「成沢寛経(上田市人)著 1
上田の早苗
写本一冊 」
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「上田の早苗」
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上田の早苗一巻 上田原町成沢寛経翁ノ著ナリ、今鷲見氏ノ蔵
写本ヲ借リテ謄写ス、但此写本ノ表紙ニ上田の早苗[其他聞書綴こみ]トアリテ、
イヅレノ章迄ガ上田の早苗原著に属スルヤヲ詳ニセズ、憶測ヲ以テスルニ、月
窓寺之事ノ章迄ヲ原著ト見ルベキ歟、又此写本ハ広瀬舎頼翁ノ晩年
ノ筆蹟ト見ユレバ、聞書ハ広瀬翁ガ人ヨリ聞知リタルコトヲ筆記セルモノト見ルベシ、
本文ノ上部ニ細書セル文字モ鷲見氏蔵本ニアルガ侭ヲ写記セルナリ、
大正弐年十一月 雪堂生 飯島茂経 識
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上田の早苗 百合舎主人編述
上田といへる地名をもちて家の名とせる人諸書に見えたり、されと何なる
人此所に住めりといへる明証を見す、古人の碑にも留らさるを如何にせん、見
聞にふれたるをかづかづ抜粋して後人の的説を待つ、
一信濃地名考云、大江広元、嘉禄元年に卒す、其子親広、其子佐房、其子上
田太郎佐泰、舎弟上田弥次郎長広等[弘安中の人]其子孫各上田に住す云々、
一古老筆記云、崇徳院御宇 植田太郎頼輔ト云フ人、此所ニ住スと見え
たり、
因ニ系書ヲ見ルニ、六孫王経基ノ五男満快系ノ下ニ此人見ユ、其先植田太郎
公光同又太郎忠光同小太郎氏光ナト見ユ、其シタシキ系ニ夏目松本手
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塚 二柳 依田 泉 諏訪部 諏訪林 飯沼 室賀ナト、此近郷ノ名ヲ冒セシ人
アレハ、実ニ古記モ拠アルニアラスヤ、
按ニ夏目ハ今ノ夏目田ナラン、東鑑ニ国忠信濃国夏目村ノ地頭ニ補
セラルヽ由見エタリ、
松本ハ慶長六年真田家文書ニモ東西松本ノ名見エタリ、
泉ハ近辺ニ聞エスト雖トモ小泉ニ対シテ泉トイフ所アリシナラン、小泉ノ
名モ古タリ、 或ハ筑摩郡ノ泉ナルカ後考ヲ俟ツ、
西松本ハ 東松本ハ 此分郷ハ
鈴子 町屋 寛永二年乙丑ナリ
石神 奈良尾
柳沢
一東鑑治承五年二月十二日知盛卿等於美濃国討取源氏相従勇士頸等
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今日入洛云々、上田太郎重康云々越後次郎重家[越後平氏] 同五郎重信[同上]
神地六郎康信[上田太郎家子]
按此後ニ越後信濃ノ勇士出陣セシナリ、
一一本ニ云 美濃国原刑部少輔秀成領信州上田荘云々、上杉氏関東下向
ニ伴フ、後常陸へ行ク、上州信州常州等ノ土岐氏ハ、此秀成ノ子孫ナリト云ヘリ、
其譜 定親蜂屋孫太郎 師親原彦次郎 師秀原越後守 秀成原刑部少輔
信州上田荘ヲ領
源頼光九代
光定 土岐隠岐守 頼貞伯耆守 頼清伊予守 頼康大膳太夫 康行大膳太夫
美濃国土岐郷ニ住 暦応二年卒 嘉慶元年卒七十
頼重 頼春 頼則(イ夏)
一本郡下之郷ノ社蔵永禄十丁卯年武田家へ信州諸士ノ起請文ノ中北方
衆トシテ上田七郎兵衛常吉ト云フ人見ユ、シカレドモコレハ此地ノ住人ニハアラシカシ、
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一日本霊異記文忌寸ニ上田三郎ト見エタレドモコレハ聖武天皇ノ御宇ノコトナリ、
一当上田城創建ニ諸説アリ、或ハ永禄元年山本勘助縄張、常田オドリノ
唱歌ヲ作リ同四年辰六月十二日初テ踊リ始ムト云々、或ハ天文年中真田
一徳斎幸隆居城ヲ上田ニ移ス、源太左衛門信綱縄張ト云々、或ハ天正十四年
丙戌年安房守昌幸縄張ト云々、此諸説皆トリカタシ、
因ニ常田踊トハ例ノサヽラ踊ヲ云フニテ、尤無稽ノコトト云ヘシ、六月十二日
オトリ始ムト云フモ後ニ弁ス、
一故家秘記云、当城創業ハ天正十一年癸未真田安房守昌幸自ラ縄張アリ
テ、同十二年町割夫々沙汰アリト云々、此説ヲ正トスヘシ、
一一書云、天正十年三月旧主武田勝頼織田家ノ為メニ甲州ニ於テ田野ニ没
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落ス、同六月織田信長公明智光秀ノ為メニ京本能寺ニ於テ被弑タマヒシユエニ諸方
動乱タリ、茲ニ昌幸勇威ヲ近国ニ振ヒ何方ヘモ随身スルコトナカリシカ、佐久郡芦田
城主芦田右衛門佐[芦田本依田ナリ]信蕃ハ早ク徳川家ノ御味方ニ参上ス、然ルニ旧友 タルニ依
リ此信蕃ヲ以テ神君厚ク昌幸ヲ招カセ玉ヒ御誓紙マテ賜ハリシカハ即昌幸御味
方ニ参上ス、時ニ徳川家北条家ト甲州若神子表合戦ノ折ナレハ先北条ノ持主当国岩村
田黒岩城ヲ攻ントテ同十月自ラ二千ノ勢ヲ以テ出馬シ速ニ攻落シ依田右衛門佐信
蕃ヲ入替、直ニ進ヲ軽井沢ヘ出張シ北条家ノ兵粮ノ通路ヲ止メント碓氷峠ヲ取切アレ
ハ氏直合戦自由ナラス、徳川家へ無事ヲ入ラレケリ、是ヨリ信甲両国大略徳川家麾下
トナル、是偏ニ昌幸ノ軍功ナリ、時ニ昌幸徳川家へ申上ケルハ猶此上ニモ忠節ヲ尽ス
ヘキモ、国ノ片端ニ在リテ働自由ナラス、[当時ハ真田或ハ隣村原村ニ住居セシナリ]依リテ国ノ中央へ出諸
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方ヘ取掛リ申ヘクニ城郭ヲ取立ルコト微力ニシテ及ハサレハ御助力ヲ願フ由ヲ言
上ス、神主(君カ)尤ニ被思召御許容アリテ信州ノ麾下ニ命セラレ昌幸望ノ通リ諸家ヨリ人
夫ヲ出シ助成申ヘシトナリ、因之天正十二年甲申信州小県郡常田台ト云所ニ
昌幸自ラ縄張ヲ以テ一城ヲ造建シ之ヲ居城トス、上田城是ナリ、
此地ハ当今城郭ノ西方松立ノ所、蓮池ナト旧跡ナリ又百間濠蓮池ノ間古杉樹
列立スル所追手ト云フ、仍テ今時モ捨曲輪捨堀ノ唱残レリ、[今城ノ松樹ハ多ク寛政年間植タリ
ト云フ]是城慶長五年石田関原乱後安房守昌幸左衛門佐信繁等高野
山麓久度村へ蟄居サセラレシ時ニ城郭破却サセラレシナリ、
一城下町ハ海野村原村等ヨリ移住シタルヨリ町名ヲ其本居ノ名ヲ付タルナリ、
此上田町割家地ハ何レモ能ク鬼門方位ヲ除カレタリトソ、但今常田ヨリ来ル隅ノ家
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ノミ是ヲ除クコト能ハサリシト云フ 、
又城下町割造ノ節一人山ニ登リ[山ハ太郎山口]遠見シ中央ト定メタル建柱トテ埋柱ノ
家ハ配当屋[座頭共ノ役所房山]小路ニ有ヲ見タリ、今ハ如何ナリケン、
仏刹モ其時此処へ移スト聞ケリ、軍記等ニ見エタル、
〇願行寺ハ旧跡ハ海野新田ニアリテ其後今ノ追手御番所辺へ引移シ、[今按スルニ御番所
後石垣ノ裏ニ六地蔵ノ石像一基アリテ松平隼人家庭ノ東追手ノ石垣裏ニ立テリ、霊験著シト云フ、此辺寺跡ト云フモアタレリ]又鷹匠町切通シノ
辺トモ云ヘリ、今ノ願行寺ハ寛永ノ度当城築立[最初ノ城ハ一旦破却サセラレタレハ信幸更ニ築城セシナリ]
節移ス所カ尋ヌヘシ[墓地ヲ検スルニ寛永以前ノ碑ナシ、或ハアリト雖ドモコレハ後年再造セシモノ也]当今ニ至迄海野新田ヨリ
旧寺ノ地子ヲ収ムト云フ、
〇月窓寺ハ常田[コノ常田ハ上田ノ常田ナラデ田中駅ノ常田ナリ]ニ在リシニ八軒町ノ辺ヨリ鷹匠町
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へ移シ来リ後築城ノ時今ノ鍛冶町裏へ移シタリ
〇日輪寺ハ海野ノ興善寺ノ懸所トテ建立セシナリ
〇大輪寺ハ伊勢山ノ畑山ト云所ヨリ移ス
○海禅寺ハ海善寺村ヨリ移シ来リタリ
○伊勢ノ御師広田筑後ノ旅屋ハ[横町]秋和村ヨリ移リ来レリ[○按スルニ旅舎ノ領ノ中
宮跡トイフハ鍛冶町裏ノ田圃ニ在レバ一旦ハ此ノ処ヘ移リ又今ノ地天王屋敷へ移リ来リシナランカ]
因ニ云、天正十三年上田合戦ノ時入城シ加勢ナセリ、彼ノ家ノ記ニハ大ナル一万度
御祓ヲ造リ青竹ニ挟テ出陣セリト、此時昌幸ヨリ鎗ヲ給ハリ今猶存セリ
ト、真田家松代へ処替ニナリテモ埴科郡中村ニ於テ弐百石ヲ供米ノ料ニ賜
フト云フ、
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願行寺門扉ニ矢砲ノ跡アリシヲ後今ノ門ニ作リ替タリ、其古キ板ヲ掛山一滴斎
翁乞得テ仏壇トナスト云フ、近来同寺庫裏ノ南ニ新ニ建物ヲ為セリ、其扉
旧門ノ扉ナリト聞ク、可尋、
其後徳川家ト北条家ト和議整テ甲信両国ハ徳川家ノ有ト定メ上野ハ北条
ノ有ト定ム、然レハ真田昌幸領知上州沼田城ヲ北条家ヘ可被渡趣ヲ真田ニ
被命、右替地ハ信州ニ於テ下サルヘク旨也、此時昌幸申ケルハ麾下ニ属シ候儀
ナレハ替地下サルヽ上ハ沼田城差上可申ト答ケルニ、先沼田城ヲ可渡、追テ替地御
沙汰可有ト再三ノ御使ナリ、依之天正十三年乙酉七月ニ至テ昌幸御使ニ対シ
申ケルハ沼田領ノ儀ハ旧主武田家ヨリモ賜ハラス又徳川家ヨリモ給ハラス全ク昌幸
カ鎗先ヲ以テ領スル所ナリ、去々年以来徳川家へ身命ヲ抛テ軍忠ヲ尽スト雖
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未一所ノ賞禄ヲモ賜ハラス、剰自身ノ武勇ヲ以テ取所ノ沼田領ニ替地ヲモ出
サスシテ召ルヽ事謂ナシ、得コソ差上申間敷ト申切ケレハ、神君御腹立アリテ此上ハ
大軍ヲ以テ上田城ヲ攻ラルヘシトテ同年閏八月二日徳川家ノ軍将鳥井彦右衛
門元忠大久保七郎右衛門忠世同治右衛門忠佐岡部次郎右衛門正綱同弥二郎
長盛平岩七之介親吉柴田七九郎重政其外保科弾正忠正久屋代越中
守政信三枝平右衛門守勝曽根内匠助等並諏訪安芸守下条知久遠山大
原等ノ国人都合七千余騎、安房守昌幸ノ居城上田ヲ攻メタリシニ寄手
大ニ敗北ス、城兵付取所ノ首級千六百三十余級ト云フ、寄手利ヲ失ヒ引退キシ
トソ、
二度ノ城攻ハ慶長五年九月朔日、中納言徳川秀忠卿野州宇都宮御陣
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ヲ御出立アリ、同四日信州小諸ノ城へ御着陣アリテ本多美濃守忠政[中務太輔忠勝ノ男子伊豆守信幸カ甥ナリ]
并真田伊豆守信幸ノ両人ヲ以テ上田城へ被遣和睦ノ扱アリ、[和睦トハ天正十三年来不和ナリシ故ニ扱ヒアルナリ]昌幸
両使ヲ国分寺へ差置御扱ニ応スルカ如き振シテ其間ニ兵粮ヲ城ニ入柵ヲ振リ要害
堅固ニ整ヘタリ、両使ハ之ヲ知ラス相待所ニ、六日ノ夕方ニ相成家臣根津長左(右)衛門
ヲ以テ昌幸返答ニハ、此頃ハ未要害整ハサルニ仍テ御返答昨今延引ノ処、最早手配
調タリ、美濃守ハ縁者、信幸ハ忰ナレハ助度モノナレトモ敵方ナレハ力ナシ、唯今人数差向
ル間用意ナシ相待ヘシトノ口上ナレハ、濃州豆州大ニアキレ此小勢ニテ敵対シカタシ其
上御使トシテ来リ其子細ヲ申サス戦ヲ為スハ不忠ニ似タリトテ夜中小諸へ馳〓右ノ
旨言上ス、秀忠卿大ニ怒リ給ヒテ此上ハ速ニ昌幸ヲ討亡シ上洛スヘシトテ夜中小諸
御進発アリ、相続人々ニハ森右近大夫榊原式部大輔仙石越前守酒井宮内少輔
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本多佐渡守大久保相模守牧野右馬允本多美濃守真田伊豆守石川玄蕃頭ヲ
始メトシテ其勢都合三万八千七十余騎ニテ上田城へ押寄給フ、先酒井右馬允牧野
宮内少輔大久保治右衛門等ノ手ヨリ人夫ヲ出シ城下ノ作毛ヲ刈取、是ハ城兵ヲ引出スヘキ
計略ナリトソ、城中ヨリ是ヲ見テ足軽二百人討テ出、彼ノモノ共ヲ追払ハント戦ケル、之ヲ見
テ本多美濃守カ手ヨリモ大勢助ケ来リ柵ノ木戸迄追入テ相戦フ、時ニ本多カ郎
党ニ浅井小右衛門永田角右衛門ト云モノ先登ニ追テ戦ケルトキニ城中ヨリ木戸ヲ
開キテ突テ出寄手ノ先陣ツキ立テラレケル処城中ヨリ左衛門佐大勢ヲ随ヒテ秀
忠卿ノ御本陣へ一文字ニ突かヽル、如何シタリケン、秀忠卿ノ備色メキ立ケルトキ左衛
門佐勝ニ乗リテ突崩シケリ、秀忠卿大ニ怒リ玉ヒ僅ノ勢ニ対シ逃ルト云フコトヤアル、
返シ合セテ戦ヘト牙ヲ噛ミテ下知シタマヘハ御旗本ノ軍士ノ中ヨリ中山助六太田善
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太夫朝倉藤十郎小野典膳辻小兵衛戸田半平斎藤久右衛門此七人一所ニ踏止
マリテ槍ヲ合セ戦ヒケル、之ヲ真田攻の七本槍ト云ヘリ、又鎮目市左衛門モ取テ返シ彼
ノ輩ト同シク戦フ、然処大久保相模守本多佐渡守秀忠卿ニ申上ルヤウ、纔ノ小城
ニ御勢ヲ費シ玉ヒ大事ヲ前ニ置テ空ク日ヲ経玉ハンコト如何ナリ、先軍勢ヲ引上ラレ
上方へ御急キ可然由申ニヨリ、秀忠卿御馬ヲ小諸へ帰シ玉ヒ、上田ノ押トシテ森右近
太夫ヲ小諸ノ城ニ止メラレテ木曽路ヲ登リタマフ、サレト和田嶺ハ越ラレス、役ノ行者ヲ通
リタマフ、榊原式部大輔ハ其勢二千余人ヲ引分テ直ニ和田峠ヲ越テ濃州ヘ赴ケル、
諸人其勇ヲ感ストイフ、
去程ニ九月十五日濃州関ヶ原ノ一戦ニ上方勢敗北シ、石田ヲ始メ諸将滅亡ノ聞エ
アリケレハ、昌幸信繁父子上田城ニアリト雖モ之ヲ聞テ少モ勇気ヲ落サス、今ヨリ
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天下ノ勢ヲ敵ニ引請討死セント覚悟シテ、玉薬ヲ用意シ兵粮ヲタクハヒ防戦ノ軍
議専ラナリシ所ニ、嫡子伊豆守信幸身命ヲ抛テ父弟ノ助命ヲ御免ノ儀御
訴訟再三奉願ラレケルニ仍テ、神君モ其忠孝ヲ御感ノ余リ別儀ヲ以テ安房
守左衛門佐ノ一命ヲ御助ケアリテ、両人ヲ高野へ遣シ可申旨命セラレケレハ、信幸
難有由御請アリテ則両人ヲ紀州高野山ノ麓久度村へ蟄居サセラレタリ、其節
上田城郭ハ破却セラレ、尋テ昌幸ノ領地上田并上州沼田ノ地ヲ合セテ高九万石ヲ
改テ伊豆守信幸ニ賜ハリタルニヨリテ、信幸ハ上田ニ住居シタレトモ既ニ城郭破却
シタレハ屋敷住居タリ、今戦国ノ中ニ城郭ナキハ如何ナリトヨリく城郭取立ノ用意
アリ、台命ヲ得スシテ城郭ヲ修覆セシトノ御不審アリタリトソ、[此事ハ小諸ノ城主仙石家ヨリ密々注進セシト云フ、]
然トモ別格ノ御沙汰モ無カリシトコロ、元和八年壬戌八月廿日、加恩四万石アリテ
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上田城ヲ松代へ処替ヲ命セラレタリ、此時上毛沼田城地ヲ合セテ都合十三万石ノ領主トナレリ、[処替ハ必竟城郭修覆ノ罪ナリシト聞エタリ、]
一元和八年十二月、仙石兵部少輔忠政小諸城ヨリ上田城ニ転ス、小県郡村数八十五ケ村
高五万石、更級郡川中島ニ於テ更ニ八ヶ村高一万八十八石八斗五升三合、都合六万
八十八石八斗五升三合賜ハリタリ、仙石忠政上田城主トナリタレトモ城郭ナキヲ深ク
歎キ、居城築立ノ儀ヲ奉訴シトコロ、台命許可ナリシカハ大ニ歓ヒテ、元和九年
細川越中守忠興[入道シテ三斎ト称ス]ノ縄張ヲ乞テ、翌十年ヨリ土木ノ功ヲ始ム、此時金六万
両拝賜セリ、城主大工ヲ集メ四民速ニ工ヲ成サントス、同十年二月寛永ト改元アリ、二年
ニ至リテ本丸門塀櫓迄成熟ス、二丸ハ堀土居敷ノミ成リテ塀櫓ノ功未成ラス、半途ニ
及フ折、故アリテ城郭築造中止スヘキ台命アリ、依テ拝借金ノ中半数ヲ返納セリト
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云フ、
此時築城総奉行ヲ原五郎右衛門ト云、[采地五百石]南裏手千曲川岸ニ近シ、後年水
害アラハ城地缺ヘキコトヲ慮リ、十五間北へ退キ築ヘシト云フ、諸臣是ヲ難シテ此川
岸岩石ノ如シ、何ソソノ憂アラントテ、已ニ争論ニ及フ、依テ中心ヲトリテ七間半ヲ退テ
縄張ヲ極メ築タリト云ヘリ、元和十年ヨリ享保十四年迄凡百余年、年々洪水ノ
為ニ岸ヲ嚼マシテ岸ニ塁地少ク成タリ、原氏ノ先見明カナリト云フヘシ、
一古老筆記ニ此築城ノ節、近辺ノ墓碑ヲ悉ク持運テ石垣トナスト云リ、按スルニ塁中石
碑多シト云ヘリ、今墓地ニアル碑ハ元和頃ヨリ古キヲ見サルヲ証トスヘシ、
一或ハイフ、稲葉丹後守正勝縄張ト云、[今淀侯ノ先祖嫡子ヲ正則ト云、春日局ノ夫ニシテ後小田原城主トナリ八万石ヲ領セリ、寛永元年ハ二十八歳ノ時トセリ
若年ト云ヘシ、]
(改頁)
一今追手ノ石塁堀等ハ此時ニ造ラレタリ、其以前ハ此辺ニ笠縫ヒ職人居タリ、故笠町ト
唱ヘタリト古老筆記ニアリ、
一当城ヲ(尼ケ淵)(松尾)ト云フ、又(伊勢崎)ノ名アリ、按スルニ往昔ハ千曲川ノ急流塁
下ニ漲リ淵ヲ為ス、然ルニ寛保二年壬戌ノ洪水、城塁ヲ浸タス、此後堀村ニ於テ〆
切リヲ築、依之千曲川年々退キテ城類ヲ隔ツルコト七八丁ニ及ヘリ、然トモ今ニ至リテ
塁際ハ沼ニ成居、尼ケ淵ノ名残アリ、松尾ハ旧真田家ノ真田村ニ在リシ城名ニシテ真
田昌幸移リ来リタレハ、又当城ヲモ松尾城ト云フ名ヲ用イタリ、
一伊勢崎ハ伊勢山戸石城ヨリ移スト云、或ハ矢鼻ノ虚空蔵山ヲ伊勢崎城ト云ト云ヘリ、
○因ニ獅子踊ノ事、寛永度地築ノ節常田房山両村コレヲ始ムト云ヘリ、然ルニヨリテ、
(改頁) 12
仙石家ニハ慕ハレ、此土人ヲ出石ニ召サレ稽古カリシカト、土地ノ習違ヒ習得ルコト能ハス、
仍其舞状ヲ絵キ屏風ニ仕立、年々六月十二日、侯ハ正服ニ改メ、屏風ニ対サルヽト
云ヘリ、不審
六月十二日ハ仙石家在城ノ時ノ祭礼定日ナリ、今ニ於テ其例ヲ失ハス、児童獅子ヲ舞、
幼者〓ヲ牽クナリ、又祭礼ノ節海野町ノ御船ニハ、社人柳澤氏来リテ奉幣
シ、原町御山ニハ、原ノ社人押森氏来リテ祭典ヲナス、コレ往昔ノ典故ヲ忘ケサラシメン
カ爲メナリト、
獅子踊リノ振リニハ、常田村ノ人片岡助兵衛ト云フモノ附タル所ナリト伝フ、此人
慶安元年戊子八月十九日歿ス、法名(悟岳宗入禅定門)ト云フ、月窓寺旦那
ニシテ墓ハ常田村共有墓地字社宮司ニアリ、
(改頁)
獅子踊唱歌 常田
御門の脇の金桜 黄金の花の咲と申す
廻り廻り三の郭を遅く廻り出端(デハ)に迷ふな
廻り来て是の御庭を詠むれバ黄金小草が足にからまる
廻り来てこれの御庭を詠むればいつも絶せぬ鎗が五万本
級よくかつげいつまでかつがすいざやおろせ
五万本の鎗をかつがせ出たならば安房と上総はこれの御知行
オヲ天王の四つ柱ハ白金で中ハ黄金デ町がかゝやく
御門のわきの金桜こがねの花が咲と申す
房山
(改頁) 13
御門の脇の金桜 こかねの花か咲とな
玉の簾を捲上て廻る小簓(サヽラ)をお目にかけます
廻り来てこれの御庭を詠むれハ黄金小艸か足にからまる
廻り来て是の御門を詠むれは御門とひらのせみや唐金
品よくかつけいつまてかつかにいさやおろせ小簓
廻り来て是のお厩詠むれハいつも絶せぬ駒か千疋
我国の雨のふる気の雲かたつ御暇申て戻れ小簓(コサヽラ)
御門の脇の金桜 こかねの花か咲とな
(改頁)
○常田大宮の社地に雨覆して有神木ハ、はやく枯たるより何の木なるを詳にせ
さりしに、同社伝に曰、
朝日さすいつき(○○○)か本の宮柱御代を久しく守るしるしに
といふ古歌に依りて槻の木なる事を知れりといひ伝ふよし、上田古老談、嘲ふへき
附会説なりといへとも書添、
一右の古木は、元は染屋台にありて朝日蔭に壱里余を覆ひたりとそ
(改頁) 14
一真田一徳斎幸隆ハ、後柏原天皇ノ御宇永正十年小県郡真田ニ生レ、六十
二年ニシテ天正二年生所ニ卒、日五月十九日、真田山長谷寺ノ後山ニ葬ル、
一徳川家康公ノ上田城攻ハ、天正十三年八月二日矢合なり、秀忠公二度目ハ慶
長五年九月七日ナリ、或ハ秀忠公七月二十四日江戸城ヲ進発シ、八月三日小山ノ陣
ヲ立、五日小諸城へ入ルトモ書リ、尚可尋、
小諸城花見櫓ノ前ニ秀忠腰掛石手植ノ柳アリ、
一真田村ト原村ノ往来ニいつとう坂ト云坂アリ、是ハ真田一当斎昌幸ノ居館原
村境ニ物見番所アリタル跡、今現ニ礎アリ、其番所ヘ一当斎自身ニ出居
ナシタリシ故ニ、其前ノ坂ヲ通ルモノハ、一当斎殿ノ前ナリ下馬スヘシト云ナラシタ
レハ、頓(頃)テ邸主ノ名ヲ以テ坂ニモ名付シト伝フ、
(改頁)
国衙ハ小県郡ニアリシ考証
一国衙ノ所在未詳ナラスト雖、諸国府ノ下ニ国分寺ヲ建ルコトハ、天平九年ノ制ナレハ、則国
分寺及尼寺トモニ本郡中ニ建ラレタレハ、扨ハ古ノ府庁、国衙ノ所在タリシハ論
ナク本郡タルヲ知レリ、然トモ今其所在地ヲ逸シタレトモ、恐ラクハ上田町近辺ナリシナ
ラン、里老曽テ伝云フニ、国分寺辺ヨリ北西ノ平坦地方二十丁余ナリ、其又台ノ上
モ東西十二丁余、南北十丁余ノ平坦地アリ、今ハ孰レモ水田トナリ居レトモ、溝
ノ通シ又区画ノ方正ナル、必壱丁毎ニ溝渠ヲ通シ、然シテ此辺ノ字ニ政所等ノ名
ヲ存セリ、果シテ然ランニハ此郡ニ政庁ノアリシハ奈良ノ都ノ頃ニシテ、延暦遷都
後ハ松本へ遷リタルモノト考フ、世ニ松本ヲ新府ト称フルヲ以テモ知ラル、[松本ヘ遷リシモ何頃ト
云フハ詳ナラサレトモ、今想フニ木曽路開ケテヨリ同所ハ平城都ニ幾分カ道モ近ケレハナリ、]
(改頁) 15
一今本地ノ土味ヲ〓スルニ、究メテ薄地多カルニ、田ノ位ノ高貴ナル、郡中最一
タリ、凡城市繁栄ノ地ハ其地価多ク、随テ正租税モ多キハ必然ノ理勢ナリ、故古ク
都会タリシヲ思フヘシ、
一諸国造ヲ廃シ国司ヲ置レシハ 御宇ナレトモ、其後和銅元年三月
従五位下小治田朝臣宅持ヲ、信濃守ト為ストアルヲ以テ始トス、則本郡ニ来リ
治メシモノナラン、
一郡令ノ事ハ他田舎人
続日本紀宝亀四年信濃国小県郡跡部ノ人他田舎人蝦夷云々、[日本霊異記ニ法華
行者蝦夷アトヘノ人云々、]按スルニ本郡跡部ノ地未詳、或考ニ跡部ハ当郷ナリ、とトたト
仮名違へトモ、跡(アト)ノあヲ省キとトイフ、即チとノ郷ナルヲ音便ニたう郷トヨビ
(改頁)
来リシナルヘシ、其証ハ今当郷ト境ヲ接スル室賀ノ山辺ニ、字五位冢ト云又
藤塚トモイフ古墳両三基アリ、孰モ石質同シ物ニテ当国ノ産石ナラス、必他
国ノ石ナリ、世ニ云フ伊豆石ノ類ナリ、之ヲ他田舎人藤雄ノ冢ナリト伝フ、
此舎人ハ天平勝宝年間ノ国造他田大島ナルカ、将其子孫ナルカ詳ナラス、天平
ヨリ八十四年ヲ過テ、貞観四年権少領外正八位他田舎人藤雄ニ外
従五位下ヲ授クトアリ[三代実録]、又ソレヨリ七十六年過、承平八年ノ将門記ニ、
他田真樹ト云当国ノ将士アリ、孰モ国造ノ末ナルヘシ、
一右ノ冢ハ今上室賀村字原畑ト云フ処[古城跡ヨリ二丁西ニアリ、古図ニふる木ト云フ所ナリ]古碑数基ア
リ、其大ナルハ丈三尺幅一尺二寸、中ハ丈二尺六寸巾一尺一寸、小ハ丈弐尺巾一尺弐
寸三分、其外丈五寸六分巾三寸八分、皆梵字蓮華等彫リタレトモ、十分分明ナ
(改頁) 16
ラス、此石ノ厚サ孰モ弐寸ヲ超ルモノナシ、遠ク駄シ来リシモノナラン、色ハ青石ナリ、
里人ハコレヲ、オサタサマ又五位冢ト称セリ、
一本郡生塚村ノ内ニ殿屋敷ト称スル処ハ、他田氏ノ宅地ナリト伝フ[御所村モ他田真樹
ノ将門討伐ノ頃ノ住居地ナリト云フ伝アリ、尚尋ヘシ、]今モ塩尻村ノ用水ニ 他田ノ通
シ水ト云フアリ、同氏ノ土工ヲ起シテ土民ヲ助ケシハ、累世地方ニ豪族タリシヲ知ラル、
一大宮ノ社頭ニ六所明神社アリ、コノ御社ハ国衙ノアル地ニ祭ル神社ニシテ[按スルニ
御饌津神ナルヘシ、神社ノ取締ヲ禄所トモ云フ、]国内ノ豊作ヲ祈ル所ノ由ヲ伝フ、然レハ六所ニテハアル
ヘカラス、必禄所神社ナルヘシ、禄ハ衣食ヲ通シテ称ス名詞ナリ、
今大宮ニ枯樹ノアルハ、其昔禄所ノ社木ナリシト云、槻ノ大樹ナリ、周囲枯
タレトモ猶ハ圍アリ、以テ大木ナリシヲ知ルヘシ、
(改頁)
一永正四年八月二日ノ千曲川洪水□賀崎ヨリ尼ケ淵へ激流シ来リ、堀村常
田踏入等悉ク水中ニ陥リ、諏訪部諏方形小牧御所村々モ同シク水ニ侵
サレタレハ、小牧諏訪形御所諏訪部モ悉ク川ヲ遠ク退キテ村落ヲ成セリト
云フ、今川原畑ニ成リタル所ハ、スヘテ村立ナリシトナリ、
諏訪部ハ中之条村ト僅ニ千曲川ヲ隔テ、夜間婦女子モ容易ニ往来シ、糸
繰車抔ヲ持テ互ニ交リタリトソ、又天文十年モ大水アリ、近頃寛保二年
ハ又々大洪水ナリキ、其度々ニ地勢変更セルハ論ヲ俟タズ、今ヲ以テ妄リニ
古ヲ度ルベカラサルナリ、
因ニ本郡八郷[倭名抄]ノ内上田ハ諏訪郷ニシテ諏訪部ハ其本郷ナリ、
部ハムレニシテ今村ト云フニ同シ、延喜式ノ駅路ノ「ワタリ」ノ駅ハ此諏
(改頁) 17
訪部ノ中ニアリシニ、何時ノ洪水ニヤ流失シテ僅ニ古渡リノ名字ヲ存セリ、
[古渡リハ古図ヲ按スルニ、スハベノ大神宮社地ノ辺ニ当レリ、]
一海野幸好[幸善ナリト云フ]新田義宗ノ義兵ニ従ヒ、碓氷峠ノ戦敗レ、海野へ引入シ
カ、此地ノ防戦ニ便ナラスト、同族常田次郎幸豊カ上田ノ居館ヲ城トナシ、
海野城ト唱ヘタリト[信陽一統誌ニ上田ハ三百六十丁ノ台ナリ、甚繁栄ナレハ海野城ヲ築クト有リ、]今云フ、城郭ノ如キニハ
アラス、太平記ニアル城ハ三井寺園城寺ノ城ナトヽ云フノ類ニテ、則武備ノ為ニ
柵逆茂木鹿垣ナト結廻ラスヲシロト云フ、神ノ御殿ヤシロト云フモ屋実(井ヤシロ)ニ
テ千木高キ屋アレハ、必其中ニ天ノ御蔭ト神ノ居玉フヲ云フノ類ナリ、
一今権現坂ノ上ヲ字内城ト云フ、則常田氏居館ノ跡ニシテ権現ハ熊野
ノ大神ヲ祭リテ常田氏ノ氏神ナリト伝フ、
(改頁)
一常田出羽守隆幸ハ、真田系図ニ海野左京太夫棟綱ノ三男ニシテ真田
幸隆ノ弟ト云、
一常田七郎右衛門綱方ハ、永禄十年八月七日附ノ下ノ郷ノ起請文中ニ見エ
タリ、
一常田図書ハ天正十年ノ古記ニ其名見エタリ、此頃ハ真田昌幸ノ手ニ属シ
タリ、
一常田伊予隆永[信幸代ニ浪人セリト云フ、]
一元和元大坂夏陣高名ノ内ニ常田図書内ニテ喜内首壱ツト首帳
ニ記シアリ、
一討死ノ内ニモ常田左京ト云フ人アリ、
(改頁) 18
月窓寺ノ事
寺伝ニ云フ、常田隆永永禄元年易叟国賢和尚ヲシテ常田庄ニ寺一
宇ヲ建立シ、之ヲ伝叟山月窓寺ト云フ、天正十三年ノ上田合戦ノ時、池田
長門守ノ手ニテ焼込ス、其後城内鷹匠町へ移庵セリ、天正十五年常田
出羽二代久谷樹昌和尚ヲシテ鍛冶町へ再建セリ、月窓寺ト号、其
後慶長七年樹昌和尚寺ヲ焼テ退去セリト云、
一里伝ニ云フ、真田幸村高野山へ蟄居シテ伝心月叟ト号シ、其後大坂戦
死後家臣ノモノ幸村ノ馬具ヲ持来リ、鷹匠町ノ小庵へ納メ菩提ヲ弔フ
ト云フ[此馬具後ニ亡タリ、]此家来ハ青柳清庵林庄右衛門ト云フモノニ命シテ、形見
ノ品々ヲ月窓寺ニ送リ納メシタリト云フ、月窓寺ノ号ハ幸村ノ法号ノ
(改頁)
月叟ナランカ、此時代ハ憚ル所アリテ実説ノカタリ洩シ多カルヘシ、
一都遅久礼鏡[書名著者 〓] 昌幸ノ〓所アリテ廻リニ広サ八九尺ノ堀ノ跡アリ云々、
[コレハ何国ニヤ、恐クハ真田カ]
一天正八年三月九日真田昌幸蓮華定院ニ与フル書中ニ、真田郷貴賤高
野宿坊之儀、如前々異儀ナキ云々、此文書ニヨリテモ此時ハ未昌幸等真田村ニ
居タリシヲ知ルヘシ、
(改頁) 19
○保野ニアル古書ト云フモノハ本書ニハアラス写シナリ、其文ニ曰ク
申渡覚
小県郡保屋野村塩野神社神主与太夫同郡宿海道村子檀嶺神主
丹下筑摩郡立川村白山神主孫太夫
今般布引山御軍用不参之旨達上聞、不届之至曲事可被仰付之処、
為神職之条被為免候、向後急度二男三男抱之者迄、着到可有之条、
仍テ御下知如件、
武田徳栄軒信玄 花押
御役所
小県郡保屋野村役人長作殿
(改頁)
同郡宿海道村役人次平殿
筑摩郡立川村役人源右衛門殿
(改頁) 20
一諏訪郡祝三家と云ふことあり、其姓を 神 大 源 なり、
これハ上諏訪ニ鎮り、由緒健御名方刀美命御子伊豆速雄命か裔を神といふ、
大同年中有員の代に大祝となる、これを御表衣(ソソノエ)祝といふ、其子武員より七十
三代頼宗に至る、是上諏訪大祝の家なり、○守矢氏ハ茂里矢の神の裔にして、
神長官の家筋なり、垂加艸にいふ有賀は信州諏訪郡の郷名、其先諏訪明神
より出、神子三人、兄ハ諏訪に居り、中ハ有賀に居り、季ハ真志野に居り、因て氏
とす、諏訪氏大祝を置く、有賀氏大市を置く、明神に仕奉る之を神家といふ、
家法に諏訪氏断れハ則有賀氏之を継くへし、有賀氏断れハ則真志野氏之
を継くへし、其裔今に聯々なり、鎌倉の平義時のとき、有賀四郎其子
五郎共に仕ふ、子孫相続して備前守満重の世に至、満重より爾後満の字
(改頁)
を蒙云々、大草子に神家一族三十一人と見ゆ、
大姓は金刺なり、下諏訪の人、本文に所謂建五百建命健御名方命の裔、
会地早雄命の女阿蘇姫を嫡妻とし、速瓶玉命を生む、大の祝の祖なり、爾
来数世詳ならす、貞観五年九月、諏訪郡人右近将監正六位上金刺舎
人貞長、大朝臣の姓を賜ふ、神八井耳命の苗裔なりと三代実録に見え
たり、貞長の子長清より十九代の孫堯孫、慶長年中故ありて故国を去り、
往く所を知らす、大の祝の家茲に於いて絶たり、竹居祝は善政の子豊政を
して権りに其職を襲かしむ、爾後五官祝及諏訪藩の士族の子弟、年十五
歳に満たざるものを選て職を襲ハしむ、宝亀三年水内郡金刺舎人若
麻績等八人に連の姓を賜ふ、源性は藩翰譜に 按するに信濃守為公の
(改頁) 21
裔にて諏訪右兵衛尉源盛重入道蓮仏大祝と称し、諏訪郡を領す、因て氏
とし、諏訪三郎左衛門尉盛経ハ東鑑に見ゆ、後連綿として神姓を称し、一連寺
過去帳天文八年十二月九日、永明寺殿西国昌庵主諏訪安芸守神頼満等
あり、又一番に大神(オホカ)ノ姓と記す、
(改頁)
○享保十五年十月八日夜、横町より失火して海野町原町迄焼失す、斯の
時の火事程大きなる火はなし、上田始りてよりの火災なり、此時奥坊山林
の良材を悉く伐出して火災の普請料に下されたり、
因曰、明治二巳年八月百姓暴動放火の時海野町本陣柳沢太郎兵衛
方へ放火し、其火海野町より横町下丁原町上町悉く焼失したれハ、享保
の例によりて大久保山林の良材を下され家宅を建られたり、
○上田町報時鐘[元禄年間仙石越前守新調せりと云]鐘守三名つゝ仲間を□し、内一名は時計
の間に詰居て、時計に従て鐘楼に駈着、昼夜十二時を報、内三声を〓音(キヲツケ)
といふて時数の外なり、例へていはゝ正午九時を十二数を打て注意するを
いふなり、
(改頁) 22
一丈五尺厚サ四寸直径二尺八寸
銘
元禄十四辛巳歳九月吉日
武州江戸深川住
御鋳物師
太田近江大掾藤原正次
右の外に文字なし
(改頁)
小県郡中聞書
一郷社馬背神社上下二社[祭神諏訪大神]鎮座馬越、この村は先年浦野
駅の上の山に民居なせしも、浦野駅に合村して宿駅の名は浦野と云、村高の外
も百姓居村に就ては、総て馬越村といひ来れり、
一同村の内に山王といふ字ありて東昌寺の門の前辺の由、建久中ハ日吉山王の
御厨舎御領なりしに因り、日吉山王の社ありしなるへし、然を此社後世殿戸村
へ引移り、今は殿戸の産出神となり給ふ、
一殿戸は浦野に何か縁故深きにや、村中悉く東昌寺の檀徒なり、
一村松郷の内に大永寺(オホイジ)といふ寺ありしが、今ハ廃して字のみあり、
一上田原の田圃中にさんへい塚といふ古墳あり、大サ径り六間余、但場所は村
(改頁) 23
社石久摩神社々地より東へ一丁余離る、
一沓掛の温泉を小倉の湯といふよし、
一塩田庄は最勝院御領と東鑑
塩田北条陸奥守或は武蔵守義政、建治三年丑五月二日、塩田庄ニ閑居せり、
[この閑居地ハ前山村なり、今別所といふ名ハ、惟茂将軍の別所
なりといひ伝へたれとも、予は塩田家の別所なるへしとおもふ、]
一塩田八郎高光、五加城に居住せりといふ、これは北条氏族なるへし、
一洗馬(アラヒウマ)庄 蓮華王院御領 ○小泉庄 一条大納言家御領 ○常田庄 八条院御領
○海野庄 殿下御領 ○岡田庄 八幡社領
一和名鈔四巻 小県郡郷名 童女(ヲムナ) 乎無奈 山家(ヤマカ) 也末加 須波 須波
跡部(アトヘ)[アベを省トノ郷 当郷 タウト仮名違ひたれどもこゝならん] 福田(フクタ) 布久多
海部(アマムベ)安末无倍 安曽(アソ)阿曽
(改頁)
余戸(アマルベ)[ 阿末留倍なるべし]コレハ余戸(ヨト) 以上八郷○此内須波ハ今諏訪部を本郷と
して、西は下塩尻より東北ハ神川を限り、南ハ千曲川を渉りて下之条中之
条御所村諏訪形小牧を云ふなるへし、
○跡部ハ今の当郷にして浦野以西郡界まての谷間村々、即ち浦野組の
内越戸(コウト)以西なり○福田郷に属するは仁古田より以東、小泉村上田原神
畑築地等ハ福田郷なるへし、
○安曽は別所野倉山田より旧塩田組の内奈良尾町屋を除きては悉く
安曽郷なるへし、
○海部ハ産川以東余ルベにして、奈良尾町屋なるへし
○余戸アマルヘには非ずしてヨドなるべし、今依田(ヨダ)といふ分ハ悉く此郷中な
(改頁) 24
るべく、南ハ和田より北ハ千曲川界迄なり、
○童女(ヨムナ)ハ海野にして、東ハ片羽芝生田井子糠地より、北は中吉田森漆戸
矢沢赤坂下郷林之郷、西は大屋岩下神川界迄なるへし、
○山家(ヤマカ)はヤマヤカにて、四阿山の形象屋上の形より名を得て、大日向より西の原、
北は洗馬三ケ村をいひしなるへし、
以上八郷の大略なり、猶別図の如し、
(改頁)
大火之事
一享保十五年庚戌十月八日之夜、横町より失火して海野町原町まて延焼せ
り、[此大火ニ付、大久保山口御林より材木伐出し類焼人江被下、]
一同月廿五日朝、御館炎上す、御馬屋も焼け家中類焼、
明治二年八月十七日、浦野組沓掛村辺より農民蜂起して物価高直(値)、弐
歩金閉塞を名として、村吏之宅を破壊焼払乱暴之末、上田城下へ
来り、問屋太郎兵衛宅へ 海野町本陣 放火して、海野町横町原町へ延焼
せり、[此時も享保の例にならひて大久保山御林より材木被下たり、]
洪水之事
一寛保弐年壬戌七月より霖雨して八月朔日洪水、祢津金原山崩れ
(改頁) 25
常田村五丁流失せり、
一田中駅溺死者六十三人、家の残り九軒、
一加沢村九軒流亡、村中河原となる、溺死十五人
一祢津大半流失、溺死人六十人余之由、
一金井村皆流失、溺死人百八十人余、此村最第一之惨状
一栗林村之内大川八軒流、溺死一人
一東田沢八軒流失、溺死人六人
一大屋村七軒流失、溺死七人
一海善寺村大半流失、溺死四人
一中曽根村大半流失
(改頁)
一堀村大抵流亡、溺死未詳
一本海野村宿中床上三尺余泥入、溺死十一人
八月二日三日四日とも焚出し、四百余人之食事を出、
小諸町之水害ハ夥敷事にて、溺死人計りも千人余、寺三ケ寺流失、町
家之流亡未詳、
右之洪水ハ天文年間以来之洪水にして、当郡諏訪部河原に流留る溺
死人夥敷と雖、誰某の見認もなく、無拠領主役場にて之を取纏め、
秋和村正福寺之境内に一塚を築き墓碑を建て、唯溺死人之墓とし
て吊祭をなせり、
百姓一揆騒動之事
(改頁) 26
一宝暦十一年辛巳十二月十二日、百姓騒動なす、同月十一日夜より浦野組夫
神河原より起り、翌十二日御城下大手へ迫り強訴に及ふ、郡代家老岡部
九郎兵衛之を鎮め、即刻出府、同月下旬迄ニ事落着せり、
一明治二年八月十七日、又々百姓騒動して城下に迫る、領主出馬、翌十
八日鎮定、
此時之放火ニ付類焼したる、海野町原町横町等なり、
(改頁)
上田神社拝殿再建之年度[明治二十六年営繕之当町所在之拝殿]
丸山忠右衛門覚書之抜粋
文政二年大星之拝殿之普請始る、但今年より十九ケ年前之を催し、
其当時氏子より五ケ年間ニ有志積立金をなせり、当家にても金五両
出す。
此時之庄屋 兼子七郎右衛門 添役兼子愛喜之助[兼帯諏訪部]田中
作左衛門山口村庄屋望月吉作
一同家之日記
文化七年三月廿四日夜九ツ時過、瓦焼龍法院より (図略す)
出火、瓦焼西之方へ両側類焼、房山迄類焼、明
(改頁) 27
六ツ時鎮火、居宅五十八軒、棟数三百六十
(改頁)
山口村弥五之社之考
弥五社は津島天王之摂社にして、同社より先年分霊せりと伝ふ、
按するに津島天王略記ニ曰ク、弥伍郎殿[南門之内東西ニ立]拝殿あり云々、
弥五郎とは堀田佐兵衛尉正泰(マサヤス)の通称なり、南朝正平頃の人
なり、今の右馬太夫の遠祖なりとそ、
右社務ハ堀田右馬太夫司之
右之書に拠りて考るに、当社の位置は、元所在之山口分弥栄社の東へ隔
つる事二三丁計の岡の森にあるを以ても、津島之分社なる明かなり、抑
堀田右馬太夫ハ、累代津島の社務職にして、当地方へ古くより津島の守り
札を配し、米銭を初穂とし、疫病除の祈祷をなせは、恰も伊勢の御師職
(改頁) 28
の各地方へ皇太神の大麻を配賦し、米金を初穂とし、其便宜の地方へ
旅舎を建て、其所にて諸事を執扱来りし如く、右馬太夫も又配札之都
合上如此なし来り、旅舎ハ丸山忠右衛門宅ニ定め置きて、房山山口の
家毎に配符せしよしなれバ、其上世何頃にか、彼の天王の社地接近の
処へ、己か祖先の神霊を鎮祭せしが、其創めなるへし、
伊勢之御師の旅舎にも必皇大神宮を建て崇敬せるに同し、其他
鞍馬山愛宕山等も皆諸国に旅舎あり、
(改頁)
茂経曰、コノ以下ハ成澤寛経翁ノ説ナルコト論ナシ
房山 もと山口村と一村なりしか、いつ頃にや分村して其地犬牙の如し、[右両村の
人家田畑等多く入交り居て区別に苦しむ程なり、是ハ全右分村之際、村に備置ける名寄帳
にて分けたるもの也と思ハる、 保誠考]
大星神社祭神諏訪大神と云、真田家御在城の時は鎮守と崇め
玉ひしとなり、武田家真田家古文書数通、社家小野氏今尚蔵す、
此里宮村落中にあり、文化七年三月廿三日夜、火災ありて数丁延焼
す、時に此宮火中に在て更に軒端も焦かれす、衆人現に神意の厳なるを
仰敬したりき、本社の丑寅一段計去て古墳あり、形官車の如し、低き
方に二子明神といへる禿倉あり、霊験いちしるし、高き方に宝永(暦)年間秋
葉権現を勧請し、四方のなだれを切たて石を塁み、南面に階を設く、
こゝより甑を堀出す事あり、最上古の状見るへし、文政の頃北面の石垣
(改頁) 29
崩れたりしに石槨顕れたり、依て陵なることを知りぬ、按に下諏訪に大
塚明神と崇る冢全く此形なり、[又青塚とも云]おもふべし、寛経ひそかに曰く、
かしこくも諏方大神の二の御子出早雄神の墳にて、二の御子塚を二子塚と
唱□りたるならんと思ハるゝか、いかゝあるへき、後の考をまつ、上にもいへる
此御神の御社原村にも有て、いつへいととなふ、出早男神の御弟神片倉
辺命のは佐久郡片倉にあり、
「上田の早苗」と表記せる一写本
これにて終る