長野郷土史研究会 小林一郎

善光寺地震の被災図

 弘化4年(1847)3月24日に起こった善光寺地震の被害は広範囲に及び、被害も家屋の倒壊ばかりでなく、山崩れ、火災、水害などさまざまでした。その全貌を伝えるため、被災状況を地図上に示した刷り物が流布しました。その最も早い例は稲荷山(千曲市稲荷山)の小林五藤の手によるもので、6月下旬に出版されました。以後何種類も同様の図が出版されましたが、その中で最も詳細なのが、原昌言(はらまさこと)が出版した「弘化丁未信濃国大地震之図」です。これは「弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図」と「弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図」の2図から成っています。

原昌言による出版

 この図を出版した原昌言(1820―1886)は、上塩尻村(上田市上塩尻)の人で、後に庄屋を務めました。上塩尻は蚕種の製造販売で知られた村で、昌言もそれに携わっていました。そうした中、昌言は広く学問を学び、ことに国学に通じていました。それは「弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図」に『三代実録』『扶桑略記』『日本書紀』等を引用していることからも分かります。昌言は3月24日の地震後、水内郡新町村(長野市信州新町)の親戚を見舞い、大震災の被害の実態を目の当たりしました。また4月13日に犀川のせき止め場が決壊して善光寺平が大洪水になった折も、高井郡や埴科郡の養蚕家を訪ねるために出張中で、妻女山(長野市松代町)から一部始終を見ていました。昌言はそうした体験をもとに被害の状況をまとめ、8月に幕府の学問所の許可を得、9月には上田藩の許可も得て、この2図を出版しました。

上段の文章

 冒頭で『三代実録』と『扶桑略記』の仁和3年(887)の大地震の記事を考察し、善光寺地震との類似性を指摘しています。現在では、仁和地震は南海トラフ沿いの大地震であって善光寺地震の前例ではないとする説が一般的ですが、大地震の周期性に言及したことは、原昌言の見識の高さを示しています。

 続いて「水内」という地名の語源について述べ、歌枕でもある水内の曲橋(久米路橋)が流失したことを嘆いています。

色分けされた絵図

 弘化4年(1847)3月24日に発生した善光寺地震は、家屋の倒壊や火災ばかりでなく、山崩れが大きな被害をもたらしました。中でも虚空蔵山岩倉山)の崩壊は犀川をせき止めて天然ダムを造り、4月13日にはそれが決壊して大洪水を引き起こしました。この図は、4月13日に大洪水が発生する前までの被害状況を図示しています。山や川を描くのは当然ですが、凡例にあるように、駅市(宿場)、本郷(村)、支属(枝村)、温泉、新田、城、陣屋、古城、関、神社仏刹(寺院)、渡などが詳細に描かれています。その中に「崩山」「焼失」「洪水」「流失」「潰家」などが色分けして記入されています。

 焼失は赤く塗られています。善光寺町(長野市)、飯山飯山市)、稲荷山(千曲市稲荷山)、新町(長野市信州新町)などが全焼していることが分かります。善光寺は本堂・山門・仁王門(いずれも文字はない)が一列に並んでいますが、町と接した仁王門のみが赤く塗られていて、焼失したことを示しています。同様に「大本クハン」「四十六坊」「シヤカ堂」が赤く塗られていて、大本願(大勧進は無事)や、釈迦堂を含む46の宿坊群が焼失したことを表示しています。

 一方、松代(長野市松代町)はやや色が不鮮明ですが、「荒神丁(荒神町)」「サカナ丁(肴町)」「カヂ丁(鍛冶町)」「中丁(中町)」「伊勢丁(伊勢町)」「本丁(本町)」「五アン(御安)」「アラ丁(荒町)」は黄色に塗られていて、「潰家」が多いことを示しています。同じ松代城下でも、「ハクラウ丁(馬喰町)」「カミヤ丁(紙屋町)」「コンヤ丁(紺屋町)」が黄色で塗られていないのは、潰家が少なかったからです。須坂(須坂市)や松本(松本市)の城下も、町によっては少し黄色が塗られています。これは松代城下ほどの被害ではありませんが、一部に潰家があったことを示しています。これらに対して、上田の城下にはまったく黄色がありません。上田ではほとんど潰家がなかったのです。村々も同様で、善光寺周辺の村々はほとんど黄色が塗られていて潰家が多いことを示していますが、そこを離れるほど村の黄色の量が少なくなり、上田周辺の村々にはほとんど黄色がありません。

 山崩れで埋没した村や、水没した村も、詳細に知ることができます。

観光案内図として

 この図に描かれた北信濃は、江戸時代から、善光寺戸隠・姨捨・川中島古戦場などの名所がある観光地でした。この図でも善光寺戸隠は大きく記載されていますし、「姨捨山」の「長ラク寺(長楽寺)」(千曲市八幡)には「月見堂」「オハ石(姨石)」「メイシ(姪石)」などが記されています。その前に描かれた水田は、田毎の月で名高い棚田でしょう。

 川中島古戦場は、旅人に案内図が販売されていました。この図もそれを参照しているようです。「川中島古戦場」として知られているのは「八幡原」ですが、その周辺には、「典厩寺」に「武田信繁ハカ」があります。やや離れて「諸角ブンゴ守ハカ(諸角豊後守墓)」があります。千曲川の対岸には「山本勘介ハカ」があります。「武田信玄茶臼山陣趾」や「西条山」の「上杉謙信陣跡」も記されています。千曲川犀川の合流点付近には「甲越和睦ノ地」という場所もあります。千曲川の「猫ガ瀬」「十二ガセ」「犬ガセ」「ヒロセノワタリ」「古ノ馬場ノ瀬」といった地名も、川中島古戦場の案内図に記入されている地名で、この図がそうした案内図を参照していることが分かります。

 また「高井野」(上高井郡高山村)に「元和中フクシマ氏コヽニ配流」と福島正則が流されたことを記し、「岩松寺」(上高井郡小布施町)には「福シマ正則ハカアリ」と、その墓についても記しています。

 「栃ハラ」(長野市戸隠栃原)では、「天延中信乃守コレモチ、戸ガクシ山ノ鬼ヲキル」と、平維茂が鬼女紅葉を退治した伝説を記し、「鬼女の窟」「鬼ツカ」などを記載しています。

図中の文

 図中には漢字とカタカナによる書き込みがあります。その主なものを抜き出し、説明を加えます。

善光寺)三月廿六日ヨリ五月十六日マテ、如来コヽニミカリヤツクル。五月十六日、当分万善堂ニ安置。十月十八日、本堂入仏。

 善光寺地震が起きた3月24日、善光寺御開帳の最中でした。本尊や前立本尊はその夜のうちに北東の畑中へ避難し、そこに御仮屋(みかりや)を建てて3月26日から5月16日まで御開帳が続けられました。5月16日からは大勧進万善堂に安置し、10月18日にようやく本堂に戻りました。

(平出)四月九日、加州大聖寺侯、犀川湛水ニヨリ、平出、カジロ、川東、フクシマヨリ、矢代御泊。

 加賀の大聖寺藩の殿様は、参勤交代で江戸に出る途中、犀川決壊による大洪水を恐れて、平出(飯綱町平出)から神代(長野市豊野町)、福島(須坂市福島)を通って屋代で宿泊しました。

(小市)コノ山、地シンニテ出ル。三月末ヨリコノ土石ヲ日々五六千人ヲ以テ川甫ヘヒキ、十余丁ノ長堤ヲキツク。

 小市(長野市安茂里)では地震で真神山が崩落し、犀川へ押し出しました。松代藩は虚空蔵山の崩落によってせき止められた犀川が決壊するのに備え、小市辺に堤防を築きました。毎日5~6千人が出て、崩れた真神山の土砂を運んで、10町余(1町は約109メートル)の長堤を築いたというのです。その「普請ヤク所」も描かれています。

(大俣)大マタ川中ニ、メウト石ト云大石アリ。地シンノトキ、川向カイサ分ニトブト云。(文字不鮮明。「弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図」を参照)

 大俣(中野市大俣)の千曲川に女夫(めおと)石という大石がありましたが、地震によって対岸の替佐(中野市豊津)側に飛んだというのです。替佐側に2つの大石が描かれていて、「女夫石、大十五ヒロ」と記入されています。「尋(ひろ)」は長さの単位で、両手を広げた長さです。

(吉田 天正院)授戒中地シン、人多死ス。

 吉田(長野市吉田)の天周院(天正院は誤り)では、授戒会(じかいえ)が行われている時に地震が起こり、本堂が倒壊したので、5~60人が犠牲になったと言われています。

(西条山)川中シマ百姓水災ヲ恐レ、サイジヨウ山辺ニ多ク仮ヤヲナス。

 川中島の百姓たちは、上流でせき止められた犀川が決壊して大洪水になることを恐れて、妻女山(長野市松代町)周辺の高台に仮屋を造って避難していたというのです。