信政の襲封と黒石分知

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暦元年(一六五五)十一月二十五日に津軽信義江戸で死去した(資料近世1No.七六一~七六五)。翌年二月二日、幕府は信義の嫡子信政(のぶまさ)に対して跡目相続を許すとともに、二代藩主信枚の次男(信枚とその正室満天姫の子)で信政の叔父にあたり、寛永十九年(一六四二)に幕臣として召し出されていた(同前No.六四五~六四七)津軽信英(のぶふさ)を後見として、五〇〇〇石の分知を命じた(同前No.七六六~七七二)。これに伴い信英が幕府から支給されていた蔵米三〇〇俵は返上を命じられ、また津軽家からの蔵米一〇〇〇石支給も止められた(『黒石市史』通史編I)。

図86.津軽信政画像

 信英は、分知を受ける領地について津軽信隆(のぶたか)ら宗家重臣に選定を委ねた。その結果、まず、黒石(くろいし)領分と外浜(そとがはま)の平内(ひらない)領分が内定した。さらに六月下旬から、これらの地域の検地が実施され、七月下旬に終了した。その結果、黒石領分二〇〇〇石、平内領分一〇〇〇石が打ち出された。これに不足分として上州大舘領分二〇〇〇石が加えられ、八月七日、本藩重臣の連判による知行目録が出された。この時の目録によれば、領地の内は一万石を超える(同前)。この分知配当は、幕府の命によって本家の所領を分割配当された「内分」であり、信英の領地はあくまでも津軽領の一部であるとみなされた。また、『寛政重修諸家譜』に弘前津軽家分知後も「なを四万七千石の軍役をつとむ」とあることから、幕府が「奉公」として諸侯・幕臣に課す役負担も、本藩が従来どおりに負担する形式をとった(浪川健治「黒石津軽領の性格と支配」『弘前大学国史研究』七八)。

図87.黒石領内図(上)と黒石領平内之図(下)