むし倉にき 利
1
(改頁)
2
○四月十四日辰の比御城に登り、御機嫌を伺奉り、
己(ママ)過る比引とりぬ、水の様子いかならんかと斎藤友衛
目付を具して城山に登りぬ、しかるに此比ハ、はや水
遠く引行て、柴村より下にハ多くみゆれと、夫より上
の方ハ常に少しく増せしのみ也、堂嶋の往来窪き
所ニハ水所々みへたり、昨夜逆水盛んなりし比、山寺
源大夫と
佐久間修理と所々乗廻し、
新馬喰町外れの
喰違辺にてハ水、鐙の上に届きたり、中にも修理ハ井
きれへ乗落し、大に迷惑したりと申せし程なりしか、
今ハ其辺も僅の水と思はるゝ計也、夫より下山して、又
未の刻に登城して石州子と代りぬ、
(改頁)
3
○村々へ流れ寄米穀衣類雑具夥しき事也とそ、
互に是を争ひとらんとして川辺へ出たる跡をね
らいて盗賊家々へ押入、乱妨する事甚しと聞へ
ける故、横田甚五左衛門取次・袮津刑左衛門・小野喜平太・矢野
茂・斎藤友衛目付等を手分してこしぬ、彼狼藉
を制し或こらし或諭し、且荒たる様子も見とゝけ
よと云含こしたり、一両日或両三日三四日も懸りて
戻りたるも有しか、何れも沙汰の如き乱妨にハあら
さりしと申侍りき、[賄ハ村々焚出し所へ懸合用ひよと云こしぬ、]
○寺内多宮御預所郡奉行兼御預所村々巡村せし時書
出せし往来村々水付の様子のみ摘要す、
(改頁)
大室村軒下又ハ鴨居下迄水付、居家流候も多分、
川田宿
千曲川除土堤
押切、村上より水押入鴨居下迄、
須坂御領綿内村床上四五尺水入、二尺前後ニ泥入、
流
失之家夥敷流寄、往来難相成、
同御領吉野村より御夲領御預所与三領組合之、或八間
馬踏弐間高サ平均七八尺之土堤所々ニ而
押切レ、御三
領水入ニ相成候へとも、永荒之場所ハ多分須坂御領
多相見候、
福嶋村五六尺より壱丈位住居水入、
流家も有之、
流れ来り候、又ハ大木等往来へ押倒し有之、右
流家 の屋根を致往来候場所間々有之、
(改頁)
4
御預所中嶋村水入五六尺、
流家八軒、流死六
人、市村之船十一間余一艘流れ寄居、
同村山村住居囲土堤
押切、村上より水一円ニ
押来り、
流失之家多分ニ而、川付家々何れも深
水入、泥砂押込、当分凌方大さし支、名主宅泥之
中の椽側へ藁を敷、夫へ致按内、
同相之嶋村水入泥入、村山村同様、此村東西ニ大木
建置候故や
流家無之、
同大島村・飯田村両村水入無之、耕地水入押堀有之、
同福原新田・
小布施村・中条村・
桜沢村別条無之、中条・桜沢両村之沖、
流家其外ニ雑物夥敷なかれ寄、
(改頁)
田方差支ニ付、焼払候とて積上火を付候へ共、水入
ニ相成候品物故煙りのみ強焼兼申候、
大熊村軒下迄水付ニ成、
小沼へ之道泥途ニ御坐候、
小沼村家屋根三分一位泥付候跡有之、床上二三尺
泥入ニ相成、ねこ畳等其外家財、泥の中より堀出し
洗居候次第、御夲領之方水潰
流失家も有之、入交
之場所故
見分申立改候処、絶言語候次第、右村方ハ
満水ニ馴居候ニ付、梁の上に棚拵諸道具上置候処、右
迄水付、老幼ハ立退候へとも、壮年之者共ハ村ニ居、
満水ニ付右棚ニ居候処、次第ニ水深く成、棚迄付候
ニ付、屋根を破り迯出、何れ之屋根へも這出候穴
(改頁)
5
多く御坐候、
津野村鴨居下三四尺程之水入、床上へ泥二尺も
押込、
流失家水潰も有之、押堀之場所ハ其儘水
溜りニ相成居候、
赤沼新田ハ津野村同様通路不相成候場も有之候、
中尾村ハ村内へハ水入不申候へ共、地震之節皆潰、
小屋懸も出来兼候難渋者共有之、夫々御手充申
渡候、
飯山御領石村・三才等ハ耕地水入、地震潰多く
相見へ、山抜水押出候跡も有之候、
稲積村・徳間村・吉田村罷通候処、吉田村之儀は
(改頁)
地震潰夥敷、今以片付出来兼申候、
三輪村・相之木村ハ地震之上
善光寺出火ニて類
焼仕、少々つゝハ
小屋懸出来申候、
権堂村土蔵迄も不残
焼失、掃払し、野中之様ニ
相成申候、
栗田村ハ地震水災共無御坐候、[以下畧之、]
○御家中破損水道役改[塀倒等ハ改なし、]
殿町
岩崎勝介居宅東之方半分大破倒懸り、土蔵一棟
潰懸り
竹村金吾物置一棟潰
(改頁)
6
鎌原石見土蔵二棟大破、一棟大損
出浦右近一棟大破
赤沢助之進玄関柱折、下屋潰、土蔵一棟潰、同一棟
大破、弐間梁十間長屋一棟潰
塩野熊之助居宅潰懸り、玄関下屋潰
林大左衛門土蔵一棟潰一懸り
矢沢猪之助門口大損、居宅広間向大斜、柱五本折、
玄関倒懸り、土蔵一棟潰、同二棟大破、同一潰大損
矢沢修理土蔵一棟大損
大熊大太郎玄関向大破、土蔵一棟大破、同二棟大損、
物置一棟潰懸り
(改頁)
袮津三十郎門口大破、居宅所々大破、土蔵一棟大損
青木五郎兵衛門口西三間程潰、土蔵一棟大破、同棟大損
袮津刑左衛門土蔵一棟大破
小幡権之助玄関前下屋潰、弐間梁六間長屋潰
袮津左馬允居宅大斜
鈴木為吉居宅大破、長屋一棟同断
窪田富之助土蔵一棟大損
小山田壱岐土蔵三棟大破
袮津神平居宅大破、土蔵一棟倒懸り
小幡長右衛門土蔵二棟大破、附土蔵一ヶ所大破
池田大内蔵土蔵二棟大破
(改頁)
7
恩田頼母門口大破倒懸り、居宅場所ニ寄大破、土蔵
二棟潰懸り、門二棟大破、物置二棟大破、長屋一棟
倒懸り、厩一棟大損、飼置場一棟潰
玉川左門玄関倒懸り、長屋東之方三間程潰、北倒懸り、
土蔵一棟大破
十河半蔵居宅甚大破、早速住居難相成
前嶋兵庫居宅東之方大破、弐間半六間長屋一棟潰
樋口一角居宅大損、土蔵一棟大破、物置一棟潰
寺内友右衛門土蔵一棟大破、附土蔵一ヶ所大破
真田志广居宅斜、場所ニ寄大損、土蔵一棟潰
鎌原伸佑土蔵一棟大損
(改頁)
恩田織部土蔵一棟大破
福田兵衛土蔵一棟潰、同一棟大損
藤田典膳居宅甚斜、場所ニ寄潰候所も有之、土蔵
一棟潰、同壱棟大破
望月主水玄関向大破、土蔵二棟大破、同三棟大損
宮川長大夫居宅大破、土蔵一棟大破、長屋一棟大破
恩田新六門口大損、居宅場所ニ寄大損、土蔵二棟
大破、同一棟大損、物置一棟大損
海野蔵主広間柱折大破、玄関并右続潰、土蔵
二棟大破、弐間梁七間長屋一棟潰
岩崎五郎大輔門口大破、土蔵二棟大破
(改頁)
8
木町
河原舎人土蔵二棟大破、附土蔵一ヶ所大破
紺屋町
原平馬土蔵一棟大破
清須町
金井美濃輔門口倒、居宅場所寄大損、玄関下屋潰
片井京助居宅場所ニ寄大破
和田九郎左衛門居宅大破、西之方半分取崩
蟻川賢之助居宅大損、弐間梁四間長屋一棟潰
青木半左衛門居宅大破潰懸り
近藤藤八郎居宅場所ニ寄大破
(改頁)
藤田右仲居宅下屋潰追々損、危相見、取崩
坂口登居宅場所ニ寄大破
大野幾馬居宅東之方北之方下屋潰懸り、危相見
篠原良意居宅場所寄大損
宮沢左五右衛門居宅南之方潰懸り
小泉弥兵衛長屋一棟大破
関山治兵衛居宅一棟大損
新馬喰町 永野長十郎居宅斜大破
裏町
長谷川藤五郎土蔵一棟大損
(改頁)
9
田中九左衛門居宅倒懸り
竹山丁
鈴木内蔵允玄関大損
代官丁
青木権左衛門長屋西之方半分潰
大日方兵衛玄関前下屋潰
児玉茂兵衛土蔵一棟大斜損
渡辺十大夫門口屋根崩落
馬場丁末同心丁
相原恵左衛門物置一棟潰
駒村兵江門口倒
(改頁)
宮原荘左衛門居宅東之方大破取崩、物置一棟同断
富沢勇之進土蔵一棟大破、同一棟大損
馬場丁
堀田覚兵衛居宅場所ニ寄大破
成沢木工之進居宅西之方大破、危三間ニ五間程
取崩
小野喜平太居宅一統大斜、勝手之方大破、土蔵
一棟潰
鹿野茂手木弐間梁五間程長屋一棟潰懸り、取崩
富永治左衛門居宅一統大損、土蔵一棟大破
白川捨蔵物置一棟潰懸り
(改頁)
10
小泉友司門口倒
丸山馬之助土蔵一棟倒懸り
八田競土蔵一棟大破
片端町
山越嘉膳土蔵一棟壁落崩大損、弐間半四間長屋
一棟潰
森木一二三門口倒
中嶋渡浪門口倒
大谷津栄治土蔵一棟大破
岡嶋荘蔵居宅大破、右続南之方三間ニ四間下屋
潰、土蔵三棟大破、物置一棟潰、長屋一棟大損
(改頁)
一場茂右衛門長屋一棟大破
柴丁
金児丈助土蔵三棟大損
沢勇五郎長屋一棟潰懸り
南部木工之丞居宅大破
裏柴丁
白川瀬大夫物置一棟潰
大林寺地中
金児利兵衛物置一棟潰
御安囗
立田楽水玄関前下屋潰、土蔵一棟大損
(改頁)
11
大草仲岱土蔵一棟大破
中村周徹居宅東之方一ヶ所潰懸り
袋町 牧野大右衛門土蔵一棟屋根崩落
十人町
落合瀬左衛門土蔵一棟大破
東十人町
浅香長斎弐間ニ五間長屋一棟潰
田町 上原徳之助土蔵一棟潰
菅沼源之進土蔵一棟大損
(改頁)
河野弥一兵衛長屋一棟潰懸り
高田幾太土蔵一棟潰
矢野只美居宅勝手之方九尺ニ三間余之処潰
桜井忠作居宅大破、物置一棟潰
倉田伝蔵居宅大破
坂野
安左衛門居宅潰
樋口与兵衛居宅大破、二間梁四間長屋一棟潰
間庭一郎左衛門居宅大破、長屋一棟潰懸り、物置一棟潰
佐藤小左衛門居宅場所ニ寄大破
大嶋隼見門口倒、居宅場所ニ寄大破、土蔵一棟潰
矢嶋源左衛門居宅東之方半分潰、残大破、土蔵一棟潰、
(改頁)
12
物置三棟潰
浦野勇右衛門物置一棟潰
深尾立朴土蔵一棟潰
松山瑞白居宅潰
田中増次門口潰
高田力馬土蔵一棟潰
佐藤宗弐居宅潰
東条亀治居宅潰
松林左金吾長屋大破
三輪正之助居宅大破、二間三間長屋一棟潰、物置
一棟潰
(改頁)
山本権平土蔵一棟大破
宮入三之助門口潰、居宅潰、弐間半ニ六間長屋一棟潰、
物置一棟潰
久保新左衛門居宅大破
石倉嘉大夫居宅潰、物置一棟潰
石川新八三間ニ六間長屋一棟潰
倉沢四郎右衛門居宅大斜、柱六本折潰同様
金井藤三郎居宅半分余潰、北東之方三間ニ四間
之場所大破取崩、土蔵一棟斜大損、九尺ニ五間
長屋一棟潰
南沢甚之助居宅勝手之方潰、座敷向柱折、折切候
(改頁)
13
柱も有之、早速住居難相成、二間ニ四間長屋一棟潰、
物置一棟潰
北嶋要専居宅潰
佐藤三次門口潰、居宅潰、物置一棟潰
宮下藤右衛門居宅西之方二間三間之場并玄関前下
屋潰、長屋一棟潰懸り
藤井喜内居宅大破、土蔵一棟大破、門一棟潰
保科此面居宅北之方半分余潰、残場所大破
佐藤兵助門口倒
沢喜代太郎居宅斜大破
春原玄三居宅場所ニ寄大破
(改頁)
小川環居宅斜、場所ニ寄大破、土蔵一棟大破
小山田菅右衛門塗屋一棟大損
岡部治郎右衛門門口倒、居宅斜、柱折大破、弐間五間半長
屋一棟潰
高橋伝次土蔵一棟潰
小川邦人居宅西之方大破、危取崩
寺内多宮居宅続西之方西之方弐間三間半一棟潰
三輪徳左衛門居宅一統大損
下
田町 同心丁
増沢慶次門口潰
神戸忠兵衛門口潰、居宅潰
(改頁)
14
原田糺門口倒、居宅潰、四間半ニ四間半長屋一棟潰、物
置一棟潰
伊勢町
内川巳之作居宅西之方半分潰
八田辰三郎居宅東之方四間ニ七間余潰
八田嘉右衛門土蔵一棟倒懸り
寺町
八田喜兵衛門口潰
御目見以下之分略之、此者らへ予懸りにて三度まて
改直させしか、届と異同ありて殊の外面倒なる事
なり、
(改頁)
○岩くらの湛一浪に押破りて、上の方一時に水引
ける時、山中川辺村々の者両側に出、異口同音の閧
の声を発し、寺院・社家・修験等ハ各奉仕の仏
前社前より鉦大鞁(ママ)抔持出て、一同に打たゝきよろこひ
ける声、山谷に谺して冷しかりしとそ、
○村山の荒神堂ハさしもに高き場所にて、いかに
水押来るともよも気遣あらしと、別当も油断して
取片付もせさりしか、一浪打来るとみしか忽チ押流
して、堂も家屋も行かたしれす成しと云、
○丹波嶋の者、老幼婦女ハ山々へ引籠り、或親族の許
へ避遁れ、僅に若者三十人計残り
問屋前に集り、
(改頁)
15
船一艘引付置、スハと云は乗出なん構し置けるニ、俄
に大水押来りけるまゝ急き取乗しに、何とかしけん、
一人乗後れ、船端を踏外し、暫く流れけるか、丁度
己か家に流れ付、屋根へ登りて助かりける、暫有て
彼船を漕来り、助けおろし立退けるとそ、己か家に
て命を拾ひしも不思義なる事也、
○同村のうち、或家の中へ二抱計の大木を突通し、
夫か為に家流れす有しとそ、
○同村に常に水を好み、いとまある時ハ川辺に出て習
覚し、[名ハ忘れたり、]父母制すれ共きかす、今度村の老
幼山々に隠るゝ時、父母も山に登らんとて彼者を呼、
(改頁)
汝常に水をたしむ、かゝる時能留守せんやと、彼者恨、
父母とく遁れ給へと、日久しき前ニ父母を山手へこし、
己ひとり家を守り、若水来らは游きて柴村まて
行ん、かゝる時日比覚し水練をためさんにハしかす
と、自若として居けるか、俄に水来りけれは油断し
ぬと驚き、かゝる時ハ食なくして不叶、握り飯せんと、
飯櫃を取出けるか、はや家を浸し、忽チ床上高く
水入て叶ハされは、飯櫃を抱て屋根に登り、着たる
単物を肌て、飯を打明くる/\と包み頭にのせ、夫より
柴村さして游きけるか、難なく渡り着て、息もきら
ささりしとそ、或者難して、彼激水を横きり游き、
(改頁)
16
命助りしハ幸也、若家か大木か流れ来りなは忽チ
押倒されんと問しに、彼者答て、左ニ候ハす、柴まてハ
よほとの場所なれは、家まれ大木まれ流れ来よ、
しからは夫に登りて息継なんものをと待けれとも、
あやにく家も木も遠く流れて側を通らす候へき、
只くるしかりしハ咽喉乾きて絶難かりけれと、かの
泥水一口も呑事能す、是計ハ迷惑せしと申た
りしとそ、丹波島より柴村迄ハ一里余もあるへし、
然るを横切て何の苦もなく游き付しハ、比類なき
水練にて有し、元より師を求めて習覚しにもなく、
自得したる事なりとそ、
(改頁)
○川中嶋の内、やしき西の方に木を多く植込置たる
家の分ハ、其木へ流れ家或大木・財(ママ)木・芥など流れ
来りて懸りたる故、水左右へ刎流れて遁れたりとそ、
○御領分にハ流死少し、他領ハよほと有しときく、上
氷鉋辺なるか、家族を木のうらにくゝり付置けるに、
木根よりたをれ、忽押流しけるとそ、
○川中嶋何れの辺なるか、十五六才計の女の子、三つ計
の子を脊負、水来りけると聞て、高キ木に命限りとよぢ
登りけるか、木根より押倒して流れけれ共、水に浸り
なから顔を出し、そろ/\と上の枝に這上り取付居ける
に、夜戊(ママ)過る比
飯山に流れ付て、助けられて上りしと
(改頁)
17
いふ、
○千田村の治兵衛とか云者の門先の木へ、夜に入て後ニ
夜着一ッ流れ来りしを、加来[家来の事を在辺にて加来と云、]拾とりて、
かゝる者流れ来りしと告、治兵衛か母聞て、物干棹に懸
置てよ、夜明水引なは流せし者尋来らんと云付て、
夜明後みれは家の紋也、母加来を呼て、汝何事を
申せしや、宵に流れ来しと云しハ我家の夜着也、
夫を拾て流れ来しと申せしかと叱りける、加来申
ハ、いや/\左ニ候ハす、土蔵も其まゝにあり、おやとの品
に何にても流れ不申、まさしく流れ来り候といふ、
さてハさなりや、心元なき事なり、おろしみよと、おろ
(改頁)
させて表裏とくと改、是ハ此春小市へ嫁し遣りし
娘の夜着也、裏をたち違ひ縫合せ置しか証拠也、
しかれは、家内も家蔵も共に流れたりやと、夜着ニ
取付泣叫ひける、家内も共に打泣て、とく人遣りて
尋しに、小市にてハ、水押来ると聞て早く山手へ迯
登り、家の辺見至りけるに、逆浪押流るとみしうちに、
家も蔵も一流しに、行末もしらす成果しはいと難
面かりしか、家内ハ恙なし、気遣給ふなと申こしける
とそ、蔵に入置たる夜着なりと云、ふしきに親里へ
流れ寄たるも奇妙なる事なり、
○氷鉋村に古くより山伏の塚と唱ふものあり、
(改頁)
18
そを押流しけるか、中より乾ける化者出たり、是は
むかし入定したる者と云て、常念寺ニて取納め
置けるか、追々に其沙汰広こりて見物に行者多
し、後ニハ公事方より止て見物を免さゝりしとそ、
菅鉞太郎態々行て見、語りけるハ、半身ハ実干物
の様なれと半身ハ腐りたる如くみゆる、眼も片々ハくり
抜たる如く、合掌したる躰なれと、棺ニ納めて手を合
させたる儘にかたまりたるものならんと申せし、按ニ、
越後の弘智法印の類か、木の伊といふものなるへし、
【(朱書)「是は上氷
鉋村にて
一向宗
唯念寺
と云寺
なりと云、
見物を止
めしも
地頭よりの
事とみへ
たり、」】
○村々へ流れ寄たる品々、何によらす公事方にて改
させて、名主へ預り、村内へ札たてゝ、八ヶ月の内ニ尋
(改頁)
来る者あらは渡せよと掟したり、
○四ッ谷村にて地震の時、産神の社潰れける、下ニうご
めく声ありとて、村の者とも集りて屋根をうかち
見けれは、七ッ八ッ計の児出たり、父母ハととへは、中に
寐て居ぬと答ふ、さてハと尚うかち崩して見しに、
夫婦と覚しきと乳呑子一人押倒されて死しゐぬ、
夫ハ坊主にて有し、側に袋に米入たるもあり、さてハ順礼
して口を粘(ママ)し歩行ク物ならんと、彼子に在所を聞は、
片言にして聢与分らねと、松本の在はし場と云
所まて行は知己もありと答し故、地震止なは
連行んと、名主元にて世話し置けるうちに、疱瘡を
(改頁)
19
憂けるか、しかも軽く遊ひ居て済ける、其うちに水
出けるに、此時も人々の世話にて事なく遁れけるか、
村ハ僅に四軒計になりて流れ、田畑も残りなく押
流しける故、皆十方にくれ、彼小児の世話に困り、
詮方なく公方事に訴けるにより、政府に乞て
岩
野村の幸五郎を付て松夲へ遣しけるか、渠かそこ
爰と申ける方へ伴ひ行けれとも、誰有て親族と
いう者もなく、浅間の温泉辺にて尋しニ、
佐久郡
より来りし者にて宿なし也と申せしかは、詮方なく
伴ひ戻り、幸五郎暫く預りをれり、[六月ニなりて梅翁院貰ひ
て育立、同心坊になりとなさんと乞しかは、
公事方に訴、政府ニ告て梅翁院へ遣りぬ、]
(改頁)
○須坂侯堀長門守御届 両度
私領分信濃国高井郡之内、一昨廿四日亥刻比
地震強、陣屋并家来居宅長屋向破損所
数ヶ所、村々百姓家潰、其外田畑地割数百
ヶ所より砂泥吹出し、耕地へ不残押入、今以折々
相震仕候、於領分人馬怪我等無御坐候、尤
善光寺 参詣又ハ他稼等罷越候者共之内死失人も
有之哉ニ相聞候得共、未取調不行届、委細之儀ハ
猶追々可申上候、先此段御届申上候、以上、
三月廿六日
先達而先御届申上候私領分信濃国高井
(改頁)
20
郡之内、去月廿四日夜大地震御座候処、其節
近領更級郡山平林村之内
岩倉山辺山抜
崩候由、
犀川へ押埋堰留候水、追々数十丈湛
居、何方へ可押出哉与心配罷在候内、昨十三日夕
七時比俄ニ押破候哉、右山之方鳴動仕候様子
ニ而、無程一時ニ水押出、防方も届兼候旨出役家
来之者より追々及注進候処、間も無之
犀川・
千曲川 落合辺之領分綿内村与申処ハ勿論、右川附
近辺之村々并田畑迄一円ニ水押冠り申候、兼而
村方之者共ハ不申及、猶又家来共助成人足等
も多人数差出、精々水防用意申付候得共、夜
(改頁)
中別而水勢強防兼、
流家并溺死等も可有
之、其上田畑泥冠且亡所損地等も多分出
来可申哉与心配仕候、尤今朝ニ至り追々減水
之趣ニも御坐候得共、此上之処如何有之哉難計奉
存候、未水中之儀御座候間、委細之儀者追々
取調可申上候へ共、先此段御届申上候、以上、
四月十四日 堀長門守
此後の御届ハいまたきかす、寺内多宮か御領所の方より
問合させし時申来りたるとて
書付こしぬ。
須坂ニ而地震并
流失潰家死失人
(改頁)
21
一
流家二十九軒
一
流失弐百六十六軒 但土蔵穀蔵其外共郷蔵三ッ
一
潰家八十五軒 但地震潰水潰共
一 半潰并大損二百五十二軒
一 圧死人十一人
一 溺死人六人
一 怪我人数不知、
一 斃馬一疋
以上
○須坂侯いまだ御壮年十六七のよし、十六七日の比川辺
村々御巡見あり、猩々緋の御馬具見事にて有しと、
(改頁)
宮嶋守人川辺
見分の時見懸たりしと語れり、又十三日
より三日計のうち焚出しを被下たり、私領他領の差
別なく行程の者にハ被下しと云、
○十九日未明ニ、大鋒寺御木像寺へ御帰坐也、御番頭一
組と御目付も出たり、予五ッ過より御代参をつとめし
途中、地震の様子心付見しに、荒神町より寺尾の
横町まてハひしと潰あり、東寺尾の町ハいかニも震
弱かりしとみへて斜たる家もみへす、向張の木二夲
有たるのみ也、愛宕なとも石階其外別条なし、穢多町
に至りて孫六か家よほと損したるとみへ、所々修覆
し居たり、松原切レ口よりむかふ水畑をよほと押
(改頁)
22
たる様なれと、麦作ハ更に倒れす、金井山の少し脇に
九尺二間計の屋根と材木ハ所々ニ懸りて有し、柴
村へハ水付ず、御代参すみて御廟所
見分せしか、
更ニ別条なし、[夜燈ハ倒れたりしとそ、早建置て疵も付す、]惣卵塔を見
しに、倒れし墓更になし、地震余程弱かりしと
思ハるゝ也、金井山ニハ
小屋沢山みへたり、農人ニ問せ
しに、真嶋・川合辺の家を失又家ハありて泥深く
入ていまた片付兼たる者、昼ハ足弱を山に残し留守を
守らせ、健の者ハ行て土を片付抔し、夜ハ
小屋に戻
り候、
満水の比ハ三千人も居候と存候か、いまハ夜ニ入
候ヘても二百人余も居る計ニ候と答たりし、
(改頁)
○御参府御用捨御願
私儀参勤時節之儀奉窺候処、当六月中参府
可仕旨被 仰出、難有仕合奉存候、然処追々御届申
上候通、去月廿四日夜未曽有之大地震ニ而、城門始
家中城下町共破損所并
潰家等数多有之、別而
領分村々之儀は
潰家死失人等夥数、其上田畑
道路地面震裂、土砂泥水等吹出、殊ニ山中筋者
山抜崩覆等ニ而一村人畜共地中へ押埋候村々
も不少、就中更級郡山平林村之内山抜崩
犀川 押埋、水流堰留数日相湛、水嵩二十丈余ニ及ひ
(改頁)
23
候間、川辺村々水中ニ相成申候、尤岩石ニ而数十丁
之間堰留候儀ニ付、水勢ニも難
押切様子ニ相聞候処、
去十三日夕存外一時ニ押破、巌石一同数十丈之
水押出、流末川中島一円ニ致充満、人家ハ尚更
田畑共押流或河原ニ相成、其外近村村々并下続
川除村方
流失、又は泥水押入候も夥敷、且又数
十日水中ニ相成居候山中村々之儀ハ、水ハ引候得共、居
家田畑共不残押流、其上川辺通欠崩候場所
数丁有之、重々之災害ニ而、親族を失居家家財
耕作諸道具、剰田畑迄も致亡失、悲歎途方
ニ暮罷在候領民共幾千万共難申、差向夫食ニ
(改頁)
差支、住居ニ迷、農業之心得等ハ毛頭無之為体
ニ付、所々致手分役人共差出、炊出又ハ
小屋懸等之
手当申付、飢渇并雨露之凌専為取計候得共、
右者全時之救方而已之儀ニ而、此上仮成ニも居家
取繕、耕作諸道具等取整、田畑開発道路普
請等為致候ニは不容易義、乍去暫時も難捨置、何
様ニも早速取復方手段可仕儀ニ候得共、領内一体
之義ニ付容易ニ行届兼、殊ニ追々田方仕付専ら
時節ニ相成候へ共、右之次第ニ而、中々耕作ニ取懸候始
末ニ至兼候得者、収納は勿論銘々夫食之目当無
之、自然与人気ニ拘候間、如何様之心得違異変
(改頁)
24
等可生も難計深心痛仕候、此上精々救方并
田畑開発手段可申付候得共、家来而已任置候
而ハ領民共気向ニも拘り、取復方果敢取申間
敷、右ニ付而ハ領内村々少も取復、人気穏ニ相成、
耕作営候形勢ニ至候迄ハ在所ニ罷在、救方
手当筋は勿論、人心引立候様幾重ニも相励、且ハ
取締方等万端差図仕度奉存候、依之可相成儀ニ
御座候は、格別之以御仁恵、当秋中迄参府
御用捨被成下候様仕度奉存候、以上、
四月廿一日
(改頁)
○越後高田侯[榊原式部大輔]御届 初度二度
私在所越後国高田、去月廿四日亥刻比より大
地震ニ而、
城内住居向門櫓囲塀破損、家中
屋敷城下町領分村々
潰家破損所夥敷、人
馬怪我有之、北陸道往還筋所々欠崩御座候
旨、在所より申越候、委細之儀者追而可申上候得共、
先此段御届申上候、以上、
四月四日 榊原式部大輔
私在所越後国高田、去月廿四日亥刻比より
大地震之儀、去ル四日御届申上候通御座候処、
(改頁)
25
其後相止兼昼夜折々相震、同廿九日午刻
比強震有之、猶又所々大破、米蔵寺社在
町共
潰家破損相増候旨在所より申越候、委
細之儀ハ追而可申上候得共、先此段御届申
上候、以上、
四月七日 榊原式部大輔
○高田侯夲御届五月廿八日ニ出御しらせあり、後ニ記
すへきなるか因に爰に出す、
式部大輔様御領分越後国高田、去々三月廿四日
廿九日大地震之節破損所左之通
(改頁)
一 夲城住居向囲塀所々櫓橋大破
一 二丸・三丸所々門囲塀橋腰懸大破
一
大手門橋右手土手三十間余裂崩、左手土手二十間
余大裂
一
城内外往来道所々裂割
一 侍番所一ヶ所大破
一 足軽番所三ヶ所大破
一 御用米蔵同断
一 米蔵類同断
一 稽古場同断
一
侍屋敷七十九軒同断
(改頁)
26
一 切米取長屋拾八棟同断
一 足軽長屋二拾八棟同断
一 御預所役所同断
一 牢屋同断
一 木戸一ヶ所同断
一 関川御番所破損
一 御金蔵二ヶ所同断
一 高札場三十一ヶ所同断
一 町在
潰家四百七十七軒
一 同大破家千五百四十一軒
一 同土蔵潰十九ヶ所
(改頁)
一 同大破二百四十四ヶ所
一 今町仮陣屋収納米蔵四ヶ所大破
一 郷蔵潰五ヶ所
一 寺潰三ヶ所
一 同大破十ヶ所
一 修験潰一ヶ所
一 往還橋破損三ヶ所
一 苗代泥冠四百五拾四ヶ村
一 関口矢代川通石枠石積崩三十五ヶ所
一 山抜崩二十四ヶ所
一 用水溜崩十八ヶ所
(改頁)
27
一 田畑川欠弐十四ヶ所
一 水除土手用水江筋破損百壱ヶ所
一 関枠水門樋類破損六十六ヶ所
一 死失人五人
一 怪我二十八人
一 死馬二疋
右之通御座候、御損毛高之儀者追而可被仰上旨、今
朝御用番阿部伊勢守様江御届被指出候、右為御知
被仰遣候、以上、
五月廿八日
(改頁)
○むしくら御届
私領分信州松代、去月廿四日夜大地震已来
之次第追々先御届申上候処、城下より戊(ママ)亥之方ニ
当、六七里程隔候山中水内郡伊折村・梅木村・
念仏寺村・上曽山村・地京原村・和佐尾村・椿嶺
村・日影村・鬼無里村等二亘り候大姥山虫倉
岳与申高山、同夜震動抜崩之始末、近比
漸々通路も出来
見分為仕候処、右九ヶ村之儀ハ
別而大災ニ御坐候処、其内ニも伊折村・和佐尾村・
梅木村・地京原村・念仏寺村五ヶ村者右山麓
間近ニ付、念仏寺村之内平沢組・臥雲組、梅木
(改頁)
28
村之内城之越組・親沢組、地京原村之内藤
沢組・横道組、伊折村之内大田組・高福寺組・
横内組・荒木組、和佐尾村之内栗夲組、都合
十一組之内民家七拾軒程、人別百九十九人
馬三十疋無跡形も土中江押埋、右組々多分
之亡所相成申候、且又右村々近村之内ニも、黒沼
村之儀者家数四拾九軒人別弐百三十五人
之内
潰家五軒相残、外三十九軒人別六
拾人余馬六匹、并山中田中村之儀ハ家数
三十九軒人数四十弐人、是又跡形も無之
土中ニ押埋、亡所相成候程之儀ニ付、間近之
(改頁)
村々変地
潰家死人殊之外夥敷趣ニ候得共、未
取調行届不申候、前条村々等者里地与違村立
耕地も山路相隔、高目ニ不似合地広ニ而、物毎
手遠之上、惣而平常も巌石畳重候辺を一歩
通同様之険路御座候処、此度之大災ニ而元之
道形致滅却候故、当分巨細之
見分ハ行
届申間敷、如何ニも歎敷心痛之次第ニ付、最寄
災害之不甚候村方江相纒救方夫々手当
申付候、是迄も追々御届申上候得共、右大姥
山虫倉岳麓之村々変災未曽有之次第ハ
就中甚敷候付、猶又此段先御届申上候、
(改頁)
29
以上、
四月廿三日
○
飯山侯御しらせ御届と異同あり、故ニしるす、
豊後守在所信州
飯山、三月廿四日亥刻比より
大地震ニ而破損所、先達而御用番様へ先御届
被指出候、其後地震相止兼、猶又破損所出来、当
六日阿部伊勢守様へ御届書被指出、両度荒増
左之通、
一
城内 二重櫓 潰損共二ヶ所
(改頁)
石垣 崩三ヶ所
囲塀 倒数十ヶ所
土蔵 潰半潰損共十一棟
但武器蔵共
物置 潰損共五ヶ所
門 潰半潰損共十ヶ所
住居向 半潰弐ヶ所
献上蔵 潰一棟
腰掛 潰一ヶ所
稽古所
小屋共 損潰二ヶ所
番所 損半潰五ヶ所
(改頁)
30
井戸上屋 半潰一ヶ所
一 外廻り
稲荷社拝殿共 潰
建家 潰四ヶ所
番所 潰一ヶ所
一 家中侍居宅
四十四軒 潰
六軒
焼失 六軒 半潰
四軒 損
一 同門
(改頁)
拾七ヶ所 潰
弐ヶ所
焼失 三ヶ所 半潰
八ヶ所 損
一 同土蔵
三棟
焼失 弐棟 潰
五棟 半潰
一 同侍并小役之者長屋
十八棟 潰
十弐棟
焼失 (改頁)
31
三棟 半潰
一 番所
三ヶ所 潰
一ヶ所
焼失 一ヶ所 半潰
一ヶ所 損
一 舂付屋一ヶ所 潰
一 用会所一ヶ所 潰
内
土蔵一棟 潰
門一棟 類焼
(改頁)
門一ヶ所 半潰
長屋一棟 潰
物置二ヶ所 潰
一 厩一ヶ所 半潰
内
門一ヶ所 半潰
内馬場一棟 同
一 献上蔵一棟 同
一 作事
小屋一ヶ所 同
一 中間部屋二棟
焼失一 舟蔵一棟 半潰
(改頁)
32
一 侍分并家内小役之者下々迄即死八十六人
内
男 四十人
女 四十六人
一 城下町之内
御高札場一ヶ所
焼失 但御高札は外シ置
番所一ヶ所
焼失 同一ヶ所 潰
籾蔵壱棟
焼失 竃五百四十七軒 同断
(改頁)
同三百弐拾九軒 潰
内七軒山崩ニ而泥冠
土蔵百七十七棟
焼失 同六十九棟 潰
土蔵上屋計弐十棟
焼失 物置百四ヶ所
内六十九ヶ所
焼失 三十五ヶ所 潰
牢屋敷
内一棟
焼失 但牢入者怪我無之、
(改頁)
33
水車屋三ヶ所 潰
一 寺院
本堂六ヶ所
焼失潰共
同六ヶ所 半潰
同三ヶ所 潰
庫裡十四ヶ所
焼失潰共
同七ヶ所 潰半潰共
諸堂二十ニヶ所
焼失潰共
橋四ヶ所 落
一 城下町人即死三百三人
内
(改頁)
男百三十八人
女百六十五人
外ニ
非人男一人
穢多 男一人
女二人
馬八疋
一 領内在方之分
御高札場十四ヶ所 潰
同三ヶ所 半潰
番所二ヶ所 潰
郷蔵三十壱ヶ所
(改頁)
34
内
山崩ニ而土中ニ埋十一ヶ所
潰九ヶ所
半潰五ヶ所
類焼七ヶ所
居宅潰弐千五十六軒
内
八十三軒山崩ニ而土中江埋、
同七百三十軒 半潰
同弐十三軒
焼失 物置千二百四十八棟 潰
(改頁)
同四十三棟 半潰
水車屋三十四ヶ所
内
二十八ヶ所 潰
四ヶ所 半潰
二ケ所 土中ニ埋
社五十九ヶ所
内
五十四ヶ所 潰
五ヶ所 半潰
寺院十七ヶ寺
(改頁)
35
内
十二ヶ寺 潰
五ヶ寺 半潰
庫裏三十ヶ所 潰
門三ヶ所 同
諸堂六十八ヶ所
内
一ヶ所
焼失 五十六ヶ所 潰
鐘撞堂十一ヶ所 潰
橋九ヶ所 落
(改頁)
死失千百弐十壱人
内
男四百九十一人
女六百二十七人
僧三人
牛三疋 死失
馬二百三十四疋 同
荒地五千百六十一石三斗余
此外変地数多有之、
外ニ
穢多
小屋一軒
(改頁)
36
内
六軒 潰
一軒
焼失 女一人 死失
一 用水路水揚口より壱里余之難場欠落、其外村々
用水所々損、且往来筋二ヶ所抜落并山崩川欠
地割裂小橋損立木倒数多ニ而難顕、怪我人
夥敷、身体不具ニ相成、農業出来兼候者多分有之、
尤怪我人之儀も数多故難取調御坐候、
別段
飯山表去月十三日夜より十四日迄、定水より一丈三尺相増、
(改頁)
川添村々田畑水押入等之儀、先達而先御届被指出、
今六日左之通御届、
一 田畑水押入水冠石砂入川成共
九百六十九石弐斗三升八合
一 同水押荒地川欠
千百弐十三石弐斗壱升九合余
一 同水冠
弐十四石九斗余
一 用水路土手
押切 百三間 一ヶ所
弐百間余 一ヶ所
(改頁)
37
七十間余 二ヶ所
百九十間 一ヶ所
右之外損所数十ヶ所
一 人馬怪我無御坐候、
右之通御座候、損毛高之儀は追而収納之上、御届
被指出候、右之段為御知云々
五月六日
○御預所御届
御名御預所村々、段々御届申上候通、去月廿四日夜稀成
(改頁)
大地震二而、高井郡・水内郡村々民家押潰死失有之付、
早速
見分役人差出候処、別而水内郡権堂村之儀者
右地震二而皆潰同様之上、
善光寺町より出火類焼、
死失人取調候処、左之通御座候、
村高六百七十石壱斗八升八合
惣家数三百七軒 水内郡
一
焼失家数弐百七拾四軒 権堂村
是は潰之上
焼失仕候、
一
焼失土蔵并物置之部四十八棟
是は右同断
一 居家三十三軒
(改頁)
38
一 土蔵并物置之類拾五棟
右者半潰相成居候、
一 御高札場一ヶ所潰之上
焼失、
但御高札は無別条、
一 寺三ヶ寺右同断
但明行寺 普済寺 往生寺
惣人数千百六十三人之内
一 死失人八拾九人
内
男三拾八人
女五拾壱人
(改頁)
外百十三人怪我人
一 貯穀郷蔵無之、身元宜者江預置候処、右入置候土蔵
押潰之上
焼失仕候故、貯穀不残
焼失仕候、尤追而無
油断積戻候様申渡候、
村高百五拾五石六斗三升七合 同郡
一 惣家数二十七軒 中尾村
是者地震ニ而皆潰罷成候、
一 土蔵并物置類三十一棟
一 御高札場一ヶ所
但御高札者無別条、
一 宮二社
(改頁)
39
右三筆皆潰相成候、
惣人数百二十八人之内
一 死失人八人
内 男三人
女五人
村高四百五十五石弐斗三升七合
惣家数三十軒 同郡
一
潰家数四軒 津野村
此外銘々土蔵并物置様之類大破損仕候、
村高八百七石五斗五升七合
惣人数五百五拾八人之内 同郡
一 死失人五人 栗田村
(改頁)
内 男三人
女二人
是者
善光寺町へ罷越止宿仕居、怪我仕候付、早速
引取療養相加候へ共、相重り死去仕候、
一 居家并土蔵物置等大破損仕候得共
潰家無
御坐候、
村高九百三石五斗壱升七合
惣家数百二十軒 高井郡
一
潰家数四軒 大島村
右之外土蔵物置類大破損仕候、
同郡
幸高村
(改頁)
40
外 十ヶ村
右者居家、土蔵并物置様之類銘々大破損仕
候得共
潰家無御坐候、
右者御名御預所信州高井郡・水内郡
村々、去月廿四日夜亥刻比稀成大地震ニ而、民
家圧潰、死失怪我人有之、
焼失家死失人共
取調候処、書面之通御座候、尤死失人之儀
見分相
糺候処、
焼失并圧死相違無之外、怪敷義一切相聞
不申、其上他村之者無之候間、夫々取片付候様申渡、
且川除村々耕地は勿論、御普請所土堤岸崩
地割出来、泥水吹出し候場所も有之候処、天気故其儘
(改頁)
干上り、泥水吹出候義相止、割ロ一丈二尺位深二三尺
有之、其上耕地一円田畑共高低出来、田方ハ水
懸差支、畑方ハ容易ニ地平均出来兼、右様之次第
ニ付、用水揚口関枠大破付、追々用水肝要之
時節ニ差掛り、旁土堤欠崩并関枠急破御普
請被成下候様願出、役人差出
見分目論見罷在候、
且両郡村々牛馬至而少く候ニ付、怪我一切無御坐候、
且又権堂村・中尾村之儀者差当り夫食指
支候間、御名手内より取救方早速手当仕候儀ニ
御坐候、則別状権堂村麁絵図相添、此段御届
申上候様在所役人共より申越候、依之申上候、以上、
(改頁)
41
御名家来
未四月 座間百人
御勘定所
○おなしく水災御届
御名御預所信州高井郡・水内郡村々、兼而申上
置候通、
犀川水上堰留候場所、当月十三日暮時前
一時ニ押破れ、民家
流失流家等有之候ニ付、早速
見分役人差出取調候処、左之通御座候、
(改頁)
村高四百四拾三石八斗九升五合 高井郡
家数八拾七軒 中島村
一 御高札場
流失、但御高札無別条、
一
流家八軒
一
潰家六軒
一 土蔵物置類五十壱棟潰
流失仕候、
一
流死人六人内 男四人
女二人
一 御料・私領組合土堤敷八間馬踏弐間、延長千
七百五十間之内数ヶ所ニ而、延長千二百間余押埋
押切等ニ而破損仕候、急破御普請別段奉伺候、
一 用水路差支無御坐候、
(改頁)
42
一 囲穀籾九十俵余水入相成候、早速干揚申渡候、
一 居家水付五尺より六尺迄床上迄泥入、耕地一
円泥冠相成申候、
村高三百八十六石九斗七升壱合 同郡
家数百四拾壱軒 村山村
一 御高札場
流失、御高札別条無御坐候、
一
流家七拾軒
一
潰家三拾壱軒
一 土蔵拾一棟半潰相成申候、物置類九拾八棟
流失仕候、
一
流死人拾壱人内 男四人
女七人
一 住居囲土堤・
千曲川除・百々川除何れも所々
押切 (改頁)
押堀数ヶ所、延長凡二百間程、是迄急破普請
目論見別段奉伺候、
一 囲雑穀五斗入三十俵
流失 是迄郷蔵無御座、身元相応之者へ預置候処、書面之通
流失 仕候、尤追而積戻可申旨、其外者水入相成候ニ付、早速干揚
候様申渡候、
一 居家水付五尺より六尺位迄、床上迄泥入、耕地一円泥
水冠相成申候、
村高七百九拾六石五斗七升九合 同郡
家数七拾五軒 相之島村
一 御高札懸場別条無御坐候、
(改頁)
43
一
流死人六人内 男 壱人
女 五人
一 物置類三拾五棟潰半潰相成申候、
一 穢多居家二軒
流失一 馬一疋斃
一 御普請所百々川通関枠
流失、用水路押埋候場所
数ヶ所、
千曲川除土堤共急破御普請別段奉伺候、
一 囲穀之儀郷蔵無御坐、身元相応之者へ預置候処、不残
水入相成候旨、早速干揚申渡候、
一 居家水付四尺より五尺迄、床上迄泥入、耕地一円泥
水冠相成申候、
村高四百九拾三石壱斗弐升七合 同郡
(改頁)
家数八十六軒
山王嶋村
一 御高札掛揚并御高札共無別条、
一
潰家三軒
一 半潰壱軒
一
千曲川除御普請所少々損候而已、格別之儀無御坐候、
一 囲穀之儀郷蔵無御坐、身元相応之者へ預置候処、
いつれも水付ニ無御座無難御坐候、
一 居家水付五尺位より七尺位迄、水不付家十八軒、耕地
一円水冠相成申候、
一 物置六十七棟水入ニ相成申候、
村高百弐拾八石六斗九升五合 同郡
(改頁)
44
家数弐拾五軒
小沼村
一 御高札掛場
流失、但御高札無別条、
一
潰家四軒
一 物置類一村不残水入ニ而潰同様相成申候、
一 居家棟際迄水付凡一丈四五尺位
右村々儀一躰地窪ニ而、平常聊之水ニも
千曲川逆水ニ而
水湛候処、此度者去月廿四日地震ニ而、用水篠井川岸崩
水湛候ニ付、組合村々堰浚普請中ニ而、未出来不申候内、猶又
大水ニ而深水入ニ相成候へ共、
流家等一向無御坐、勿論耕地一円
泥冠相成、別書之趣故、容易水引ニ相成申間敷候、
一 囲穀之儀郷蔵入置候処不残水入ニ相成候付、早速干揚申渡候、
(改頁)
同郡
幸高村
中条村
桜沢村
小布施村
福原新田
飯田村
大嶋村
右七ヶ村之儀ハ耕地ニ寄窪地之分水冠相成候得共、
村内水災無御坐候、
村高四百五拾五石弐斗三升七合 水内郡
(改頁)
45
家数三十軒 津野村
一 御高札場別条無御坐候、
一
流家壱軒
一 土蔵物置類水入大破損相成申候、
一 長沼五ヶ村組合用悪水門御普請所ニ候処、去月廿
四日大地震ニ而少々損候上、此度
洪水ニ而、右水門者
勿論其余用水路押埋候ニ付、堰浚御普請之儀組合
村々一同奉願候儀御座候、
一 囲穀身元宜者へ預置候処、不残水入相成候ニ付干揚申渡候、
一 居家水付三尺位より四尺位迄、床上迄泥入、耕
地も一円同様に御坐候、
(改頁)
村高百五拾五石六斗三升七合 同郡
家数弐拾七軒 中尾村
右者去月廿四日地震ニ而、居家物置土蔵共皆潰
罷成候処、今般出水ニ而、耕地へ水付候へ共、村内ヘ
ハ水入不申、居家水災無御坐候、
同郡
権堂村
栗田村
右村々之儀者水災無御坐候、
右者 御名御預所信州高井郡・水内郡村々、当幾日
先御届申上置候
犀川水上御名領分山中筋山抜
(改頁)
46
崩、数日水湛候処、当月十三日暮時前、右湛候場所水
力を以俄ニ抜崩、数丈之水嵩一旦ニ押出し、川辺
村々者勿論、民家田畑共水押ニ相成、川除御普請所
破損仕、別而高井郡村々之内中嶋村・相之嶋村・
山
王嶋村・
小沼村等
流失多分之様子ニ付、早速
見分
役人差出候得共、右村々江罷越候途中水湛押堀
押切等所々有之、通路出来兼暫見合罷在、少々
引水ニ罷成候上廻村
見分仕候処、絶言語候次第ニ而、
夫食雑穀諸道具等多分
流失仕、大小百姓前後を
失ひ相歎罷在候付、差当り夫食
小屋懸等之手当
手内より夫々取救仕候、川除土堤之類或用水路
(改頁)
関枠等大破之場所、今般御勘定様御普請役中
御越ニ付、相願、御
見分之上急破御普請目論見
帳御同人様方へ差上申候、且又
流死人之儀は
見
分相糺候処、流死相違無御坐、外怪敷儀も不
相聞候間、取片付候様申渡仕候、此段御届申上
候様在所役人共より申越候、依之申上候、以上、
未 御名家来
座間百人
四月
御勘定所
(改頁)
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○山中何れの村の辺なるや、水次第に湛けるまゝ、船
ともを集めて木ニ繋き置けるか、水一時ニ引てみれは、
船ハ高き山の木のうらニかゝりをれり、そを引下るとて、
林の中を分つゝ漸川辺迄出しけるとそ、
○笹平村の村田亘浪人日比八幡信仰しけるか、高浪
打懸来ると見るより、兄弟して八幡の祠を持出し、蔵
の後の方正面ニ出て、神霊守らせ給はゝ救給へ、流し給はゝ
一浪に流させ給へと一心に祈念し、二人祠を捧けて祈りしに、
不思義や、高浪横へそひきて、身も蔵もつゝかなく残りし
とそ、当人の物語也と片岡源左衛門公事方勘定語れり