図86.津軽信政画像
信英は、分知を受ける領地について津軽信隆(のぶたか)ら宗家重臣に選定を委ねた。その結果、まず、黒石(くろいし)領分と外浜(そとがはま)の平内(ひらない)領分が内定した。さらに六月下旬から、これらの地域の検地が実施され、七月下旬に終了した。その結果、黒石領分二〇〇〇石、平内領分一〇〇〇石が打ち出された。これに不足分として上州大舘領分二〇〇〇石が加えられ、八月七日、本藩重臣の連判による知行目録が出された。この時の目録によれば、領地の内高は一万石を超える(同前)。この分知配当は、幕府の命によって本家の所領を分割配当された「内分」であり、信英の領地はあくまでも津軽領の一部であるとみなされた。また、『寛政重修諸家譜』に弘前津軽家が分知後も「なを四万七千石の軍役をつとむ」とあることから、幕府が「奉公」として諸侯・幕臣に課す役負担も、本藩が従来どおりに負担する形式をとった(浪川健治「黒石津軽領の性格と支配」『弘前大学国史研究』七八)。
図87.黒石領内図(上)と黒石領平内之図(下)