った細道で牛馬を引いたり、急な山畑を耕す農夫も、その土地におけるその家の仕事をしているのです。朝にはいななく馬に驚いて起き、草鞋(わらじ)を履き、腰には破籠(わりご)(弁当箱)をぶらさげ、手には鎌を持って農作業に出かけ、夕方には青菜の合間に見える我が家の灯火を、雲からもれる月かと疑って帰宅し、柴の垣根に咲く卯の花を雪かと見間違える初夏のころ、庭での仕事も住めば都と、偕老同穴を誓った夫婦が、二人の仲を楽しんで、「枕持ち寝にも行かばや夏木立」と、隣近所もはばからず口ずさむのどかな里も多いことでしょう。
 
こういう話があります。今年丁未(弘化4年)3月下旬、山仕事をしていると、暴風が吹き起こって山野に激しく響き渡りましたので、正気を失っておりましたところ、しばらくしてまた暴風が起こって、その音が何度も辺りに轟きました。しかしそこにあった樹木の枝は、少しも動きません。このことをよく考えてみますと、自分の額にかかる髪の毛やほころびた着物の袖は、動く気配がないと、眉をひそめ不思議に思って、凡人はその日を送っています。そうした中で24日の夜に大地震が起こって、こうした大被害を受けることになったことの恐ろしいことよ、というのです。
その辺のことを老人を探して聞いてみると、善光寺から見て西から北西にかけての山野の轟音がことに激しかったということです。大地震が発する気が地中に満ち満ちて、漏れ出たことが疑われます。大災の後、嘉永と改元があって、戊申(1848)の春を迎えましたが、松代から南東にかけての戸倉・坂木辺の山続きで、山野で何か所も轟音が響いたのは、これまた陰陽遅速のためでしょうか。こうした大地震を起こすほどの正邪のために、地中にはまだ不順の気が満ちていて、放出されないのでしょうか。後悔するだけですが、無学なのでその詳細なことは分かりません。
戊申(嘉永元年)3月、折から眼病に苦しむことすでに半月、眼鏡の力を借りて書いた人は、例の地震を体験した商人で、豊田酒店の主人とは言っても、馴れない仕事ということで番頭任せの、したみの喜源です。
 
水内橋の事
千曲川犀川の大河は言うまでもなく、裾花川も加えて、いずれ劣らぬ荒波の流れに囲まれた里々を更級郡と言いますが、世間で川中島と称するのももっともです。千曲川犀川はいずれ劣らぬ大河ですが、犀川の流れは殊に比類のない水量で、その渡し舟を止める時は、仁義礼智信といった道徳もすたれてしまいます。それはどういうことかと言うと、通信の経路が断たれてしまうからです。その点、尊敬し喜ぶべきは水内の曲り橋です。これはまた久米路橋とも言って、犀川の上流にあり、西から東に5丈余の橋が架かり、そこから南に10丈余の大橋があって、橋と水面との間は15丈余もあるということです。高い橋の上からみなぎり流れる水音を耳を澄ませて聞き、目に見える波の下の青深い淵の恐ろしさは例えようもありません。木々の枝葉が岩の間に生い茂り、四季折々に花が咲き乱れて、秋には木の実が枝もたわわに実るのですが、指差そうとしても指差すことはできません。これについて思うのですが、その昔猿が木々の梢を運び、藤づるを使って初めてこの橋を架けたので、白猿橋とも呼ばれているそうですが、『拾遺和歌集』に、「埋れ木は中むしばむといふめれば久米路の橋は心してゆけ よみ人知らず」とあるのは、この橋の事だとも言います。まことに感慨深いことです。
大地震が起こって例の岩倉山が崩落し、犀川の流れを堰き止めました。翌月(4月)6日になって、たまった水の高さはこの橋から数十丈にもなりました。これではどんな名橋でも持ちこたえることができないわけで、橋梁が浮いて流れ出し、湖水のように充満した水面を漂流して、穂刈村(長野市信州新町里穂刈・山穂刈)の辺までやって来たということです。その地に行ったことがないのでよく知らないのですが、穂刈村はこの橋から上流へ1里近く行った所だそうです。その後も数日にわたって増水し、4月13日に堰き止めた場所が決壊して流れ下り、この橋が流れて行った先は誰にも分かりませんでした。後に高井郡の川沿いの畑に、周囲3尺、長さ10丈余の材木が漂着しましたが、それがこの橋梁なのでしょう。10丈余もある材木を押し流し、ここに漂着させた大洪水の、何と恐ろしいことでしょう。その他数百の村々の家や蔵を押し流し、あるいは破壊し、田畑を荒して、すべてを藻屑として水中に沈めた大災害の被害については、あとに書いたところを見てください。まことに恐ろしいことです。
水内橋は、大橋が長さ10丈5尺、幅1丈4尺、東西の袖橋の長さ5丈4尺、欄干の高さ3尺、水面から橋までの高さは36尋(ひろ)だということです。
 
 新地獄の戯言
○子孫は絶えることがなく、これを見る人も絶えない、だけでは面白くありません。もし変化したものがそのままの状態であり続けるなら、それもまた珍事で、後世に話の種になることを期待して書きます。
私は浅学でよく分からないのですが、荒木田久老御師(国学者)の説によると、善光寺の北北東にある薬山の薬師仏の石像が、少彦名命(すくなひこなのみこと)であることは疑いないということです。〈久老神主は博学で世に知られた人で、私の先々代幸直の友人です。その「薬山の考」は、民間で出版された『文苑玉露』という本に載っているということです〉宝永4年(1707)に善光寺本堂が再建された後、残った材木を使って、棟梁だった木村万兵衛という人〈善光寺本堂再建の棟梁。伊勢白子(正しくは一身田)の住人です〉が、苦心して奇抜な薬師堂を建立しました。周囲の評判になり、「ぶらん堂」と呼ばれています。毎年4月8日の祭りには、遠近の人々が参拝に集まります。岩の上に建てた1本の支え柱をもとにして、順番に組み上げてある御堂なので、大勢の人が四方に偏りなく入ると、必ず動きます。動いても、何年もたった現在まで、狂って壊れたりすることはありません。世にも珍しい御堂でしたが、大地震が起こった時、土砂や岩石と一緒に崩落して、数十丈下の谷間にある長原道を塞(ふさ)いでしまいました。まことに残念なことです。この御堂を再建できる大工はいないでしょう。
ところでその山の辺りの地中がどう狂ったのか、半丁ほどの間の地中から火が噴き出しました。1か所では風呂桶を置いて、噴き出す火で湯を沸かしています。もう1か所では鍋ややかんなどを掛けて、煮炊きをしています。他の2か所では、ただ何となく6、7尺の間にぼうぼう燃えています。その火勢は、そのままで湯もたちまち熱せられ、青葉もすぐにしおれることから分かります。人々はそれを新地獄と呼んでいます。見物人は引きも切らずに集まり、日増しに多くなっていきます。そのため私の家族や子供たちなども、行ってみたいと言っています。
ここで面白いのは、「地獄に行きたい」という言い方です。「地獄に行きたい」では表現が悪いけれど、他に言いようもあるまいということで、何度も何度も「地獄に行きたい」と言いました。行く途中で人に会って尋ねました。「私たち衆生は、地獄に行く者でございます。道に迷って困っています。道を教えてください」と言いました。それに対して、「この先に川があります。その先に岩石が崩落して、いかにも恐ろしそうな山があります。それを乗り越えて行くと、1軒の家があります。その前を通って行ってください」と答えました。そうしているうちに、向こうから1人の女の子がやって来ました。道連れの子どもと言い争ったのでしょうか、泣き顔です。これは、「泣く泣くひとり行くと答えよ」(『善光寺縁起』にある、地獄に落ちる皇極天皇が詠んだという歌)ということでしょうか。
鶴沢の橋を渡ろうとして
 六道を二つに我は三途川一途に願う後生安楽
折から藤の花が見事に咲いていたので
 松が枝に葉をのす首の長ければうべ鶴沢の藤浪の花
山崩れの荒々しさは、いわゆる針の山と同じなので
 焼くやかん頭の願い今ぞたるこの世からなる針の山道
浅川の流れに淵があったので
 欲ならば浅瀬浅瀬と渡るべし深き迷いは後悔の淵
1軒の家の前では、ちょうどこの家の主婦と思われる人が、谷川の水で子供の着物を洗っていました。その様子は、山家育ちで髪も結っていなかったので、「今にも奪衣婆(だつえば)に我々の着物も取られてしまうだろう」などと言い合いました。
 世の憂さに迷うおのれは知らねども夏来にけりと蝉の初声
 地震にてなせし地獄の道にさえ行き悩みてはなお恐るべし
これらは皆、和歌ではなく、狂歌ではなく、俳句でもありません。何かと尋ねられれば、猿が人の面をかぶって人まねをしているようなものです。もともと無学で愚かであることは前々から断ってあるので特別に嘆くことではないのですが、知らないままに書いた退屈なこのいたずら書きを、ご覧になる方々はどうぞお笑いください。
 
 大地震について考える
さて水内郡の山中、梅木村の分村で、城の越(長野市中条日下野城之腰)という所があります。民家はわずかに4、5軒です。このあたりの山の合間には1丈余の深い沢があって、そこには9尺四方ほどの大石がありました。24日の夜の大地震でこの石が動き出し、高い城の越に登って、そこの民家の門を壊して表に転がり出て、その前にある少し小高くなった麦畑まで来て止まりました。しかし住民の怪我は一人もありませんでした。そもそも大石が1丈余も低い沢の中から動き出して、高い麦畑に登ったということは恐ろしいことです。それにもかかわらず怪我もなく無事であったのは不思議です。これはまったく神仏のご加護だろうということで、止まった大石に注連(しめ)を張って崇敬しているということです。
 
大地震が起こって朝日山(旭山)ではたくさんの山崩れがありましたが、岩の割れた間から出てきたものがあります。物に例えれば、黒羅紗(くろらしゃ)に織り入れてある毛のようなものです。長さは2、3寸で、細さは子供の髪の毛くらいです。手触りの柔らかさは真綿のようで、色は黒くて赤みが少しあり、何の香りもなく、つやがあって美しいことはほとんど例がありません。その実物を手に入れて地震関係の袋に入れておいたので、後世までも捨ててはなりません。物知りの人に尋ねて、その名前を調べてください。
 
こうした未曽有の大災害なので、人心は一日も安定しません。光陰矢のごとしで、昨日今日と日々は速く過ぎていっても、何一つまとまった仕事はできず、昼間の疲れに早くも横になり、その苦労を補おうとしますが、日暮れが過ぎたころからは夜の寂しさを思い煩います。深夜になると狼が毎晩やって来て、死骸の臭いに引かれて焼け跡を歩き回っているということです。そのため夜は通る人もありません。さらなる火災や盗難を恐れて、小屋ごとに拍子木を打ち鳴らし、ちょうちんで照らして小屋の周囲を見回り、狼よけの鉄砲を撃つなど、苦難を忘れる暇もないうちに、早くも夜明けを告げるカラスの声を待ちわびる時間になります。安心して寝られる日はいつのことでしょうか。今は小屋掛けの仮屋ですが、また街並みに家々が建ち並ぶ日が来るのでしょうか。御開帳ということで遠国から参詣の旅人が無数に町中で命を落としましたので、これから遠方からは誰も参詣するとは思えません。人心が騒然としているのも、日がたてば落ち着くでしょう。落ち着けば落ち着いたで静まり返って、雨の降る日や晴れた夜はもの寂しく、みだりに出歩くこともできません。ただこれからの成り行きを悲歎して不安です。自滅するような気持ちで、誰も苦難を免れることはできません。
 
私幸一がこの本を書いたのは、前にも記したように、年月を経てしまえば、誰もこの大災害を覚えていてその詳細を語るということができないからです。ただ子孫が集まって話をする時の、話の種になることを願っています。私はもともと本も読まず、絵などはなおさらで、人形の頭でさえ描いたことがありません。しかしこれほどまでの大災害を子孫に伝えたいとの一心から、初めて絵のまね事をしましたが、まことにお粗末です。筆の運び、絵の具の使い方、文章などもこの通りです。行き届かないので長々しくなり、最初と最後もまとまりません。そこで、思い出したことのあらましを左に記して、後の慰みに残しておくので、その良し悪(あ)しを見て許してください。退屈な長文句をよくぞ書いたと一笑に付して、他人が悪口を言うことのないようにお願いします。
 
さて川中島の話を聞きますと、そこはいずれも田舎の村々なので、町家とは違い、ほとんどの家では五ツ時(午後8時)を過ぎた頃には横になっていたところに、大地震が起こり、大小の被害が無数にあって、みな庭に飛び出して大騒ぎになりました。見ると用水や小川には一切水がありません。きっと地震の揺れで壊れてしまったのだと、個々に話をしました。しかも犀川の瀬音も聞こえません。しかしその騒動に紛れて誰も気づかずにいたのですが、誰が聞き知ったのか、犀川の瀬音が聞こえないと言い出しました。みな恐れおののいて、よくよく思案しましたが、瀬音がないことは間違いないということになりました。何はともあれ、この大河の水が止まることなどはあり得ません。しかし瀬音は聞こえず、そこから水を引いた小川もまったく水が流れていません。ともかく疑問は解決せず、どう考えたらよいかも分からないので、生きた心地もしません。亥の刻(午後10時)を過ぎたころ、月の光によくよく透かして見ると、思った通り犀川がまったく流れていないので、この大河はどこかへ回って押し出すのだろうかなどと、あれこれ言い合いましたが、夜中のことなのでそうしたことは見極めることができません。「ともかく高い所へ逃げるよりほかは考えられない。早く避難して、この突然の災害を逃れよう」などと言い終らないうちに、我先に逃げようと狂気のようにあわてふためいて大騒ぎしたのは当然のことでした。こうなっては大切な我が家の戸ひとつさえ閉める人もなく、集まって相談していた場所から後も振り返らずに、小松原や岡田の山に逃げました。その間も鳴動が止まないので、大地にひれ伏して天を拝み、一心不乱に念仏を唱えて空が明けていくのを待ちましたが、「この大河が止まって、一晩そのままでそのままであるはずがない。今にも水が押し寄せてきたら、家や土蔵が流されるのは当然として、どんな大災害が引き起こされるか」と、少しも心が休まらず、呆然としていました。
いつしか夜もほのぼのと明けてきたので、少しは心に喜びを感じて自分の村を眺めると、地震による大被害は見えますが、まだ水害にはなっていません。少しはほっとして、ようやく夜が明けるや否や犀川を眺めると、これはどうしたことか、朝夕に見慣れていても恐ろしい荒波の大河は干上がっていて、一滴の水もありません。
小さな用水路にごみがたまると、夕立が激しく降った時などは水があふれて道を覆い、通行できずに困ることさえあるのに、これほどの大河の流れがどうして止まってしまったのでしょう。ことによると地割れがして、川の流れが世界の底に落ち込んでしまったのでしょうか。本当のことを知らないので、恐怖はいよいよ募って、ただただ呆然とするよりほかに考えられません。
こうして時間がたっても、成人はこの事態に対して頭が一杯で腹が減ったのも忘れていますが、子どもはそうした分別もないので何か食べたそうです。「子を見ること親にしかず」ですから、親たちが思い思いに話し合って、老人や女や子供はこの場に残しておいて、壮年で足の丈夫な者だけを村に送って、他にも大切な品もあるのですが、貯えた金銭と飯と味噌との3品を主に持ち出そうとしました。どこかの方面に水が回っていてやがて押し寄せるかと思うと、後ろも振り返らずに急いで行くとはいっても、村によっては5丁、10丁、あるいは半里、1里も離れています。ようやく我が家に着いても、この3品を持ってすぐに小高い山に逃げ帰るので、なかなか大変です。
24日の夜に大地震が起こって危うく命が助かり、我が家もろくに見ないで慌てて避難して、狂気のように心を悩ませ、善光寺町の炎上を目の前に見て、そこにいる嫁や婿を思い、親や子を心配します。単に縁組しただけの関係ではないとは言っても、今にも洪水が押し寄せるかと思うと、慌てふためいてどうしても邪魔になってしまい、やるかたない思いに心を痛めます。南西の方角には、3里も離れていない稲荷山一帯の大火が目の前に見え、大地は幾度となく震動し、また鳴動して、足元から煙が立つかのようです。流水のなくなった大河を前にして、自分の住む場所は水に流されてもはやなくなってしまったかのように思います。このような大難を身に受けて、その成り行きが分からない時は、どのような大胆不敵な者でも、たとえ悟りを開いたとしても、恐怖におののかないはずはありません。昨日今日と日は過ぎても、昼夜の別なく今にも洪水が押し寄せるかと恐れるので、川中島の村々は言うまでもなく、川沿いの村々は一人も家におらず、住居も土蔵も開けたままにしてあります。
ようやく岩倉山などで数か所の山崩れがあって、上流を堰き止めていることが分かって、たとえどのような状況の変化があってもた易く決壊することはないはずだということになりました。西は岡田・小松原、北は花上・小市山、南は清野・西条山・東は鳥打山の続きなど、最寄最寄に仮小屋を掛け、家財の品々を遠方から運びました。あるいは家に残して、雑穀や米俵は積み重ねて縄を掛け、東西南北それぞれの仮小屋に避難して、今日は我が家が押し流されるか、明日は流失するかと、少しも心の休まる時がなかったのは、実に恐ろしいことでした。日夜心を苦しめて最終的には20日余も日を重ねることになったのは、語るも聞くも恐ろしい話で、ともかく古今未曽有の大災害でした。
 
○また山中の新町(長野市信州新町新町)では、24日の夜の大地震で家・蔵・物置などが多数倒壊しましたが、何事が起ったのかその事情さえ知らない人が大勢いました。死者やけが人も大勢あり、瞬く間に火災となりました。慌てふためき嘆く間もなく、岩倉山の崩落で犀川が増水して逆流し、家や蔵が水面に浮かんで、岩倉山が崩れて水をたたえている所まで流れ出します。数知れぬ家・蔵・家財などがその水の中央で何度も回っていましたが、たまった水はあっという間に湖水ほどの大きさになって恐ろしいほどなので、誰も舟でそれを取り戻すことができません。こうした大河を堰き止めて20日余も日を重ねたので、水嵩が増したことは言いようもないほどで、そのために人や牛馬は焼死したのか水死したのかの判別もできません。死骸がないので、肉親の悲しみもまた格別です。周辺の山々に避難して野宿していても、犀川の湛水は日夜増水し、次第に広がっていくので、その都度高い所へ避難し、苦難は数日に及びました。この前代未聞の大災害を、後世も察して恐ろしく思ってください。これは地水火の三災が同時に起こった大災害でした。
 
○下々(しもじも)の我々は、ただ自身の成り行きを心配し、妻子の愛情に心を砕くばかりで、たとえどんな火災や水害の被害に遭っても、それは一家滅亡という小事で、取るに足りないことです。畏れ多くも一国一城の主であるお殿様は、ご重臣の方々から身分の低い民百姓の身の上まで、この大災害の被害を哀れに思し召され、広大無量のご仁徳で心配りをされることが多くありました。聖人賢者のいた昔のことは知りませんが、ものを知らない我々でも今の御代の有り難いことを仰ぎ敬って、落ちる涙に袖をぬらすことです。
 
○さて24日の夜大地震が起こり、松代の御城郭・御殿をはじめとする大小の破損は多く、御家中と町家倒壊して町人の死者も大勢ありました。その夜から町奉行のお二人(寺内多宮・金児丈助)がご出張になって、自ら倒壊した家に入って回り、死者やけが人を調べて掘り出して人命を救助するなど、昼夜にわたって少しも休息することなく、城下町を御見分になりました。その夜から、当座をしのぐためということで、老若の別なく一人ずつに白米を支給され、近郷近在で少し被害の軽い所へは人を出して、炊き出しによって食事を支給されるなど、まことに有り難いことで、言葉もありません。
 
○山中の岩倉山が崩落した場所へは、郡奉行(磯田音門)が役人たちを引き連れて出張されました。その湛水の水面に浮かんで回転している家を助けるために、自ら舟を出し、大災害により突然出現した危険な湖水を忠と仁の心で乗り回って、漂っている家や蔵を岩の間に生い茂っている大木につなぎ止めさせ、人民の苦難をいたわられました。付き従う人々も民百姓も喜んで感謝しましたが、4月13日の決壊で、縄はすべて切れて流失したということです。
 
犀川沿いの小市渡船場の少し上でも、岩石が崩落して川の中に押し出し、また地中からも泥砂が噴き出て、川の中に小山ができました。小市渡船場の川筋は、銚子の口のように狭くなってしまいました。大きな山ではありませんが、左右に山が連なって川幅が非常に狭くなっています。ここから、北は小市村・久保寺村・善光寺を見通し、南は小松原村・岡田村からさらに広くを見通し、東の川中島・松代・川東・川北は一面の平地です。岩倉山の崩落が決壊して、この銚子口のように狭くなっている所から水がぱっと広がったら、大被害になることは確実です。それを防ぐためご家老が出張されて、急難を防ぐための堤防工事が行われました。これは戦乱の国に城を造るのと同じで、今にも洪水が押し寄せるかと、大軍で押し寄せる敵を防ぐように身構えるのは言うまでもありません。小松原大神宮(小松原伊勢社)の辺りに仮屋を造り、幕で囲って、紅白の吹き流しを風になびかせ、金紋猩々緋の馬印と槍と三つ道具(突棒・刺股・袖搦)を飾り並べました。鉦と太鼓の合図で人足を出動させ、あるいは休息を知らせることは厳格に行われましたが、権威をかざして下々の者を見下したり、人足を苦しめたりするのではありません。こうした大災害を体験し、親族の死者も多い中で、何千万もの大敵に立ち向かうかのような大難を前にすれば、力も抜けてうろたえ、精神的にもまいってしまうのが下々の者の常です。そこでこうした派手な演出で人民を驚かせ、人情を刺激して快く働くようにすれば、疲れもきっと少なくてすみ、工事が完成したあかつきには、上下ともども安穏でいられるでしょう。お上はそうお考えになっておられるのだろうと、愚かな我々が伝え聞くにつけても、有り難いことです。数千人の人足へは毎日炊き出しの賄(まかない)をしてくださるなど、対応は充分だったということです。しかし4月13日七ツ時(午後4時)頃、大洪水が山が崩れるかのように押し出し、惜しいことにこの堤防もあっという間に壊れ、その他数か所でも堤防が切れて、川中島は一面の洪水となりました。
 
○前にも書いたように、川中島をはじめ川沿いに連なる村々は多数ありますが、今にも洪水が押し寄せてきそうだと恐れて、家にいる者は一人もなく、お上の御用で往来する役人や、村々からお上に訴え出るために往来する人を除いて、通行する人はまったくありません。どの家をのぞいても一人の姿もないので、行き交う人々は白昼だというのに何となく不気味で、水害を心配して足の向くまま駆け足で通ったということです。ところで急災よけの工事現場は何か所もあるので、村々に人足を割り当てました。しかしその賄の炊事をする場所もないので、川田村・八幡原・小松原、この三か所に救援のための炊き出しの会所が急きょつくられました。幕で囲って槍と三つ道具を立て並べ、多数の大釜をすえて、老若の別なく一人につき大握り飯を3つずつ配給しました。これが毎日3回で、3か所の炊き出しですから、要した白米の俵数は何々だということです。膨大なご救済でまことに有り難く、後々までそのご仁恵を尊敬すべきです。
 
○さてまた松代藩は、善光寺が特別に大被害を受けたことをお聞きになって、こうした大災害の中でしたが、翌25日の朝四ツ時(10時)頃に役人が出張されました。善光寺の近隣の松代藩領の村々に指示して、今年の年貢善光寺へ差し出すように命じ、それを当面の救援手段とするということで、こうしたご配慮をしてくださることはまことに有り難いことです。その年の秋頃から、善光寺からの出願によって御拝借金が許可されました。町の家々から願い出た者へは、藩から御貸付金が貸与されました。
 
○松代藩領の村々はたくさんあっても、どこも地水火の三災を免れず、山崩れで民家が埋まったり、田畑に被害が及んだりしたことは数えきれません。担当の役人方が出張してそれぞれ調査し、対応された例はたくさんあるので、とてもここに書き切れません。追々伝え聞いたことを後編までに書き込んで、後世に伝えるつもりです。
 
○山崩れが犀川を堰き止めたことは前代未聞の大災害でしたが、松代の城郭も地震の被害が大きく、また数日間は地震の鳴動が止まなかったので、畏れ多くも殿様は城内の桜の馬場に避難されて、数日間心を配られました。そこでご重臣をはじめ各役目の方々は桜の馬場の左右に軒を連ねて仮役所を設置し、震災はこれからどうなるか分からないということで、すべてここで用を済ませ、ご主君を厳重に守護されたということです。ご重役から下部の役人まで、すべて炊き出しで食事を支給したといいます。古今未曽有の出費で、言う言葉もありません。
 
○こうして大河が一滴の水も漏らさないまでに堰き止められて、すでに20日がたつので、殿様がこれ以上の大災害をお考えになったのも当然です。そこで祈願所の西条村開善寺へ避難する準備をされたということです〈準備だけで、避難はされませんでした〉。しかしお城から岩倉山が崩落した場所までは2里近い距離があるので、決壊してもご注進が間に合いません。人民が流されるのを防止するためということもあって、決壊した場合は合図ののろしを上げるように命じました。
 
○4月13日の昼八ツ時(2時)頃、堰き止めた場所が思いがけず決壊しました。20日間止まっていた大河は川幅を増し、所によっては2里・3里、あるいは4里・5里に近いほどで、川上から堰き止め場所までは10里余もあったということです。それが突然決壊して大洪水が押し出したのは、いわゆる大山が崩れたかのようでした。それを伝え聞いて、大洪水が押し寄せると思った人は一人もありませんでした。浪とも瀬とも言えないその高さは10丈余もあって、ただ真っ黒で、山のようで、雲のようでもありました。左右の山々の谷間に岩石が打ち当たり、当たってはじけ鳴動するさまはすさまじく、何千万もの雷が連なって落ちたかのようです。水煙が大空に跳び上がり、人はみな肝をつぶして仰天したと言います。それも道理です。その時の鳴動は4・5里の間に響き渡りましたが、これは現実です。そこで指示されていた合図の音が辺りに響き、のろしの花火が雲を貫いて大空にパッと開きました。この時、主君の一大事と思った家臣が、避難の準備をするよう殿様に申し上げました。突然のことだったのですが、しばらくして殿様は、「領内の百姓・町人たちはいかがしておるか」と、お尋ねになったということです。そこに並んでいた家臣の方々は、頭を地に付けて、そのご仁徳に感謝したそうです。これは下々の者に対してはなおさらでしょう。後世に至っても、主君や父の恩を忘れてしまったら、必ず天の罰が下るでしょう。恐ろしいことです。
 
○さて、賢い上に勇と仁慈とを兼ね備えていたのは、高井郡六川陣屋(越後椎谷藩の陣屋)からのご出張でした。24日の夜大地震が起こって犀川を堰き止めましたが、無事かどうかも分からない中で、25日の朝には早くも問御所村(椎谷藩領)に代官が出張して、村長に指示して人足を集め、延焼を防ぐために陣頭指揮をして、激しく燃え広がっている場所へ出向きました。東には中沢堰があり、西には堅固な蔵があります。そこが防火に最適な場所なので、ここで防ぐことができなければ類焼は免れないと、自ら駆け回って指示を出しました。中沢堰の端にある家の柱を切り倒し、西側は松代藩領の西後町ですが、これも居合わせた者に指示を伝えて、ついにそこで延焼を食い止めました。まことに頭が下がります。この勇敢な働きがなければ、人の気力が失われている上にこの延焼ですから、防ぐことができず、さらなる大火になっていたかもしれません。一両日過ぎた後、破壊した家へは手当として普請金を下さったということです。引き続いて被害を調べ、次のように金を支給されました。
 一、一軒につき金7両2分ずつを全壊した家にくださる。
 一、一軒につき金5両ずつを半壊した家にくださる。
 一、一人につき金1両ずつを死者がいる人にくださる。
xその他困窮している者へ、金百匹(金1分)から金1両までくださったということです。さらに支障のある者は申し出るようにと言われました。同村の穀屋新兵衛は身元も確かで心がけもよろしいからということで、当分の間100文につき白米を1升売るように指導されました。この大地震で町が焼失し、貴賤の別なく日々の飯米に困っていたので、この廉価販売によって皆が満足したのは、仁と言うべきでしょうか、慈悲と言うべきでしょうか。後世に至っても、その賢と恩沢とを尊んで敬うべきです。
なおその他の恩恵を調べて、後巻に載せます。
 
○中之条代官所・中野代官所・松本藩・上田藩・同分家・椎谷藩・飯山藩・善光寺の各領地では、救援の手当てが大きく支給され、まことに有り難いことです。松本・上田のお殿様が往来の旅人を救援されたこと、お代官様方・お殿様方がお心を痛められたことなどは、それぞれ差があるために後回しにするわけではありません。この本は、24日の大地震の発生から4月13日の犀川の大洪水までの次第を、順序に従って書こうとしています。不肖の私が『地震後世俗語之種』と題してこの本を書いたのは、子孫に残すことが主目的で、他人に見られるのはまことに恥かしいことです。子孫が集まった時に見やすくなるようにと、水害までの絵を順番に描きました。「隠れたるより顕(あらわ)るるはなし」(隠し事はかえって世間に知れやすい)はその通りで、もし後世になって子孫が来客の慰みにこの本を見せるのもどうかとは思いますが、不肖の私がそのあたりのことを云々(うんぬん)することはできません。ですから後世になった時は、ご領主様方のご仁徳を尊敬するのが基本です。よってその点をしっかり伝え聞いて、膨大なその子細をすべて後編に書きたいと思います。ご仁徳のおおよそはすでに伝え聞いていますが、なおよく調べて後巻に詳細に書きますので、後世になって前後を問題にしないでください。
 
友達との集まりの後で、ある人が無粋な話をしました。「善光寺は三国伝来の尊像を祀り、人は敬ってここを仏都と呼びますが、中でも常念仏を唱えて回す数珠が巡って6万5千日を数えるこの春に、恐ろしい災害で人々が命を失いました、とりわけ善光寺世尊院の本尊釈迦牟尼如来は、仏身が紫金でしかも北越今町(新潟県上越市直江津)から続く善光寺浜に出現されて、殊に霊験あらたかです、出開帳で前立本尊が国々を巡られた時、この釈尊の御輿が渡船場の辺りに至って重くなったのを、ただ事ではないと言って、そのため御本院(大勧進)の御内仏である釈尊が代わって国々をお巡りになったということです、このたびの大震災で善光寺が焼けたときに、もったいなくもその仏身が少し溶けて流れ、その他秘仏の菩薩像も一時に灰になられたとは、仏法も衰えたものです」と言いました。これに答えて、「惑ってはいけません、仏身が溶け焼失したことこそ、仏の教えに疑いのない証拠です。いつの頃だったか、江戸神田明神の神職が、恐れ多くも寺社奉行所に願書を奉ったことがありました。その子細は、神前で湯の花の祈祷勤行を行いたい旨を申し上げますと、奉行所はそれをお聞きになって、『湯の花の祈念にはどのようなご利益があるのか』とお尋ねになりました。そこで答えに困って、『特に変わったご利益は伝え聞いておりませんが、昔から執り行っていることです』と申し上げますと、ご許可が下されたとのことです。しばらくして山王(日枝神社)の神職が、これもまた湯の花の願書を奉りました。時のご奉行がこれをお聞きになってご利益の有無をお尋ねになった時に、両手を胸に当て、謹んでその利益が広大無辺であるとはっきりと申し上げましたところ、ご許可が下りず、空しく帰ったと言い伝えています。このように考えると仏の教えを疑わないことこそ尊いことです。真に生き仏といえるのは、生まれてから2、3歳までの子供のことでしょう。自分の心の真実をうつす時は鰯の頭からも光明を放つものです」など、物知り顔の論語知らずで、しばし憂さを晴らしました。
さて不思議といえば、この震災の後、ご本尊をはじめ、前立本尊や御印文を堀切道の〈ご本堂の北東に当たり、畑の中に御仮小屋を建てました〉傍らに3月25日から4月16日まで安置いたしました〈その絵図は残しませんが、その場所にその印を残させます。それによって後世にも伝わるでしょう〉その場所に、遠近の諸国からの参詣の旅人が引きも切らず集まりました。その道沿いに後に様々の店を仮設し、一稼ぎしたものも多かったとのことです。期待に沿った繁昌ぶりは、まったくありがたい仏のご利益です。
 
◯御宝物 類焼 大本願上人様
御開帳の間、霊宝を拝見いたしますので、すべて取り揃えてありました。ところが大地震が起こるや否や、即座に御院内が類焼しましたので、おそらく焼失したか、灰になったものでしょう。古くからの霊場のどれほどの宝物でありましょう。哀れにももったいないことです。
◯仁王門  炎上
◯仁王尊 高野山木喰上人の寄付したもので、その作は稀です。
◯木喰上人の書簡 
仁王尊を寄付されたとき、妻戸のうちの甚妙坊にこれを添えて送られました。この書簡は表装して宝として伝えられていました。これもみな大火のために灰になったそうです。
◯大黒・毘沙門両天
作者は分かりませんが優れた作で、しかも古いものです。これも一瞬で灰になりました。
◯閻魔王像
法然堂町の閻魔堂にあったもの。世間でこの像を祀り正月7日と16日に老
若男女が群れ集うことは、辺鄙な山里でも数多くあります。しかしこの像が秀作であることは、そのような他の像とは比べ物になりません。小野篁(たかむら)の作と言い伝えられています。これもまた残念なことに灰になりました。
◯法然上人の像
同所正信坊にあります。上人が自作してここに残したものです。そのためこの町を法然堂町といいます。
◯笹の葉の名号
この掛け軸は中衆の重鎮堂照坊にあります。親鸞上人がこの坊に逗留して百日日参の満願に、笹の葉の形に六字の名号をお書きになってここに残された宝物です。
◯釈迦如来
衆徒の内、釈迦堂の本尊で、世尊院にあります。越後の国の浜辺、今町(上越市直江津)の西にあたるところの海中から出現された仏様で、しかも紫金の仏です。この因縁によって今もこの浜を善光寺浜といい、また善光寺村から善光寺へ塩を献上することは、今も絶えることなく続いているそうです。
◯大日如来
大日堂、衆徒常智院の本尊
◯聖徳太子、四天王
太子堂、衆徒福生院の本尊
◯曼荼羅
曼荼羅堂、衆徒尊勝院の宝物で、日本に2幅しかないそうです。当麻の曼荼羅は蓮の糸で中将姫が織った物ですが、ここの曼荼羅は非典子(兆殿司?)の絵によって作ったものだそうです。
◯薬師如来
薬師堂、衆徒最勝院の本尊、播磨須磨の浦の海中から出現したもので、石像ではありますが世に類いまれな秀作です。日本の作ではないのではないかと言われています。
これらは、今思い出すままに挙げたもので、その事情の詳しいことは分かりませんが、ここに書き加えてその焼失を惜しむものです。しかしその外にも、善光寺一山の光明院・世尊院・宝勝院・円乗院・常徳院・薬王院・最勝院・徳寿院・本覚院・良性院・威徳院・常住院・蓮花院・尊勝院・教授院・吉祥院・福生院・宝林院・常智院・長養院・玉照院、以上21院、堂照坊・堂明坊・兄部坊・白蓮坊・正智坊・淵之坊・常円坊・行蓮坊・向仏坊・徳行坊・鏡善坊・正信坊・野村坊・浄願坊・随行坊、以上15坊、玄証坊・善行坊・寿量坊・林泉坊・称名坊・甚明坊・正定坊・蓮池坊、常行坊・遍照坊、以上10坊、衆徒・中衆・妻戸が一時に焼失したのですから、名だたる霊仏・宝物の類が灰になることは数多くあったと思われます。哀れにも嘆かわしいことです。さらに調べて4、5巻に詳しく載せるつもりです。
 
(2-52図について)
○左に挙げた図は、去る天保14年(1843)辛卯(正しくは癸卯)正月の9日から2月の初め頃まで、西南西から南東の方に向かって旗雲のようなものが現れましたが、日の光のせいでその形ははっきりせず、これを見る人も稀でした。2月の2日は日暮れ頃から現われたので、みなこれを見て不思議に思いました。日ごとに現われる時間が少しずつ遅くなり、地上から見ると幅およそ6尺、長さは際限なく、南東に向かって数十里伸びて、どこまで続いているかはっきりしません。次第に薄くなって3月13夜頃になって自然に見えなくなりました。その様子はこの図の通りです。
 
(2-53図の解説)
日の出から太陽は紅のようでいつもより光も薄く、このような災害の折なので、みな驚き怖れてこれを拝みました。翌日にはまたいつもの通りになりました。
 
○さて、ひとつ不思議なことは、この信濃国がいわゆる山国であることは、遠くの国の人でも知らない人はありません。ですから大地震の災害はあるとしても、山国なのに洪水の大災害があるとは、訳が分からず疑うのももっともでしょう。今私が思いますのに、犀川流域の村々の村民でも、何年も経って子や孫の代になったなら、「昔大地震があってこの大河が氾濫して、その時にはこの辺りまで大水で流される被害が出たそうだ、私の祖父母が長生きだったので、その災害のことが分かるのだ」などと言い伝えるばかりで、さらに年を重ねたら、ただの昔の人の言い習わしだろう、たとえどんな大災害でも、幾数十丈の水嵩になってこの高さの場所まで洪水の被害が出ることがあるだろうか、疑わしいことだ、などと怪しんで言い伝えることでしょう。今丁未3月24日の夜亥の刻(10時頃)、陰陽昇降の変化によって一時にこの大河をせき止め一滴の水も流れなくなりました。4月13日の正午を過ぎ、すでに20日が経っても、一瞬も水の溜まるのは止みません。どれほどの水をここに留めていることか、その莫大な水量は後世にいたってもなお恐れられることでしょう。すでに20日間溜まり続けた水は湖のようで見る人を驚かせます。山中にもかかわらずその広さは比べるものもありません。水没した村々は夥しい数に上りますので、ここでは省略しますが、信濃国絵図明細村名帳がありますので、これを見てその広さを察してください。
この洪水の大災害を受けて、家や蔵は満々と湛えた水に浮かび、水屑と沈み、耕地は押し流され、山崩れの土砂に埋もれました。たとえば念仏寺村臥雲院(長野市中条日下野)などは、土砂崩れによって寺が地中に埋まったまま火事に遭い、何日か後に掘り返してみると、そのまま炭や灰になっていました。また下祖山村白心庵(長野市戸隠祖山)などは、岩石が崩れて寺は地中に埋まりましたが、住僧はもとより寺全体がどこに埋もれたか分からないといいます。吉村(長野市吉)では裏山が崩れてどこからか山のような泥水が吹き出し、一村の民家すべてが地中に埋もれて、20日30日と経って少しずつ人や牛馬を掘り出したなど、さらにその類の話は多くありますが、ここでは省略します。〈その詳細を調べてここに書き加えようと考えていましたが、あまりに煩雑で思うようにならずにいたところ、幸い地震の絵図が出版されました。これを手に入れて見ましたところ、とても、わたしのような無学なものができる仕事ではありません。折から眼病をひどく患っていましたので、この絵図が出たのを幸いに、水害の図は省略いたします。私は愚かで文も下手ですが、この絵図ばかりが後世に伝わったなら、その悲惨さは薄まってしまうかもしれません。そこで絵図とともにこの書があれば、後代まで伝わるのではないかと考えます。ですからこの書では文は短く子供でも読みやすくしてあります。細かいことまで詳しく書き加えますと文章が長くなり読みにくいので、子細は次に譲ります。〉
なお後編4、5巻に書いたものをご覧ください。
 
◯さて川中島をはじめとして、川辺に連なる村々の住人は最寄りの山に小屋掛けして仮住まいとし、今にも水が押し寄せて我が家を押し流すかと、望まぬことながら待ち続けて日を送り、ひどい災難に心身を砕き、悲しみ苦しむ日々が20日になろうとするこの日、山鳴りが響き渡り、天地が覆るかと思うところに、ふいにせき止め箇所が決壊して、洪水が押し寄せると聞き伝える間もなく、申の刻(午後4時)頃に小市に押し寄せました。そのありさまは山にまた山を重ねたようで、ただ何とも分からない真っ黒な水煙のようなものがあたりに乱れて散り広がり朧夜のようになりました。その激しさをこわごわ見ていますと、丹波島まで〈小市から1里川下〉山のような大波が3つ押し寄せて行ったといいます。間もなく北は小市村を一瞬で破壊してこの村の民家・耕地をことごとく押し流し、久保寺村・九反村・荒木村などの耕地は湖のようになりました。その水勢は荒木村と吹上の間を瀬筋に沿って流れて行き、市村・川合新田村の田畑を押し荒らし、犀川も裾花川もみな合流して一面の満水となりました。南は小松原村・四ツ屋村辺りの堤を押し破り、この2つの村の流失・損害は夥しいものでした。川中島一帯の多くの村々は残らず水中に浮かんでいるような状態で、瞬く間に一面に湛えた水嵩は湖のごとく、また大海のごとくです。そのありさまを見る人々はみな、ただ茫然として驚き怖れることもせず、夢かうつつかと我が身をつねり、本当にまだ命があるのかと怪しまぬものはなかったといいます。
家や蔵の流れる様子は嵐に散る木の葉が流れるようで、その数は幾千万ともわかりません。「まかなくに何を種とて浮き草の浪のうねうね生い茂る」という謡曲「草子洗小町」の一節ではないけれど、ありとあらゆる家財の品々があるいは浮かびあるいは沈み、千鳥が波間を通うようで、さらにまた目も当てられないほど恐ろしいことは、高瀬のような荒波の黒く濁った水の面を、親を抱き子を抱えて、流れ行く屋根にすがりつき、呼べど叫べど助けることもできないことです。その中でも、家が流れながら火事になり、屋根の上にいる人があわてて気がふれたように嘆き悲しみ、駆け回りながら泣き叫んでも、見渡せば回りは満々たる大海のようで、川風も激しく火を防ぐこともできず、そのままなくなった人々は一体どのくらいいたのか数は分かりませんが、沖の波間の漁り火のように燃える家々がそこかしこに見えたのは、ほかに比べるものもありません。これこそ地水火の3つの災いが一時に襲って来た災難で、どのような前世の業であっても避けられるものではありません、観念することです。後世この書を見る人は、黄金も珠玉もただ一代の財宝であって、栄耀栄華はまったく仏道の元にはなりません、来世のためになることを深く心に留めて心がけ行うことこそ大事なのです。
 
(2-63図・2-64図の説明)
5月16日暁六ツ時(午前6時頃)にお供揃い、正五ツ時(午前8時)堀切道の御仮小屋から万善堂(大勧進)の御仮堂に引き移られました。多くの人々が集まってこれを拝みました。
 
(2-67図・2-71図の説明)
弘化4年丁未10月18日四ツ時(10時頃)御輿が出発し、万善堂の御仮屋から御本尊がお帰りになる時の参詣者群集の図。
同日の日の出は素晴らしく、快晴でしたが、四ツ時頃から少々曇りました。(日記から抜き出しました)
 
当日あちこちから奉納の品は夥しい数に上り、また参詣の人々が群れをなして集まる様子は、百歳を超える老人もこれほどの賑わいは今まで見たことも聞いたこともないというほどです。大災害の後にもかかわらずこの盛況ぶりは、まったく壮大な霊場ゆえのことで、仰ぎ尊ぶべきことです。
御行列の順序を遠くから拝見しましたところ、次の通りです。
(略)
 
10月18日正午に御遷座が完了し、御法事・御開帳が行われました。押し合いへし合い参詣する人々は古今未曽有の大群集でした。
 
(2-74図の解説)
犀川の平常の水位と村山村(長野市篠ノ井山布施)の水位の高低を見比べた図
この図をここに載せるのは、前の夏にこの村の荒神堂(三宝寺)にお参りをしたとき、堂の裏の少し高くなったところに2丈余りの杉の木立があって、この枝先にごみがたくさんひっかかっていたので、不思議に思って聞いたところ、大水の時の水のせいでこのようになったと言います。疑うべくもないありさまに驚き舌を巻いて、□印を付けておきました。この高さまで水位が達したということを後世に伝えたいと思い、ここに記しました。
折しも夏のことなので
◯早乙女もみな休らふや子安堂
◯心して束ねよ雨の早苗とり
◯庵冷し苗代時の蓑を着て
  右      井蛙
 
◯大地震が起こってから今の洪水の大被害に至るまでの経過を、ここまで順に記録してきました。そのため細かいことは省略し、また自分のことばかりを記したかのようですが、信濃国全体にわたる大災害なので、膨大でありありとはその詳細を書くことができません。そこで後巻の内容を次に記します。
 
◯後編3巻には
地水火の3つの災害を受けた町や村里、山里の村名、死者や死んだ牛馬の数、耕地の損害等すべての災害、また諸藩の御領分で御取り調べがあったことについて詳しく記します。
諸藩のご領主様のありがたいご救済措置について記します。
 
◯後編4巻雑記の部
大震災から洪水に至るまでに、さらに伝え聞いた災害や珍事を付け加えて紙数を増やしています。
 
◯後編5巻には
不肖私は当時役についておりましたので、そのお役目に関係する書類・訴状・お届けなどについて、また立派な行いなどについて、子孫のために書き残しています。
 
◯後編6巻には
善光寺山内の故事、町の旧例、御堂御普請の詳細、近隣の村々の椿事を集めて書いています。
 
○後編7巻には
信濃国の絵図によって、町や村、山里の村名、分郷、石高、家の軒数、人口等を記します。このような膨大な資料は私のような愚かなものがまとめきれるものではありませんが、少しその類のものを手に入れてありますので、集めて完成させるべく、子孫に譲りたいと思います。
 
◯さらに残っているのは、地震関係の書類を入れた袋
◯丁未(弘化4年)から戊申(同5年)に至る記録帳
◯地震大絵・洪水絵図
これらの品々は子孫の代になって散逸することのないようにしてください。