[現代訳]

     信州飯田城下町屋の覚え

一信濃国下伊那郡郊戸庄飯田郷六本杉長姫城は、下伊那の一城で、一里東は天竜川一里西は風越山です。南北は城を挟んで荒川が流れています。敵を防ぐことのできるしっかりした城です。城が出来た時は、山伏丸・本丸・二ノ丸だけで、水之手への坂口を大手としました。その後三ノ丸の今の不明御門を大手としました。その後御城が再興された時、今の大手口になりました。かつての大手門は南虎口とし、その後の大手口は不明御門といい、北虎口となりました。
 
一昔から大きな領主はなく、飯田郷の人々はこのことを悲しんで、飯田郷より與右衛門、別府村より助右衛門の二人の百姓が鎌倉へ下り、地頭人を御願しました。源頼朝公はそのことを受け入れて、近藤六郎周家という大将を地頭人に命じられました。二人は案内して信州に入り、老臣竹村・吉川・久保田三人を召連れて、文治3(1187)年に飯田郷松原宿へ到着しました。ここに居館を建て住みつきました。郷民はたいへん喜び、敬いました。この近藤氏は淡路国坂西の人です。平家追討の時伊勢三郎義盛に属していて、源義経公へ降参して後、しばらくして威勢が盛んになり、建久6(1195)年居館を飯坂に引移しして、一城を構えてここに住みました。旧地をその後近藤林といったり飯坂といったりしますが、今の愛宕山です。そして家名を改めて坂西といい、三代飯坂に住みました。そして坂西長門守代の代に、六本杉に城を移しました。六本杉は真言派の行所だったのを替地して、城を築き長姫城といいました。飯坂と六本杉の間はおよそ5、6丁(5,600メートル)です。今奥曲輪にある山伏丸は、この所のあとです。このほか神明の社がありましたが、城の外へ移しました。今の知久町1丁目南側の中程です。後々迄役所を神明屋敷と言っていました。愛宕坂の川を源長川といいますが、これはかつて源長と言っていたからだということです。又坂西家の説では、近藤六郎周家は淡路国坂西の城主であったと言われています。平家追討後源義経に従い、武功がありました。しかし義経は兄の頼朝公の御不審を受け仲が悪くなり、義経は忍んで東国に下りました。周家も一緒について北陸迄くだりました。義経は姿を替えて忍んでいました。御供が大勢ついていくわけにはいかないので、越後国で暇を賜り信州に入り、当郡の郷士を従えたということです。
 
一飯田町の初めは、松尾町1丁目に坂西公4代目兵庫頭様の時、伊勢の者がこの地へ来て、初めて町家を建てて商売を始めたことです。そのため、伊勢町といいました。次に番匠町を建て、天正18(1599)年毛利河内守秀頼公が飯田の城に再び住むようになった時、本町1丁目・2丁目・池田町を建てました。この時城の普請もあり、続いて十王堂町を建てました。そのころ十王堂があったのを箕瀬羽場に移し、その跡に町屋を建てたので、十王堂町といいます。後に本町3丁目としました。続いて箕瀬町を建てました。知久町は文禄3(1594)年8月、神ノ峯城主知久大和守頼氏公が没落の後、その町を飯田へ移し、1丁目・2丁目を建て、知久町といいました。この時城外曲輪に惣を作り、所々に木戸塀の番屋を建てました。町家が段々出来て、伝町もこの時に建てられました。その時は名残町といっていました。これより御囲の内にある田畑を出来分というようになりました。だから伝町迄曲輪・惣の内です。その後京極様家来光増右衛門という人に、飯田町割を仰せ付けられました。この人は川中島浪人で上方へ出て、京極家へ召し抱えられた人です。京都の町割をまねして竪横に小路を割り、慶長元(1596)年松尾の城主小笠原掃部太夫信嶺公が、関東へ所替えの後、松尾の町を持ってきて、伊勢町の上に続けて建て、松尾町といいました。田町もこの時建て継ぎ、大横町ならびに上横町・下横町と路を割り、知久町3丁目を建て継ぎました。ここで鍛冶を初めたので、鍛治町といいました。御家中小路もこの時代より段々出来ました。城下伝町迄の持高は、田地600石余ありますが、このうち町分を引いてその残りは、325俵余の田地で、上飯田村分の高で町百姓のものでした。この時の町百姓は知久町3丁目の角大横町に4人・松尾町3丁目南角に2人、そのほかは名残町に多くいました。町役を勤めているので、村役は免除されています。
 
一古くからの城主は、文治3年より近藤六郎藤原周家公が、上飯田村の内に住んでいて、そこを近藤林といいました。坂西近藤六郎周家は、淡路国坂西の領主で源義経に降参し、頼朝公の命によって飯田に来て、知行高1000貫を領し、家名を後に坂西と改めました。建久6(1195)年上飯田村の内飯坂に城を移しましたが、飯坂の洞道は今の愛宕山です。
   坂西淡路守
   同 長門守
   同 淡路守 この時代に城を東南の六本杉に移し、長姫城といいました。
   同 兵庫頭
   同 若狭守 この代の時高20貫だったと言い伝えられています。
   同 伊予守
   同 但
   同 帯刀
   同 因幡守
   一色弾正忠 因幡守の子でなぜか名字を一色と改めました
   一色内蔵介 この時山村北方を手に入れ、知行高2000貫を領知しました。
   坂西淡路守 家名も姓も改めました。
   同 式部
   同 八郎九郎周常公 弘治2年甲斐源氏武田晴信に属しました
   同 左衛門佐周次公 永禄5年戦死しましたが、子がなく弟織部亮殿が相続しました。
   同 織部亮
  武田晴信公の疑いを受け、領知を没収され城を明けて、小田原へ立退き北條家を頼りました。
 
一永禄より元亀年中、秋山伯耆守源直義公が甲州より御城代として来ました。
 
一天正の初め再び城主は坂西織部亮となりました。小田原北条家の御執持を以て武田晴信公より本領を賜って帰城しました。
 
一天正10(1582)年織田平信忠公が甲州追討として、下條口より入ってきました。下条伊豆守殿父子は浪合を固め、下條は家老下条九兵衛殿が守っていました。下条九兵衛は、信忠公へ心をよせ、下條口より川尻肥後守殿の人数を引入れ、合わせて木曽峠より団ノ平八郎宗忠・森勝蔵長一が、清内路口を打ち破って押し入りました。松尾の小笠原掃部太夫信嶺公は、これを聞いて力を落し、信忠公へ使者を立て降参しました。飯田城には甲州より加勢として、保科弾正忠殿が入りました。なおこの城は信州第一の頼みとて、小幡因幡守殿・同舎弟五郎兵衛殿・波多源左衛門殿が来て城を守っていました。しかし頼りにしていた下条・松尾の両城主は織田方へ降参して、案内者となっているため、城中の者たちはあわてふためき、敵のやってくる以前に城下の民家を焼くことにして、2月14日悉く焼いてしまいました。同夜半時分所々の矢倉の番兵走り下りてみると、敵の数は多く、城中の人数のほとんどが、甲州へ逃げて行ってしまいました。これにより城主坂西公力及ばず、城をすて退きましたが、木曽峠飯田峠蘭の方より敵大勢攻めてきたので、進むこともできず東へ帰ることもかなわず、途方にくれ、市瀬の山中において自害をしました。ここの所を今勝平(勝負平)といい、市瀬番所のあたりです。
 
一天正10年2月より8月迄毛利河内守藤原秀頼公が、下伊那5万石を支配されました。織田信長公に仕へ、毛利新介殿という人です。今川義元公の首を討って武功のあった人です。ところが、今年6月織田信長公と嫡子信忠公父子ともに、京都において逆臣明智光秀のために落命しました。天下は豊臣関白秀吉の手に入り、毛利様は御家中ともども6月大島城へ移り上方へ行かれました。
 
一天正10年8月より御城代は、菅沼大膳亮源定利公となり、知行は5000石でした。三州源君家康公へ御預りとなり、巡見をされて御城代として菅沼定利公を置かれました。天正17(1589)年定利公は病気が重く、ついに亡くなりになりました。このころ子の大膳定次公が駿河にいて、御病気を聞き飯田へ来られました。しかし定次公は12歳で未成人のため、城代職は仰せ付けられず、関東吉井へ所替えとなりました。天正18(1590)年より再び、城主は毛利河内守藤原秀頼公となりました。この年関白秀頼(吉)公小田原の北条氏を征伐しましたが、毛利秀頼公は小田原へ行き軍功によって、秀吉公より信州伊奈郡をいただき、羽柴称号豊臣の姓をいただきました。小田原より直ちに御入郡し、知行高は伊那一郡114ケ村8万石でした。本町1丁目・2丁目を建て、番匠町の上に田を埋めて町家を建て池田町といいました。城普請をし外曲輪を広め、家中屋敷も段々建て、本町2丁目の上に十王堂がありましたが、これを箕瀬羽場へ移し、このあとにも町屋を作り、十王堂町といいました。それに続いて箕瀬通りにも百姓たちが、思い思いに町家を建てました。上方への往来の道筋なので、段々伊那街道も西の山手へ造り替えを命じられ、文禄2(1593)年迄に街道は出来あがりました。文禄元(1592)年朝鮮征伐に毛利秀頼公は、海を渡り軍功を挙げました。帰陣の途中で病死しました。文禄2年より京極修理大夫源高知公が知行されましたが、高120000石の内伊那郡は高800000石で、木曽妻籠から美濃へかけて40000石でした。上伊那高遠へは、城代として老臣岩崎左門殿を置かれました。この代においてもまた城普請がありました。ところが慶長5(1600)年丹後へ国替えとなりました。
 
一慶長6(1601)年小笠原兵部大輔源秀政公が、下総(千葉県)古河より知行高50000石で移ってきました。この時江戸城の天守普請について、信州の諸大名へ材木御用が仰せ付けられました。小笠原兵部太夫様・石川玄蕃様・保科弾正忠様・真田伊豆守様は、下伊那郡遠山より長さ17間(30m)余の良木を伐出し、江戸へ運送し献上しました。慶長19(1614)年大坂冬の陣で、秀政公と忠脩公・忠政公の父子3人は、大坂へ行きました。夏の陣にも行きました。留守中は、城代光ル三郎右衛門殿が在城しました。
 
一元和元(1615)年より高遠城主保科紀伊守源正光公の預りとなりました。美濃(岐阜県)久々利千村平右衛門源重長公預り代官所もあり、城より10町(1㎞)西の方、箕瀬羽場に御蔵屋敷が建られ、手代衆が置かれました。元和3(1617)年より、脇坂淡路守藤原安元公が伊予(愛媛県)大洲より知行高55000石で移って来ました。この内上伊那で10000石、下伊那で40000石、5000石は上総国長良郡一ノ宮にありました。
 
一寛永14(1637)年惣検地を仰せ付けられました。それは、城廻り46ケ村で、北は赤須(駒ケ根市)東は供野(下伊那郡豊丘村)南は下瀬(飯田市下瀬)までです。この高は36300石余で、飯田郷の高は1773石2斗3升です。この内423石2斗3升は城回り家中町家分で、残りの1350石は上飯田村分です。この物成は631石9斗8升2合(平均免4ツ4分5厘余)で、このうち物成15石7斗3升9合は、城廻り出来分です。
 
下條領28ケ村は3700石余、月原より南は三州境新野村迄
 
一上伊那箕輪領23ケ村は10000石、伊那郡分惣高合50000石で、このほか5000石は上総国長柄郡一之宮で御知しています。
 
一城下町13町は京極高知公代迄、毎年御用の榑木を伐出し、御用に遣われていました。この榑狩人足は町役に仰せ付けられていて、松川へ人足を出していました。この割付は松尾町2丁目・池田町・本町2丁目の3町を本役と定め、小間5間口1軒より人足24人、但し1ケ月に付き2人の積り、ほかの10町は半役と定めて、5間口1軒より12人ずつ出し勤めます。町屋古法の間数は右の通りなので、5間口を以て1軒とします。隣家との庇の合わせは片方2寸5分ずつで、合わせて5寸ずつとなります。
 
一町役榑狩人足は、かつて町方に雇人はなかったので、だいたい身内の抱え人を人足に出し、それがいない者は、自分が出ていました。ところが榑木小奉行衆と出て行った町人足と口論になり、町人足兄が小奉行を打擲するということがありました。このことが取調べとなり、兄弟をに乗せを立て、町中を引廻し獄門にしました。このことから町中が恐れ迷惑がり、人足代米に直し上納するようにしたいと願い出ました。
 
一右の通り京極様の代迄榑狩人足を差し出していましたが、慶長6(1601)年所替えで小笠原兵部大輔様が来られ、知行も50000石になりました。城下町は衰微し、家持も所々へ稼ぎに出ていて、女童ばかり留守居をしているようになりました。1年中家主が留守がちで、町役人足勤めるものがなく、問屋も潰れ、本町2丁目南側下横町の角より2軒目の与惣兵衛1人で、惣町の問屋を勤めるようになりました。そのため与惣兵衛は町中へ相談して、人足代は毎年暮に米で上納したいと願い出たところ、聞届けられました。本役1軒より1ケ月に2人ずつで、1年に24人、半役1軒より1ケ月に1人ずつで、1年に12人ずつ出し、人足1人前賃ともに米4升ずつ、5間口本役1軒より24人分米9斗6升ずつ、半役5間口1軒より人足12人分米4斗8升ずつ、12月に入り毎年上納するように仰せ付けられました。この代米の後に地子米と言われるようになりました。今の城主の代になり13町地子米となり、米260石この俵数650俵ずつ差し上げる様になりました。
 
一城下町の市運上の事、昔から飯田へに付けて来た塩・茶・肴等は、馬方の心次第にどこの町へも卸して売っていました。ところが知久町へ来るが全くなく、衰微するようになり困って、3問屋相談をして市付のの割付けのことを、役人中へお願いし、次のように仰せ付けられました。
       定
  松尾町通りは、浪合より来る
  池田町通りは、平谷辺より来る
  本町3丁通りは、駒場筋や近村より来る
  知久町3丁通りは、横畑・根羽より来る
  大横町は、武節・津具やこぼれ
この通りに決め、荷物を付けてくるの宿で売り払うこと、このように市馬を仰せ付けられました。そこで市馬をつけたところ、大横町の宿がよいのか、こぼれと名を付け皆大横町へ行くようになったので、竪町は寂しくなってしまいました。知久町庄屋與右門は、このことを申出し相談して、寛永年中にお願いしたところ、町御奉行下津屋金左衛門様が聞届けてくれ、塩・茶・肴荷は今後1町で2日ずつ市を立て、順々にを付ける様にと言われ、知久町1丁目より始め、松尾町1丁目を終りとし、又知久町へ戻るようにしました。そのうちに惣町の上り市を、2日大横町へくだされました。上下の横町は、上中下沓・草鞋・てん屋物を売買するように仰せ付けられました。この時迄家毎に店はなく、市で諸色売買をしていたので、塩1駄について恵比寿塩1升ずつ市で取っていたのを、小間割を申付けられました。そのほか昔より宿塩をはかっていたのを百折分に筵払いをすることとなりました。
 
一市の恵比寿塩と筵払は、古来よりやってきたが、市にて度々このようにすることもむずかしいので、請けた者がゑびす塩をためておいて勝手次第に売り払い、暮になり1ケ年分の塩代米6俵は町へ出すようにしました。このことはよいやり方なので、惣町で請け合いになり、町毎で請けるようにしました。
 
一市運上を右の通り請けてきたが、はかり塩を止めて引俵にして売買するようにした方がよいと馬方宿・惣町で相談しました。宿田町塩屋小右衛門・大横町又兵衛・本町塩屋嘉兵衛三宿の相談が決まり、馬方1人で3疋ずつ追ってきたが、余塩3升・筵払3升、3駄に6升を換算して、72文払うこととしました。但し1疋に付いて24文の積りに定め、市町でやってきました。これからは運上ということになった。だから地頭様へ召上げられず、町中へ下さることとなりました。3問屋よりお願いし、町中運上を取るようにしてきましたが、問屋は何も助成がないので、これからは木綿・古手・くり綿・小間物などは、3問屋で売買するようにしたいと願いでたところ、家老脇坂左衛門様御取なしによって、願の通りとなりました。すでに書付を下されたので、黒瀬より付けて来た茶たて迄問屋へ付け込むので、平町人至極困窮となり、1日1日と過ぎていくうちに、町御奉行代渡邊九兵衛様へ仰せ付られました。この時池田町新井嘉兵衛はかかり荷訴訟をし、三ケ年願い出て、平町人願いのことは聞き届けられ、問屋へ下された書付は取り上げとなり、平町人の願いの通り仰せ付けられました。
 
一正保元(1644)年10月15日本町角屋より出火し、知久町迄やけました。この時角屋の分横町へ長屋を作り貨店をしたので、家を持たない小商人のほとんどが、横町へ店を借りて商売をしました。ことのほか横町は繁昌になり、竪町は衰微したようになりました。しかし角屋はだいたい町年寄衆・問屋・肝煎衆の家なので、訴訟の企てもなかなかできず過ぎて、知久町通り・松尾町は特にさびしく、店を借りる人もなくて困っているので、知久町肝煎与右衛門・松尾町肝煎彦右衛門両人が、このことを訴え出たところ、かえってお叱りを受け、上下の横町を肴店に仰せ付けられ、八百屋の者は横町にて商売することとなりました。竪町で商売をすれば曲事であると仰せ付けられ、惣町は迷惑しお願いをしたが、許しがありませんでした。しかし松尾町はたいへん衰微していると聞くので、3ケ年町役を免除してくれました。
 
一正保2(1645)年9月18日名残町を伝町いうようにすると仰せ付けられました。これは江戸への出口で伝宿に仰せ付けられ、諸役地子米を免除され伝を勤めているためです。
 
一正保5(1645)年3月、城下惣曲輪の外に町屋を作るように仰せ付けられました。3町を割付け、町奉行渡邊九兵衛様・高野瀬久兵衛様、その他御役人・御家老様御判物を下され、1軒間口5間口とするように仰せ付けられました。飯田より江戸への出口なので、伝町と同じく伝宿に仰せ付けられ、桜町と名づけられました。伝を勤める町なので、町役の地子米は免除されました。伝御用は1ケ月の内10日までは伝町で勤め、11日より29日晦日迄は、桜町3町が勤めます。旅人の泊りは上方へ行く者は、城下の町に宿泊し、江戸の方へ帰る者は、伝町・桜町へ宿泊するように決まっています。但し定宿のある旅人は、自由になっています。
 
一桜町は新町なので、商売物を仰せ付けられ、書付をもらいました。正保5年は改元となり、慶安となりました。慶安3(1650)年書付が下し置かれました。
    売買をするべき条々
   一袋茶類の事
   一鍋釜類の事
   一奥地(松本方面)へ向かうは、宿泊する事
   右領内へ出入する金の両種(袋茶・鍋釜)は、この町で商売すること、これにより新しくできた家が、にぎわうようにと申し付ける。
     慶安3庚寅2月日   渡邊九兵衛
                脇坂内膳
            桜町中
知久町1丁目の平沢勘兵衛は通りの中ほど程南側に家を持っていました。愛宕坂の通りに合わせて横町を明ければ、人の通行によくて賑わうだろうと、自分の家を2間崩して、坂頭裏町へ小路を明けたいと願いでたところ、自由にしてよいと仰せ付けられました。
 
一承応3(1654)年12月3日脇坂安元公が逝去されました。
 
一同4(1655)年家督は脇坂中務少輔藤原安吉公が継ぎました。これは安元公の養子で、筑前守様の二男です。
 
一明暦3(1657)年上飯田村庄屋の原田源四郎が斬罪を仰せ付けられました。これは元和元(1615)年に幕府代官所になり、千村平右衛門重長公が預かられ、箕瀬羽場十王堂手前へ蔵屋敷を建て、役人衆が詰めるようになりました。間もなく脇坂安元公が飯田城主になり、50000万石を領しましたが、残り4000石余は伊那にありました。千村平右衛門様預り所があったため、蔵屋敷はそのままにされました。ところが、当代千村平右衛門基寛公は相対で、上荒町へ蔵屋敷が引っ越しました。蔵屋敷にいた人たちの茶畑があったのを、庄屋源四郎が差押え渡しませんでした。このことが詮議になり、斬罪を仰せ付けられのです。そこで茶園畑の代りを外の西教寺・善勝寺裏を渡しました。
 
一城下町上下横町の商売がだんだん繁昌し、竪町が衰微するようになりました。先年からお願いしてきましたが、取上げてくれずそのままになっていました。町奉行が代り近藤源介様となり、これによって町中相談し、訴訟をしたところ、願いの通り御聞き届けてくれました。以前の御役人まで詮議され、上下の横町に竪町並の商売をすることは堅く禁止と仰せ付けられ、源介様より証文が下し置かれました。横町で商売禁止の13品が定まりました。
 一 穀物  一 塩  一 魚鳥類  一 婦登物
 一 青物  一 鉄類 一 繰綿   一 麻荢
 一 麻布  一 小間物一 紙    一 他国来候笠
 一 藁類 〆
 
一城下町より上の薪山への入り方のことですが、昔より左の通り決まっていました。松川入山へ入る町は、谷川を境としていました。野底山は川より北は他村で、上黒田村・下黒田村・飯沼村・南条村です。野底山の惣地元は別府村です。この入方は知久町1丁目・本町1丁目・2丁目・番匠町・田町松尾町通り3町・大横町で、本町と田町の間を境とし北の方が入方になっています。上飯田村の内東野・伝町通・桜町通残らず、大雄寺領も野底山入方です。野底山の川より南の平は、地元が別府村で入方は右と同じです。木もや・柴だけの入方で、山道造りも追分より入りこゐだ沢までが、町の分となっています。
 
一寛文9(1669)年上飯田村で惣検地がありました。この時城下町町人の作っている分は、古来の通りわけ、諸役は免除されました。上飯田村へ検地帳は下し置かれました。
   上飯田村の内304俵  町で作っている分
               このほか前々よりほかの村にも町で作っている分があります。
   山村の内100俵余   町で作っている分があります。
   名古熊村の内140俵あります。
   別府村の内桜町市右衛門分の高は40俵あります。右の分は村役を免除されました。
名古熊村は御年貢米も村へ持ち運ばないで、大手門の内の八軒蔵の南の角を、名古熊蔵と言い、名古熊村の町作分が入れられています。庄屋が来て役人の改めを請け、納めることになっています。名古熊村140俵の他は、家中・地頭付けであり、町作分はこのように納められるので、諸役は免除になっています。桜町市右衛門分も村へ米を運ばず、市右衛門宅へ役人が来て納められ、差図により払うことになっています。
 
一松川上の橋は、大横町・松尾町通り・番匠町通りの7町で、橋かけの役を勤めて来ました。橋木は飯田藩より下さることになっています。
 
一野底川橋の片側人足は、桜町・伝町が出て橋をかけて来ました。
 
一町方ぼてふり商人のフゴ札運上は、1枚について鳥目2貫文ずつ毎年上納することになっています。村方のものは一切振売りをしてはいけないことになっています。
 
一領分中の諸職人は、国役として1ケ月に1日、1年に12日ずつ御用を勤めることになっています。もっとも扶持は下さることになっています。
 
一城下にある木は、古来より下職のためか、御仕置者がある時、獄門柱を仰せ付けられました。他の職人はやらないことになっています。釘鍛冶が打つことになっています。木は、にかわ細工をする者のほかはいけないことになっています。
 
一所替で脇坂中務少輔様が播州(兵庫県)龍野へ行かれ、関東烏山より堀美作守様が入ってきました。城下町の例法を、役人様方が尋ねられるので、あらまし覚えていて申上げたことや古老の申し伝え、或は手帳に書き記したことを、ここに写しておきました。寛文12(1672)年下野国(栃木県)烏山より移り堀美作守菅原之親昌公、知行高下野(栃木県)で28000石領知をしていました。このうち5000石は、舎弟様へ分知され、飯田領之内20000万石と新田分2000石余を領知することになり舎弟孫太郎様3000石の分知は、一ノ宮の脇坂様5000石の内を下さることとなりました。これは上総国(千葉県)です。同年8月14日殿様御入部となり、町中御祝儀として鳥目100貫文を下し置かれました。且又町方は地子米を毎年600俵余ずつ上納してきました。これも3分1免除して下さり、13町で417俵7升2合4四勺を、その年の暮より上納するように仰せ付けられ差し上げました。
 
一ぼてふり商人のフゴ札運上は、先の御領主様の時は、札1枚について銭2貫文ずつ治めていましたが、今の代となりフゴ札1枚に300文ずつにしてもらいました。札は春に渡され、暮に300文ずつ札に添えて上納することとなりました。
 
一城下町割は昔からしてきて、本町通1丁目・2丁目・3丁目(初め十王堂町といいました。)城追手前より西へ大横町の角迄240間あり、これを三町に割り80間を1町としました。知久町通り1丁目・2丁目・3丁目も間数は同じです。但し3丁目はかつて鍛治町といいましたが、3丁目南側中の小路に長源寺という寺があります。掃地の後武家屋敷になりました。1丁目南側に小路があります。これは下の角の家主平沢勘兵衛家の敷地の内です。愛宕坂より来た人々がここへでるようにすれば、末々1丁目は繁昌になると届け出て、家の内2間を崩して明けました。2間分の地子米が免除されました。番匠町通り・池田町田町も同じ間数です。松尾町通1丁目(初め伊勢町)・2丁目は間数が同じであり、3丁目は衰微してきているので、市が免許されました。大横町通は北より南へ139間あり、池田町通り問屋の下です。但し箕瀬町の境の大川より北方の西側間口4間分は、上飯田村の内箕瀬分で年貢を出しています。上横町・下横町・端片側町、この三つの通りは、竪町角屋の内で、通りを除き小路を割りました。上下横町は南より北へ170間余あります。端通は大手前より北へ、不明御門坂頭迄150間、同南へ知久町の裏通り迄50間、合わせて200間あります。右13町を城下町屋と定めています。軒数は563軒あります。伝町1丁目・2丁目は、かつては名残町といいました。江戸への出口の伝宿なので、正保2(1645)年9月18日仰せ付けられ、伝町と改めました。地子米は免除され、枡形の桜町の木戸際迄伝町の分になっています。伝町の問屋与三左衛門が勤めます。桜町1丁目・2丁目・3丁目は、正保5(1648)年新規に町家を仰せ付けられて建てられました。地子米は免除され、新町で繁昌しないので、鍋釜売買や袋茶の市が認められました。月の10日迄は伝町が伝役を勤め、11日より晦日迄は桜町が伝役を勤めることになっています。奉行・代官・役人中の村への御用の通知・触書等を送っています。脇坂様の時は、町奉行より書付が出ると取次いでいましたが、当代は役義が少ないのでそれには及ばず、上郷の村へ送っています。宛名のある村まで持参し、連名の書付は、初筆の村へ届け、それより村継ぎにしています。右の5通り18町を飯田町といいます。
 
一城外にある御家中小路は、
     場町小路南側
     江戸町は同断
     破魔射場は今回掃地となりました
     元永正院(永昌院)の屋敷は右に同じ
     袋町は右に同じ
     細屋小路は右に同じ
     升形長屋は右に同じ
     西裏御茶園は掃地になりました
     長久寺前長屋は右に同じ
     下荒町南側
     上荒町南側
     文入前は真光寺前です。飛騨より来た文入という僧がいたので、文入というようになりました。今回掃地となりました。
     梅南小路は、かつて龍勝寺(龍翔寺)の場所で、梅南和尚が住んでいたので、梅南小路といいます。寺替えを仰せ付けられ家中屋敷になりましたが、今回掃地になりました。
     上飯田郷は、初め南側侍屋敷で梅南小路とつながっていました。今回割替をし、侍屋敷は掃地になり、小屋敷長屋が建てられました。
     箕瀬長屋は十王堂前の屋敷で、掃地になりました。
     長光寺曲輪は掃地になりました。
     裏町通りは、竪町の内東愛宕坂へ両方少し残り、ほかは掃地になりました。
     追手前組長屋は、今回町屋敷になりました。
     不明御門前の長屋は右に同じ 以上
 
一箕瀬町は、昔より上飯田村の内で在郷町です。しかし先年隠田をしているという訴えがあり、詮議の上南の方の家30間ばかり召上げられ、入札を仰せ付けられました。五間口ずつ買い取るようにし、願い出て商売するようにと仰せ付けられました。穀物商売を願い出て運上を上納するようにと申し上げたところ免許され、しばらくのうち穀物売買と奥より来る越後肴を商売していました。これによって町方より訴えが出され、城下町の昔からの商売物なので、その通りにすると認められました。しかし箕瀬町よりの地代運上金50両程と売家分46両程で、合わせて金96両を、13町より差し上げるようにと仰せ付けられ、寛文6(1666)年より箕瀬町は、在郷町に仰せ付けられました。それから穀商売は段々に乱れてきて、いろいろな所へ売買するので、寛文12(1672)年以来96両の運上は、出さなくなりました。
 
一町方で出す地子米は、町方役の問屋・庄屋の役替えによって、間口の違いがあり、少しずつ増減があります。知久町1丁目端の方北の角・松尾町1丁目端北の角は、脇坂様の代には組長屋でしたが、所替え以後町屋に仰せ付けられました。地子米が増えました。
 
一町年寄は諸役を免除され、地子米は間口13間分免許されます。
 
一3問屋は諸役を免除され、地子米は間口10間分免除されます。そして毎年一人米8俵ずつ下さることになっています。
 
一庄屋6人は地子米間口5間分免除されます。そして毎年一人米2俵ずつ下さることになっています。
 
一小使給は町の軒役とし、間口1間に米4合麦4合ずつ夏秋に集めて渡します。
 
一町方の諸職人の内、大工・鋸挽・鍛冶屋・屋根屋・こけら屋根屋・畳屋・桶屋・籠屋・板かふきなどは、国役といって昔より1ケ月に1日ずつ、扶持をもらって領主様の仕事をすることになっています。このほか御用で行っても、仕事内容により作料を下さることになっています。大工・木挽・屋根屋は、1日1升5合の扶持、そのほかは1日3升の扶持を下さることになっています。
 
一大工の棟梁2人・畳屋の統領1人・鍛冶頭料1人は、毎年暮に米1俵ずつ下さることになっています。
 
一御城の御用水普請人足は、13町の役になっていて、古来より出勤してきて、水奉行殿より指示があり次第人足を出しています。火事の時は早速水掛人足を差し出します。町人足は1日米1升下さるようになっています。
 
場小路・中ノ町・江戸町の御用水は、伝町に水掛役を1人仰せ付けられ、暮に米1俵麦2俵合わせて3俵ずつ下さることになっています。水道井普請は伝町・桜町の役で、人足を出してきました。
 
一野底川の橋掛け人足は、伝町・桜町の役として人足を出してきました。
 
一町屋の辻番所は、城下に15ケ所、伝町・桜町に5ケ所あります。昔から町の役として勤めてきました。
 
知久町1丁目南裏通りの愛宕坂上り口より、東へ端までは御家中屋敷なので、用心のため2間通りの小路を広めるよう仰せ付けられました。代替地は裏町長屋裏を下されました。
 
堀美作守親昌公は、寛文13(1673)7月16日御逝去されました。家督は周防守親貞公が受け継がれました。
 
一貞享元(1684)年6月10日夜亥ノ中刻(10時頃)、池田町南側中程の亦助家より出火し、池田町・番匠町・松尾町1丁目・2丁目・本町3丁目半分・2丁目は残らず焼け、1丁目は少し残りました。このように残らず焼失したので、亦助は早速寺へ避難しました。類焼した人は20人で、城主親貞公より1人に米8斗・材木10本・縄10把ずつ下されました。焼け跡の町幅を片側3尺(約90㎝)用心のため広げられました。
 
一貞享2(1685)年に越後国高田在番に行き、11月8日越後において殿様は逝去されました。御世継がなく、近藤織部様の子千之助様を養子にされ、家督を仰せ付けられました。又七郎といい、後ちに美作守親常公といいました。
 
一元禄6(1693)年6月19日夜子刻(12時頃)、番匠町北側の権右衛門家より出火し、隣家は類焼した。類焼のものへ米8斗・材木10本・縄10把親常公より下さる。
 
一元禄9(1696)年11月19日子刻、桜町2丁目東側の太左衛門家より出火し、南側うを焼失し、この時も類火の者へ米8斗に材木10本・縄10把ずつ下された。
 
一元禄10(1697)年3月27日、親常が公江戸表において逝去された。子がなく外記様の子長吉様を養子し、家督を相続され、玄蕃親賢公となった。
 
一元禄13(1700)年3月24日、飯田町惣曲輪の御改めがあり、御役人様が見分をされ、同25日に城下寺方へ宮崎平六殿が回られました。の内寺院の土手は、土手頭の上より、内は寺分頭上より、外はの分で寺の境内ではないことを必ず改めがありました。昔からこのことを仰せ付けられています。裏の垣の境はこの心得で、垣根を結う様に、寺に仰せ付けられています。
 
一上下横町の商売は、竪町より賑やかで繁昌しています。肴店は盛んになり、竪町は衰微の様になったので、町中相談して、元禄15(1702)年様大和守親賢公の役人中まで目安で訴訟をしました。相手方の横町分角家持を召し出して、たびたび対決を仰せ付けられました。吟味の上4ケ年の評議がありました。宝永2(1705)年閏4月25日裁許が仰せ付けられました。この関係役人は
       御郡代     東原市右衛門 様
               杉本所左衛門 様
       御町役人    黒須五右衛門 様
               宮崎相左衛門 様
               松沢善右衛門 様
右の人たちは近藤源助殿の証文を基にして、竪町の繁昌になるよう仰せ付けられました。角屋敷主の知久町通小左衛門・次郎四郎・曽右衛門・与右衛門、本町の上の五郎右衛門・九郎四・文左衛門・三郎五郎・弥左衛門・庄兵衛・治郎左衛門、番匠町清兵(衛)・治郎兵衛・池田町喜三郎・清七、このほか出店はありません。横町の方の間口2間分は、竪町と同じように商売物を出し、これから横町の方は、停止になっている13品の他の物を売買するようにします。角店より横町へつなげて店を出し、売物の品は定めの通り別々に出すことは紛らわしいので、仕切って商売するように仰せ付けられました。横町の役として勤めてきた辻番は、竪町および端で勤め、端通りの掃除も竪町分で請け、勤めるように仰せ付けられました。
 
端通りは追手前で、商売は竪町並にするので、端通り小店へ辻番・横町の分の掃除の半分より御の方は、竪町の人足で掃除をしています。本町1丁目・2丁目・番匠町は人足に出ています。
 
一不明御門坂頭より伝町坂頭迄は、谷川非人たちの役になっていて、掃除をしています。
 
一谷川通りの内は、人のいない所なので、牢守の一家八郎兵衛が出店し、夜四ツ時(午後10時頃)迄行燈を出しておくようお願をし、免許を受けて出店しています。
 
一伝町の先の枡形も、桜町木戸際の溝迄伝町の役で、掃除をしています。
 
一この頃町方が上納する地子米高は、
   一米69俵2斗8升2合2勺   知久町通3町
   一同115俵3斗1合4勺    本町通3町
   一同144俵3升5合8勺    番匠町・池田町
                   田町・大横町
   一同94俵3升6合8勺     松尾町通3町
   〆米433俵2斗5升3合7勺
 
知久町1丁目の愛宕坂よりの入口にある、横町の2間の小路は、手狭で商買が不自由なので、右小路より上の分を1丁目で1間半家を買い壊して、小路を3間半に広げたいと届けて、地子米は免除されました。元2間は平沢勘兵衛1間半の分を、町寄合金で家を買い広めるようにすること
 
一領分内の盗賊吟味のため、目明しを置くことは当然ということで、伝町九左衛門・太左衛門の2人に、元禄16(1703)年初めて仰せ付けられ、毎年暮に一人金2両ずつ下さることになりました。そのほか町中よりお金を取り集めます。
 
一町方で出火の時、かけつけ人足はかつてありませんでしたが、新規に仰せ付けられました。
 
一宝永2(1705)年春、町方の人別改めがあり、城下分の人数は4483人で、男2309人・女2174人でした。領分中は18464人で家数3011軒です。
 
一領分中で金銀銭札遣ひを仰せ付けられ、元禄17(1704)年2月より通用していましたが、宝永4(1707)年10月13日江戸表において、諸国札遣の停止が仰せ出されたのでやめました。
 
一宝永4年10月4日地震で強く動き、城内町在々で大破がありました。町方だけで潰家50軒・半潰100軒・土蔵の潰れ20ケ所・半潰土蔵68ケ所ありました。領分中の貧しいもの潰家1軒に材木10本・縄10把ずつ、半潰へ軒材木5本・縄5把ずつ、そのほか米まで下されました。
 
一領分中の質屋は、昔より自由に質屋をしてきましたが、札遣いを仰せ付けられてより改められ、質屋株を願い出て10軒に仰せ付けられました。
   知久町壱丁目       福住善右衛門
   本町壱丁目        笹屋治郎左衛門 宝永7(1711)年免許されました。兵右衛門二男久松と帳面に付けてあります。
   同 二丁目        伊勢屋権三郎
   同 三丁目        南部屋五郎右衛門
   知久町二丁目       紙屋喜三郎   宝永7年免許されました。兵右衛門二男久松と帳面に付けてあります。
   本町二丁目        團屋彦九郎
   番匠町          駿河屋市太夫
   池田町          塩屋治兵衛
   同            釘屋弥兵治   宝永7年米屋弁右衛門に免許されました。正徳2(1712)冬、弥平治と帳面へ願い直されました。
   松尾町三丁目       河内屋源兵衛  文化8(1811)年春、池田町西沢勘右衛門帳面へ願い直されました。
 
一領分中の酒屋は、昔から酒造株を持って造ってきました。米が高値なので酒造高を減らすようにと度々言われました。その上元禄11(1698)年10月また改めがあり、前々の5分1造るように仰せ付けられました。また酒造米高の運上を仰せ付けられました。私領は地頭へ、幕府領は代官へ出し、公儀へ上納するように仰せ付けられました。飯田領分の改めがありました。今までの酒株を53株に定め、元禄12(1699)年暮より酒運上を差上るようにしたところ、宝永6(1709)年より運上は免除されました。しかし酒造米は随分減らされ、株も53株のほか新酒屋は停止を仰せ付けられました。
 
一町中相談の上火事の時、人足支配のため庄屋の下に、水頭2人ずつ決めるように願い出たところ、その通りに仰せ付けられました。1町に2人ずつ家持の年かさの者へ、問屋より申し付け、18町に36人で、この時より始り、これを享保10(1725)年に組頭と言うようになりました。
 
一この時の町方地子米の納高
   一米69俵2斗1升8合2勺     知久町通3町
   一同150俵3斗4合6勺      本町通3町
   一同142俵1斗9升5合8勺    番匠町・池田町
                     田町・大横町
   一同94俵3斗6合8勺       松尾通3町
   〆421俵3斗5升5合4勺
 
一正徳5(1715)6月17日18日は、洪水・大満水で100年来聞いたことのない災害でした。しかし飯田町は別条ありませんでした。
 
一同年11月17日夜、石見守親賢公大坂御在番所において病死されました。相続は一学子親庸公が、江戸表において家督を仰せ付けられました。
 
一享保2(1717)年春、領分人別の改めが仰せ付けられ、町方人数は5081人の内男2653人女2428人
 
一近年村々の道端へ家を建て、城下町同様の商売をし乱れてきている。町方は困窮になったので、集まって相談し訴訟をするべしと申し合わせました。18町のほか城下在郷町箕瀬町は上飯田村の内で、昔ここより愛宕へ自由に上り下りをしていた。70年あまりして谷に成り、人が通ることもできませんでした。愛宕坂出崎の東片側の茶屋は、元禄年中に建てられ、同頭の茶屋は元禄の初に建てられました。野底茶屋は上飯田村の内で、別府村も少しあります。但し川端は元禄年中に建て始めました。長久寺前は享保元年に建て初め、上下山村の内茶屋町は、昔より段々建てました。谷川には老守と非人小屋があります。昔より牢屋があるので、河原者が置かれています。
 
一享保2(1717)年町中よりお願いが出されました。村々の道端に家を建て、城下の商売を奪い、店を出し商いを手広くするので、町方は立ち行かないと申し上げました。吟味の上先規の通りに仰せ付けられました。そして書付を下し置かれました。
      覚
  一村々が乱れてきたと聞いたので、村方相応の商売10ケ条を免許し、そのほかは禁止にする。
  一大工・桶屋・鍛冶屋・紺屋等の職人で、今迄やってきた人は格別とし、これから村々でその職をすることはいけないことにする。
  一今後道端へ新たに家を作ることは禁止とする。若ししかたなく家を建てる時は、願い出ること。その内容により許可をする。
  一上飯田村の内箕瀬町は、城下町の内なので格別とし、山村の内上下の茶屋町や上飯田村の内愛宕坂は城下であるので、別に商売を許し、停止の物の書付を出す。
   そのほか村々百姓家の商売は、左の通り
    一 煮売物    一 餅屋    一 酒     一 刻みたばこ
    一 きせる火縄  一 豆腐・こんにゃく  一 ところてん 一  菓子類
    一 調合薬    一 草鞋・沓・草履
    〆10ケ条
    右のほかは禁止とする。
   享保2年酉11月         杉本所左衛門
                  黒須卯太右衛門
  山村の内上下茶屋町と愛宕坂の商売物禁止の覚
 
一 白木   一 古手   一 呉服類   一 しめ油
 
一 繰綿   一 太物 壱端以下の切売は特別   一 味噌・塩
 
一 紙類 但し小売は特別  一 新しい鍋・薬缶  一 糀
 
一 椀屋   一 葉茶屋 但し小売は特別     一 穀類
 
一 畳表類  一 肴屋   合わせて15品
右の通禁止とします。そのほか新規の家作・職人等のことは、村々へ差出した書付の通り、心得ていること
     享保2年酉11月           杉本所左衛門
                        黒須卯太右衛門
本町通・知久町通・番匠町通・大横町通り・松尾町通り13町と伝町と塩および并肴売買について争論になり、糾明しての裁許
 
一塩ならびに肴を城下町において売買することについては、昔は尾張への通路の村の中追いが、出所より両方の荷物を城下本町通・知久町通・番匠町通・松尾町通りなど買い付けの町々へ付けて来て、町中で買分け、他町の世話焼きはなかった。13町の者ども申し合わせ、寛永年中より2日ずつ廻り市にして、塩・肴の運上銭は古くからの方法により13町内市場町へ納めてきたと申し上げた。伝町が言うには、昔は伝町へも塩・肴の荷物が市廻りで付けられてきた。元来貧しい町なので、市場が立たないと言っても、寛永年中より2日市が定まると、市場は全く立たず、もちろん運上銭も集めてこなかった。この伝町の申分は不法で、今後市廻り運上を納めることは、13町に限るようにする。
 
一2つの荷物の内塩荷物は、13町の内市場へ付けて来て、13町の商人が買い取るようにすること。その日の市の余り塩は、問屋へ卸すように近年申し合わせ、問屋が市場より買い分け、自分の心得で伝町へも買い分けにしてきた。今年の春改めて、市場の余り塩を問屋へ卸しても市場のやり方に任せ、13町のほかは買い分け仲間へ入れない様にすると13の者は言っている。伝町より言っているのは、買い分けのことは、市場でも問屋場でも13町の者一同で買い分け商いをしてきたと言った。これを双法糺明の上、伝町の者どもは、問屋場で調えてきたことは明らかであるが、市場で調えてきたことはかつて聞いていないと言っていた。今後市場の余り塩を問屋へ卸すことはしないようにする。古法の通り市町において、13町の商人が買い分けをし、余り塩があれば翌日の市場へ送ること
 
一肴は寛永年中に廻り市になった時、一両年は市場へ卸し、13町の者が買い分けたが、それ以後市場へ卸すことはなかった。残らず問屋へ卸して、13町の者が買い分けをしている。伝町の者で肴商をしている者は、13町の肴屋の売子分であるので、買い分けをしているのだと、13町では言っている。伝町より言うには、問屋場で肴を買い分けしているのは、以前13町の者と一緒にくじ引きにより買い分けていたからだが、近年乱れてきて問屋場で13町の者が奪い取りにより買い分け商いをしている。長年肴商売をしている者は多いが、売子ということはかつてなかった。今年春になって、売子にならないと肴の買い分けをしてはいけないと差押えるので、双方詮議をしたところ、売子というようなことを言うことはならない。前の通肴荷物は問屋場へ卸し、13町・伝町の商人とも一緒に買い分けをすること。右の通り塩荷・肴荷市場ならびに問屋場で商人が買い分けをすることについて、裁許を出し双方へ裁許状を一通ずつ渡しておくので、長くまもるようにすること
   享保5庚子年7月5日       黒須卯太右衛門
                    高原源八
                    杉本所左衛門  
                    舘野太左衛門
                    阿久津四郎兵衛
         本町通り
         知久町通り
         番匠町通
         大横町通
         松尾町
            右拾三町之者共
                飯田記
 
              番匠町
               わたや庄助
                   持主
              明治18年8月
                  蜂谷所蔵となる
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